第六十一話 監督業は胃に優しくないお仕事です
ブラジルで十五歳以下の代表を率いている監督はまだ騒いでいる勝利の輪から足早に離脱する。ようやく自分一人きりになれた部屋に入ると、急いでタバコに日をつけて肺の底から満足気に紫煙を吐き出した。
いくら細かな規則にルーズなのがブラジルの流儀とはいえ、さすがに未成年ばかりの代表メンバーが集まっている場では堂々とタバコは吸えない。もしメディアにでも取り上げられたら「子供の健康についてどう考えているのか」と騒がれて面倒事になるのは間違いないからだ。
仕方なく自分が一人になれる自室まで我慢したが、それだけの甲斐はある。勝利の後の一服というのはいつ吸うよりも芳しく、本当に堪えられない。緊張を解いたややだらしない格好で椅子に腰掛けた姿勢のまま、吐き出した煙をぼんやりと見つめながら今日の試合を反復する。
世界大会の準決勝に勝利したのだから監督が機嫌を悪くしようがないし、その上破った相手がライバル関係のアルゼンチンというのがまたいい。どちらが南米の盟主の座に相応しいかを全世界の前で叩き込んでやったのだ。これで奴らも身の程を知るだろうし自分の手腕への評価もアップするはずだ。
「ふふふ……」
知らず知らずのうちに彼の口からは笑い声が漏れていた。
「ご機嫌ですね監督」
そこへ彼からすればあまり愉快ではない人物から声がかけられた。無感情というか機械的な響きで、発音には訛りや淀みといったマイナス面がまったくないのに温かみもゼロという抑揚のない声だ。
ノックどころか扉が開く音さえしなかったぞ。舌打ちしてだらけた体を起こすが、毎回この男が訪れる度に感じるストレスのせいか咥えていたタバコからの煙までもが急に不味くなったように錯覚さえ起きてしまう。
ついこいつもこうできればいいのにと思いつつ、タバコを灰皿へと乱暴にぐりぐり押し付けた。
「ああ、決勝への道が開かれたのは喜ばしい事ではないのかね? それとも何かご不満でもあるんですかねスポンサー様達は?」
監督は椅子を勧めようともせず、皮肉気な質問から入ったが慇懃無礼な訪問者には何一つダメージを与えられなかったようだ。試合後にまだ着替えをせずにジャージ姿のラフな服装の監督に対し、シルエットまで計算されているおそらくはオーダーメイドのダークスーツに身を包んだまだ若い男は立ったままで鉄面皮を崩さず答えた。
「いえいえ、皆さんも結果については満足していますよ。ただ……」
「ただ、何かね?」
監督が発する苛立たしげな問いは、何遍もこの男を通したスポンサーの意向に振り回された結果身に付いたものだ。この男からの伝達事項に従うと約束しなければ、選手や監督としての実績もコネも無い彼に年代別とは言え代表監督の職なんて回ってこなかった。それについては感謝しなければならないはずなのだが、それ以上に作戦や選手起用にまで干渉されるのが鬱陶しくてたまらない。
「ブラジルの財産である少年達を酷使するのは実に憂慮すべき事態だと皆さん心を痛めております。特にカルロスにエミリオといったアタッカー陣は連戦で疲労が溜まっているのではないかと大変心配しておりました」
「……それは、あいつらがビジネスやコマーシャルに打って付けだからだろうが!」
最近人気が高まりつつあるスター候補生の二人の名を挙げられて、どういう意図でこいつが訪れたのか大体想像がついてしまうブラジルの監督だった。まだ選手に平等に口出ししてくるならともかく、スポットライトの当たりにくいDF達には何も言わないのが余計に腹が立ってしまう。
例えばキャプテンであるクラウディオは国内外でも評価が高いDFだが、すでにプレミアリーグのあるチームと契約が終わっていて彼らが手出しできないようになっているため全く関心がないようなのである。
荒くなりかけた息を整え、それでもまだ選手起用について何も言われた訳ではないと一縷の望みをかけて確認をとる。
「で、話の内容はなんだよ?」
「カルロスとエミリオの二選手について決勝戦は半分の出場時間に収めてもらいたいとの要請です。そしてそれは優勝カップを掲げる事になる時間が望ましいそうです」
「つまり後半から出場させろってことか」
食いしばった歯からきしむような嫌な音が漏れているのを自覚しつつ、監督は相手が正気かどうか最後にもう一度だけ問いただす。
「そんな指示に従うとでも思っているのか?」
「彼らも連戦で疲労が蓄積してますし、アルゼンチン戦では激しく削られていたようです。前半を休ませるのはさほどおかしな作戦でもないでしょう。何より彼らを出さずにグループリーグで完勝した相手にそのぐらいで勝てなくなるような無能な監督なら、今すぐ辞任するべきだと皆さんがお考えです」
「決勝まで連れてきた監督をか?」
「ええ。ブラジルには代わりの人材はいくらでもいますから」
淡々と告げるスーツ姿の男の目には一切の嘘が含まれていない。彼の雇い主達が必要とあれば即日監督の首をすげ替える事もやりかねないと信じきっているようだ。
「わざわざ日本から買い戻した宝石やワールドカップで得点王をねらえる原石をここで勝手に壊してもらっては採算が合わなくて困ります。特にカルロスを日本から買い戻すのにいくらかかったと思います? ここで潰れてしまえば大赤字になるんですよ。それにカルロスやエミリオが負傷すれば困るのはあなたも同じでしょう。選手を使い潰す監督との風評を得れば、この後の指導者人生も困難となりますしね」
冷ややかながら明らかな脅し混じりの言葉に監督は抵抗する術がない。彼は舌打ちしながら頭の中の決勝のスターティングメンバーからカルロスとエミリオの二人を除いたのだった。
あの二人を使えないなら右サイドの超攻撃サイドバックのフランコをスタメンにして、攻めに厚みを持たせるしかないか……。
監督は不愉快な青年を二度と視界に入れないように顔を背けて考え込む。エースの二人をフル回転させるという選択肢を削られながらも、より勝率の高い方法を模索するのであった。
なに、日本とブラジルとの戦力差はグループリーグでも歴然としていた。このぐらいならハンデとはなりえないはずである。
そう自分を落ち着かせようとしながらも、絶対の自信を持っていた決勝戦に対し少しだけ不安が芽生えたブラジルの監督なのであった。
◇ ◇ ◇
山形監督も決勝戦におけるスターティングメンバーをどうするかで頭を悩ませていた。
もしも日本代表のメンバー全員のコンディションが万全ならば迷う必要はない。スペイン戦と同じチームを組んで決まりである。しかし、主力組に連戦の疲れが見えてきたのが悩みの種なのだ。
単純にコンディションのみを重視して選ぶと試合によく出ているメンバーが引っ込み――グループリーグでブラジルに惨敗したセカンドチームの出番になってしまう。
はたしてあの時と同じメンバーでもう一度戦い、そして勝てるのか? 自分の率いているチームだと贔屓目で見ても極めて難しいと言わざる得ない。
ちらりとデスクの上の小さなテレビで流しっぱなしにしていた準決勝のVTRに目をやる。
日本対スペイン戦の後すぐに行われたブラジル対アルゼンチン戦は、観戦していた山形監督や日本代表のメンバーの予想を超え、ブラジルの圧倒的な強さを見せ付けるだけの結果となった。
別段アルゼンチンが弱かったわけではない。たまたまこの年代では有名なタレントがいなかったとはいえ準決勝まで勝ち上がってきた南米の強豪国であり、相手がライバルのブラジルという事もあって戦意も高かった。
だが試合開始早々にブラジルが誇る二人の天才によって、アルゼンチンの立てていたであろうゲームプランは彼らの守備ごと粉砕されたのだ。
アルゼンチンの守備は乱暴さと紙一重のハードなやり方で有名である。当然、カルロスやエミリオといった名の知られたストライカーには厳しく当たり――そして簡単に突破されてしまった。
テクニシャン揃いの南米予選でもほぼ完封試合を繰り返してきた彼らが、ブラジルの怪物達には一対一で子供扱いされてしまったのだ。
仕方なくマークする人数を増やすと、今度はパスでかわされ厳しい当たりは反則に取られてフリーキックやPKといったセットプレイで得点される。日本がグループリーグで陥ったトラブルを繰り返すようにほぼ同じ展開になってしまったのだ。ただ、今回はブラジルにカルロスやエミリオといったよりレベルの高いメンバーがいるだけに一層事態は酷い。山形監督も一旦こうなってしまえばどう立て直していいか判らない。
結果的に序盤で守備が崩壊したアルゼンチンは最終的には退場者二人を出した上で、四対ゼロという屈辱的な敗北を喫したのだ。
試合内容も荒れ放題で、特に決勝へ進む目のなくなった後半のアルゼンチンのラフプレイは選手の育成を第一とする山形監督の顔をしかめさせるには十分だった。それこそ実力云々以前に決勝で戦うのがブラジルになって良かったとホッとするほどに。
試合後も両チームとブーイングと罵声の飛び交う観客席の雰囲気が刺々しく、とても少年達がサッカーをした後のサポーターの様子とは思えなかった。
本当は将来日本を背負うであろう選手達にもそういった楽しくない経験も積ませておくべきなのかもしれない。だがそれでも「うちの子供達があんな目に遭わなくて良かった」と思ってしまうのが、勝負師としては彼の甘い所なのだろう。
まあ過ぎた準決勝の事はともかく、まずは決勝に出る日本のメンバーをどうするかだ。山形監督はデスクに突いていた頬杖を止め、椅子にきちんと座り直し思考を引き戻す。姿勢が正しくないと、それに引きずられて発想まで曲がってしまいそうだからだ。
ブラジルはおそらく今日のベストメンバーと同じ構成で来るはずだ。それと対抗するにはどうするべきか……。
一つ考えていたのは足利や島津といった攻撃的なメンバーを後半からスーパーサブ的な扱いで投入し、後半に勝負をかけるという作戦だ。これならば彼らの体力が最後まで持つかという心配もないし、前半はセカンドチームの守備力を当てにできる。
だがこの作戦にも問題がある。松永が今日のスペイン戦で実況最後の方で喋っていたそうだが、もし前半の内にカルロスなんかに大暴れされて大量失点をしてしまったらそこで試合が終わってしまいかねないのだ、今見ていたアルゼンチンのように。
特にセカンドチームはブラジルがトラウマになりかねないほどグループリーグでやられ放題だったのだ。それがよりプレッシャーのかかる決勝で、しかも今度は前回いなかったカルロスやエミリオといったエースがいる相手を失点せずに抑えろと指示するのは酷すぎる。
山形監督は唇を噛むと、スターティングメンバーに上杉・島津といったチームにとってメリットもデメリットも大きい選手と共に足利や山下と明智などのスペイン戦と同じ超攻撃的なメンバーを並べる。
これでいい。
元々日本代表はチャレンジャーで成長の途中なのだ、攻撃することを恐れて「負けないこと」に終始した試合はやるべきではないだろう。
なに、もしこれで無残な負け方をしたならば自分が責任を取ればいいだけである。協会との契約もこの大会までだし、ここまで勝ち上がったチームの監督なのだから今後の就職活動に有利な実績にはなったはずだ。この決勝戦まで自分の首がつながっている方が予想外なのだから、最後は自分が選んで手塩にかけた選手達に任せよう。
なによりも攻撃的な選手の自主性に任せるのが次の決勝戦では最も勝率が高いと考えたのだ。なぜなら――
「世界大会の決勝でブラジルを相手にしての正面から点の取り合いをして勝てだなんて、あいつらが一番燃えるはずのシチュエーションだろ」
さすがに監督だけあって、かなり調子に乗りやすい自分の選手達の性格についてよくお判りのようだった。