第六十話 解説者の意見を拝聴しよう
いつの間にか買い換えられ、大画面になったテレビからはロスタイム間際に得点したばかりで高揚した様子の島津と足利のツーショットが流れている。
二人共満面の笑みかと思いきや足利はどこか硬い表情で、なぜか今のカウンター攻撃には関わりがないはずの守備の要である真田キャプテンに向かって「お前も大変だな」とねぎらうように親指を立てているのがやや不自然な光景だ。島津も「得点したのは自分なのに」とどこか不思議そうに日本のゲームメイカーと日本のキャプテンが目と目で労り合う会話しているのを眺めている。
それにしても残り時間が三分を切った段階での駄目押し弾の効果は大きい。
ピッチ上の代表選手達はこれぐらいの点差が付いても油断なんてしないだろう。だが、北条 真のように日本から異国で戦っている幼馴染みを応援しているだけの身にはそうではない。ずっと入っていた肩の力が抜けてほっと大きな吐息がつけるぐらい心の余裕が生じたのだ。
そこで彼女は自分が何かを握りしめている事に気が付く。あれ、これって何?
今の島津がカウンターを仕掛けようとした瞬間に思わずぎゅっと握りしめた隣に座っている足利の母の手の柔らかい感触に、しばらくどうしていいか判らずに動作が停止する。いかに仮説を組み立てても緊張のあまり自分から手を取ったのは間違いないと思い至った後にそっと手を離し、さりげなく見えるようその手で自慢の癖のない長髪を軽くかき上げる。どうやらこの少女は無意識の内に手を握ってしまったのを無かった事にしてしまうらしい。
観戦の興奮だけではない赤みを頬に残して、照れくささを紛らわすように真は口を開いた。
「アシカ達って本当に強いんだなぁ、相手のスペインだって優勝候補だったのに」
この足利家であっても幼馴染みである彼女が足利 速輝をアシカ呼ばわりするのは黙認されていた。なにしろどこから漏れたのか、彼のあだ名の「アシカ」という方が本名より売れてしまったのだから仕方がない。それにある意味選手のあだ名が本名以上に広まるのは、その力が関係者だけでなく一般的なファンやマスコミ関係にも認められたという事だと本人もそれほどは嫌がってはいないからだ。
なお同じ日本代表の中にも他にドン何とかというマフィアのボスのようなあだ名を持つ選手がいたらしいのだが、これは本人の強い抵抗にあい記事に出すのは不採用となったそうだ。そこら辺りはさすがに子供を相手にしているせいか、マスコミも意外と柔軟に本人の意向を受け入れている。
真はそんな豆知識もちょっと前まで足利の母の手を取っていたのも忘れて、「みんな本当に子供なんだから」と画面の中で無邪気に喜び合っている日本代表を眼鏡越しに眩しそうに見つめていた。
いや確かにこの年代の代表はまだ子供と言っても間違ってはいないのだが。それでも同年代の少女に言われたくはないだろう。
「これなら大丈夫そうね」
同じように試合が終わっていないにもかかわらずほっとしたように表情を緩ませたのは、真の隣に座っている足利の母である。
さっきまで真に握りしめられたその手には、ハーフタイムに注ぎ直したお茶が入っている湯呑みがある。しかし、まだ一口もつけられていないまま緊迫した試合展開により忘れられ、すっかり冷めてしまっていたのだ。
足利の母もようやく二点のリードで喉の渇きを気にする余裕ができたのだろうが、唇をつけた途端に「冷めちゃっているわね」と少し肩を落としてしょんぼりとした風情だ。
それをどう誤解したのか、真が元気づけようと答えた。
「ええと、お茶はともかく二点差もあれば試合の方は大丈夫ですよ! あ、別に私は日本が逆転する前からちっとも心配なんてしてませんでしたけどね!」
「真ちゃん……私に向けてそんな気の強いヒロインっぽく振舞われても困るから、そういう台詞は速輝が帰ってきてからにしなさいね」
ため息をついてちょっとばかり意地の悪い姑の予行演習をすると、慌てたように頬を染めて「違うんです、別にアシカに対してもいつもこんな風な言い方してるんじゃないんです!」と言い訳するどころかさらに墓穴を掘っている真に足利の母は優しい目を向ける。
「ほらほら、速輝が帰ってきてからじゃないと、そんな台詞は解説者の松永みたいにおかしなフラグを立てたと思われちゃうわよ」
その言葉通りにテレビからは、この家ではかなり嫌われている前代表監督である解説者の声が流れてきた。
『二点差がつきましたか……残り時間を考えると日本がよほどのミスをしないかぎりもうスペインの逆転はないでしょう。日本がほぼ決勝への道が開いたと言っていいですね』
『ええ、松永さんの仰る通り日本が勝利するまでカウントダウンが始まっています! それにしても敵陣深くの角度が無い位置から、素晴らしいシュートで日本の駄目押し弾が決まりましたね。まるで松永さんが「守備固めをするのならまず島津をひっこめるべき」との指摘が聞こえて奮起したかのような、DFの島津の手によって……いえ足によってロスタイムに入る直前に貴重な追加点が記録されています』
『……まあ実質三点目で勝負は決まっていましたからね。あの駄目押し弾はゴールという結果が出たから良かったものの、作戦としては彼のような攻撃的なサイドバックを外して守備固めをする方が常道なんです。最終的に一点でもリードしてればいいのであって、四点目が入ったというのはカウンターのおまけでありあまり重要ではありませんね』
『なるほど得点しても相変わらず辛口のコメントですが、その松永さんでさえも日本の勝利は間違いないと太鼓判を押してくれれば安心できます。おっと、ここでスペインの速攻になりましたがまるで何かスイッチが入ったかのように、酔いどれドン・ファンと船長フェルナンドの二人が日本陣内を切り裂いていく』
ここで酔いどれと船長のスペイン二枚看板が最後の力を振り絞っての執念のゴールを上げ、強豪国としてのプライドを見せつけて残り時間が僅かながら最後の追い上げを図る。
『……あーっと! スペインの見事な攻撃に日本は一点を失ってしまいました。これはさすがに優勝候補としての底力なのかそれとも意地なのか、どちらにせよすごい粘りですね。
しかし、まだリードしていますし時間ももうほとんどありません。日本のイレブンもサポーターも気落ちする必要は全然ないんです。松永さんは重要ではないと仰いましたが、島津による四点目の保険があって助かりました! おかげでスペインに追いすがられていますがきっと日本は大丈夫ですよね、松永さん』
『いや、これは明らかに日本の守備の気が緩んでるのが失点した原因ですよ。終了直前は一番点が入りやすい時間帯なんですから。そこで点を取られるなんて監督が上手くチームを統率できてないんじゃないですかね? これではもしかしたら追いつかれる可能性も――』
松永の言葉を遮るように今度は審判による試合終了のホイッスルが鳴り響く。
なんとなくではあるが夏の陽気のはずなのに、実況席の中は肌寒い風が通り過ぎていったような雰囲気だ。
アナウンサーが咳払いして、口をつぐんでしまった松永の代わりに収拾に取り掛かった。
『こほん。……えーと、これで試合終了です。日本代表は四対三のスコアで見事にスペイン代表を下しました。両代表によってビューティフルゴールの量産されたこの試合、視聴者の皆さんもご満足されたのではないでしょうか? 決勝戦も是非彼らの活躍をご覧のチャンネルでお楽しみください。
さて、それにしても日本代表の得点者は松永さんが派手だと仰っていたメンバーがほとんどでしたね。特に足利選手などに対しては「セットプレイが決められない」とフリーキックの後でも主張していましたが、結局コーナーキックを直接入れてしまいましたが』
アナウンサーが大雑把に試合を総括してちくちくと松永に対する攻撃を始めたが、ようやく終了後のフリーズから再起動した彼は意に介さない。まるで直前までの自分の発言を全て忘れているような悠然とした態度で冷や汗まで引っ込んでいる。
『……さて日本代表の次戦は決勝になりますね。正直トーナメント表を見たときは厳しいと思っていたんですが、山形監督もよくここまで私が基礎を作ったチームを率いて勝ち上がってきたものです』
まるでアナウンサーの言葉が聞こえていないように華麗にスルーして別の話題を振る松永解説者。アナウンサーが「え?」と口を開けているのに勝手に次の試合についての話に巻き込んでしまう。
『対戦相手の決まるもう一つの準決勝の方はまだでしたよね?』
『え、ええそうです。決勝の相手は、これからすぐに行われる南米対決となるブラジルとアルゼンチンの試合の勝者ということになりますね』
アナウンサーもこのまま醜い争いをするのを視聴者に見せるのはまずいと折れたのか、それとも実況席に同席しているはずのディレクターからの指示なのか話を次の試合にシフトさせた。
『両チームとも優勝候補ですが、南米予選とこれまでの試合を見る限りブラジルが決勝の相手になるのは間違いないでしょう。
そしてそのブラジルでも最も警戒すべき選手は、やはり私の元教え子のカルロスしかいません。元々速かったあいつのスピードには成長に伴い更に磨きがかかっていますよ。そして本場で随分と揉まれたんでしょう、速さだけでなくフットボーラーとしての強さも高いレベルで兼ね備えています。日本にいたころより遙かにスケールアップしたあのスピードスターをどうにかしないかぎり、序盤でゴールを量産されて試合が決まってしまいかねません』
なぜか日本の勝利の後だというのに、まだ決まっていない仮想敵であるブラジルを詳細に語り出す前監督のはずの解説者。それを引きつった笑顔で拝聴するアナウンサー。
文句が相当くるかと覚悟していた番組担当のディレクターだったが、番組終了した直後に届いたクレームとそれに匹敵するほどの多くの「もっと松永にブラジルを褒めさせろ」という日本代表サポーターからの頼みに首を捻ることとなる。
まあ視聴率はいいし、決勝戦も解説は松永でいいかと業界特有の結構気楽なノリで決める番組担当ディレクターだった。
――三日後の決勝戦の開始直前、松永の解説を覚えていたある意味熱心な視聴者でもある真と足利の母は彼の予言の恐ろしさを思い知ることとなる。
決勝の相手としてピッチで日本代表と対峙する敵イレブンの中に、カルロスの名は無かったのだ。