第五十八話 本当にDFなのか確かめよう
スコアは三対二と日本が一点だけリードしている有利な情勢。後は後半の残り五分間とロスタイムだけの僅かな時間を守りきれば決勝戦へ駒を進められるのだ。
そんな状況でこの相手が黙って見ているはずがない。
スペインも強引なまでに圧力を強めて点をもぎ取りにやってきた。
だがこれまでの国のように、いきなり日本のゴール前に人数とボールを放り込むといった運任せのパワープレイではない。
スペインのDFラインをそれこそハーフウェイラインまで引き上げた、チーム一丸となっての前掛かりな攻撃である。他のチームならともかく、全員が高いボールテクニックを持つスペインにこれだけ全体的にラインを上げられるとこっちも辛い。
なぜなら最後方のDFですら今日の試合での日本で言えば、明智といった攻撃の起点となるポジションの役目を果たせるだけの技術を持っているからだ。そんな後方に前線へパスを配給するメンバーが複数いて、さらに前にはそれ以上に危険な司令塔である酔いどれや船長がシュートもアシストも狙える位置にポジションを上げているのだ。
いくら山形監督がベンチから「DFラインを下げるな!」と叫んでも、日本の守備がじりじりと押し込まれるのは防ぎようがないじゃないか。
俺までもがマッチアップしている酔いどれに付き合わされて、普段は石田がいるはずの中盤の底――いやDFラインの一歩手前にまでポジションを下げている始末だ。
ここまで人数が日本陣内に密集する状況ではさすがのスペインも完璧にパスを通すのは難しい。これまでも何度かボールを奪い、反撃するチャンスはあった。
しかし、その手段が制限されてしまっている。極端に前に設定されたスペインのDFラインはただ無策にその裏へ放り込んでもオフサイドになるか快足DFに追いつかれるだけだ。
相手がここまで前へラインを上げていると日本が取れる反撃はカウンターの一択となる。しかし、こうなるとカウンターの矢となるべき上杉が特別俊足でないのが痛い。
だが、日本には上杉以上に決定力があり、スペインに警戒心を抱かせるFWは存在しない。相手に与えるプレッシャーを考えるとそうそう交代もさせられないだろう。
ほら、今また敵の強引なシュートをDFが防いでそのこぼれ球を俺が抑えたにも関わらず、パスの出しどころがどこにもない。
ここまで人口密度の高い場所ではいくらなんでも相手陣まで抜いていくこともできないし、大きく外へクリアするしかないか……。
ピッチの外へ蹴りだそうとする俺の脳内スクリーンに、今まさに敵のオフサイドラインを破ろうとする少年が映った。
「島津!」
酔いどれからのプレスに体勢を崩しながら右サイドの裏へとボールを蹴り出す。このコースにボールを出せば、たとえ島津が追いつけなくてもピッチの外に出てクリアにはなるはずだ。
中央では上杉が「なんでや!?」と叫んでいるが、お前のいるそこにパスしたらオフサイドじゃないか。もう一度下がって――いや島津が抜け出したんだ、少しだけあいつに遅れてゴール前に走れ!
この押されっぱなしの局面で、なぜサイドバックの島津がウイングの山下先輩より前にいるのかはおいておき、このカウンターに俺は手応えを感じていた。
カウンター攻撃が成功するかどうかではなく、ボールがスペイン陣内へ入った瞬間に真田キャプテンが怒鳴った「上がれ」という指示に残った日本のDFが一斉にラインを上げたのが目に入ったからだ。
あれだけ攻められっ放しでもまだ統率は失われていないし、逆にスペインの何人かはオフサイドの位置で置き去りにされているじゃないか。
しかも島津の後を追うよーいドンといった短距離走のスタートとなった場面では、向こうのDFの中にも足取りが重い奴がいる。
やはり強豪国とはいえ同じ人間でしかも同世代なのだ。逆転された後に全力で攻めていたスペインの選手はこれまで見せなかった疲労を隠しきれなくなっている。
後半の残り時間も僅かな体力面で最も厳しい場面であるが、体力の消耗が激しいはずのサイドバックである島津がまだこれだけの足を残している理由は言うまでもない。――守備してないもんなぁ、あいつ。
そのせいかもしれないが、もう足を止めた真田キャプテンや武田といった日本のDFからは「いけー島津! 点が取れなかったら帰って来るな! いや待て、逆だ逆。点を取っても取れなくても守りに帰って来てくれ。頼む!」と応援しているんだか嘆願してるんだか判らない叫びが聞こえてくるのだ。
これだけ守備に負担をかけているんだからゴールに繋げろよ、島津!
声援を背に受けて島津は加速する。
背は俺より低く、ほぼ酔いどれと同じくらいというピッチで最も小柄な体格にもかかわらず、こいつは初速だけでなくトップスピードも高い。なおかつスタミナも残しているものだからスペースがあると、興奮した猟犬の如く涎を垂らさんばかりに喜んだ様子でドリブルをしている。
その後を追いかけている敵のDFや上杉までもが、なかなか距離を詰められないほどスピードが乗っている。前に誰もいないせいかボールを長く蹴りだしてはタッチ数の少ないドリブルで右のサイドライン沿いを爆走している。
よし、そろそろ中央に待つ上杉に折り返しても良いタイミングだ。
そう島津も思ったのか、スペインゴールへ視線を向けて――そのまま自分で突っ込む。
ここまでのカウンターでのドリブルとカットインが速すぎたため、日本からは上杉ぐらいしかその動きをフォローしきれていない。
二列目の俺だってパスを出した後体勢を崩してしまったからスタートダッシュが遅れたんだ。交代投入された左サイドは守備に追われて反撃の機微を感じる暇もなかった。今回はお前ら二人だけでフィニッシュまで持っていってくれ。それならシュートを外しても文句は言わないからさ。
さすがにペナルティエリア付近までは敵も簡単に近寄らせてはくれない。いくら強引な島津でもここが最後の砦だと、追いついたDFがきっちり固めた姿に躊躇したのか中央行きの針路を再び変更する。
するととドリブルが少し長すぎたのかエンドラインぎりぎりまでたどり着いてしまった。これ以上進めばスペインのゴールキックになってしまう。
だからいい加減折り返せって。
その焦りを含んだ心の声が聞こえたのか島津がようやくスペインゴールに向けてボールを蹴る。
出すなら高さでは上杉は敵DFに対抗できないと判っているのか、この試合では多用される速く鋭いクロスだな。ニアサイドからキーパーの手を逃れるようにして走り込んだ上杉へ――そう期待していた俺の予想は裏切られた。
島津が思いきり蹴ったのはパスではなく明らかにシュートだったのだ。
おそらく折り返して来ると飛び出しかけていたキーパーが、慌てて狭い範囲に重心を移して手を伸ばすが間に合わない。
ほとんど角度がない位置からの無理矢理なシュートがスペインのゴールを奪ったのだ。
一人咆哮を上げて元気に日本のサポーター席前へダッシュする島津。一拍遅れてようやく、歓喜と祝福の声を上げて俺達がその後を追う。さっきまでの速攻の後追いするより明らかに足取りが軽くなっているな。
サポーターへ高々と人差し指を掲げて自分が一番だとアピールする島津の姿は実に堂にいっている。普通DFには得点した後のポーズなんかに慣れないもんだけどなぁ。
ま、今はあいつには何も言えない。ほとんど独力でゴールを強奪したのだからどれだけ格好をつけても文句が付けられないのだ。
ようやく集まった皆に頭と髪をサポーターの目の前でぐしゃぐしゃにされた島津はどこか照れくさそうだった。とてもさっきまでDFのくせに強引な突破をして無理やりゴールを奪った奴とは思えないほど、プレイ面以外では本当に真面目で大人な少年なのである。
それにしてもよく最後のシュートを撃ったものだ。入ったから良かったものの外れてたら――その可能性の方が遥かに高かったはずだが――なぜパスを出さなかったとかなりバッシングされたはずだ。
しかし島津はそんな事など気にも留めていない様子でフィニッシュまで持っていった。その事に最も不満を募らせているのは囮に使われたこの少年だろう。
ふざけている風に島津へ肩を組んだ姿勢から、絡めた腕に力を込めてじりじりとヘッドロックに移行しつつ上杉が口を開く。たぶんこの会話はすぐ近くのチームメイトぐらいしか耳に入らないだろう。
「あそこから撃つぐらいやったら、ワイにパス寄越せや」
周りにおかしく思われないようもちろん彼は笑顔を貼り付けたままだ。
「むう、しかしあそこでボール持っていたのが上杉ならばどうしていた?」
「そりゃ……撃っとったけどな」
「そうだ、もしあそこで撃たないならそいつはストライカーの名を返上しなければいかんだろう」
「そ、そやな」
なにやら納得したのかすっきりした表情で組んでいた肩を解く上杉だが、お前の隣の少年はDFだからな。最近チーム全体で忘れかけているが、島津はストライカーじゃないんだぞ。
突っ込もうかと迷っている時に島津が俺の方へ振り向く。
「アシカも有難うな。お前の助力がなければ得点は難しかった」
「え、俺はきっかけに適当なパスを出しただけで完全な島津さんのワンマンゴールでしたが……」
「ああ、その前のアシカのコーナーからの得点でスペインのキーパーはあの角度からのシュートに弱いと判明したからな。だから迷わずにシュートに専念できた」
「いや、その理屈はおかしいです」
どうやら俺の島津に対する個人的評価は変人度と攻撃力を大いにアップさせなければならないようだ。
ざっと脳内からチームメイトである島津の評価欄を確かめると「積極的に攻め上がるシュートとセンタリングの精度が高いサイドバック。長所としては同じ右サイドでウイングの山下先輩より攻撃参加が多いぐらい意欲が高く、終盤までオーバーラップとドリブルのスピードが落ちない。欠点としては守備をしない、というよりDFなこと」とあった。
……改めて考えると、これってDFのデータじゃないな。
頬を引きつらせる俺に対して首を傾げる得点したばかりの超攻撃的サイドバック。いかん、少しは嬉しそうな姿を見せなくてはと親指を立てる。
嬉しそうにグッジョブと親指を立て返す島津だが、こいつをDFの一角に擁しながら守備を安定させている真田キャプテンに対する尊敬の念が、得点した島津以上に深まったのだった。