第五十六話 頭を空にしてみよう
俺達日本代表は急にテンポアップしたスペインの猛攻を受けていた。
これまでの試合中において相手が使用していたパスやコンビネーションも十分にハイレベルだったが、今の怒涛の連続攻撃に比べると色褪せたように思えるほどだ。
どうやら酔いどれが開幕直後にゴールしたせいで、無敵艦隊は本気の攻めという物を追いつかれる今までしていなかったらしい。
ギアが一段上がったように互いへのパススピードがよりいっそう速くなり、たとえ俺達がボールを持ち守備に回ったとしてもマークは一歩早く詰め寄られプレッシャーはどんどん強くなっていく。
世界に名高い無敵艦隊が、総員で張った帆に追い風を一杯に受けての全力アタックを開始し始めたのだ。
対する日本はかなり忙しい。
ゴールこそ許してもいないものの、一方的に押し込まれカウンターの目処も立たないサンドバッグ状態になってしまっている。
なにしろやっと同点に追いついたと意気が上がった途端、相手がいきなり一段ギアを上げたのだからその盛り上がりに水を注されてしまった。おかげでディフェンスの責任者である真田キャプテンは声を枯らして味方に檄を飛ばさねばならないのだ。
「絶対に引いてオフサイドのラインを下げるなって! 一歩でも引くとそのまま押し切られるぞ! 石田と連携してスペースを埋めるのと侵入者を潰すのは俺がやるから、お前達はゴール前にいる人間に付け。ここが勝負所だ、全員集中するんだ! ……それから島津には今言ったゴール前ってのはうちの事だから勘違いするなと、スペインのキーパー近くにいるあいつに伝えてくれ」
最後はディフェンス陣の問題児のせいでちょっとしまらなかったが、真田キャプテンの強い意志の込められた命令に俺を含めた日本のチームメイトはやっとの事で地に足が着く。
やっぱり国際試合の経験が一番豊富なだけに頼りになるぜ、うちのキャプテンは。
俺はこれまでのチームではいいキャプテンにばかり当たっているよな。いや、まあ日本代表のキャプテンが碌でもない奴のはずがないか。
これまでは代表チームの失点が多いからと過小評価していた真田キャプテンの評価を引き上げて、俺は自分の仕事に戻る。
俺のやらねばならない仕事とはボールが回って来ないために開店休業の攻撃に関してではない。真剣になった酔いどれとのマッチアップである。
こいつは自分が抜かれたり、ボールを奪われたのがかなりプライドに触ったのかムキになったようにやたらと個人技での突破を仕掛けてくるのだ。
終盤の足に疲労の溜まる時間帯に「さあ行くぞ」とばかりにドリブルで勝負を挑まれると少々辛い。
もちろん俺もこいつとの一対一は望むところなのだが、それよりも今は日の丸を背負った代表戦なのだ。俺がではなく日本が勝つことを優先しなければならないからな。
現在の俺が酔いどれと真っ正面から戦って勝てる確率は低い。なんとか勝算が五分以上になるような計算が立ってから戦うようにしなくては。
そのために酔いどれがボールを持って突っかけてくると、自分の準備より先に石田や明智といった面子をフォローとして呼ぶようにしている。
相手の酔いどれは俺が仲間を呼ぶと口を尖らせておもちゃを取り上げられた子供の顔付きになるが、すまないなこれ以上のワガママは諦めてもらおうか。
残念ながら彼は諦めてくれなかった。
それどころか周りの敵が連携して俺との一対一を実現させるように動きやがる。
酔いどれの近くからは人を消し、彼からのパスが通りそうな少し離れた場所へと配置する。その敵を一人一人マークしようとすると、中盤の人数が多いフォーメーションを採用しているスペインが相手では日本はディフェンスの人数が足りなくなってしまう。
必然的に俺のバックアップをするか、それとも危険そうなスペースへ走る敵の選手をマークするのかといった二者択一を中盤の守備役である石田や明智にさせることとなるのだ。
ちなみに明智はゴール前を窺う勢いの「船長」フェルナンドについていってすでに俺からは離れている。確かにあの決定力と展開力を兼ね備えた船長を日本陣内でノーマークにするわけにはいかないから妥当な判断ではあるだろう。
しかしそれで俺へのフォローが心許なくなったのは否めない。さらに石田までも引き剥がそうとスペインがパスを回しながら機会を窺っている段階だ。
そこで不意に酔いどれがボールを持ったまま鋭いドリブルで突っ込んできた。
俺は一人で対処するのは避けて、正面から斜めに圧力をかけて徐々に石田のいる方面へと下がりながら追い込んでいく。もちろん前に使った作戦の焼き直しでもあるが完全に抜かれないようにするよりは、抜かれるコースを限定する方が遥かに難易度が下がるから有効なはずだ。
まだ石田が俺へのフォローから外れていない段階だったから取れた手だが、とうとうこいつも痺れを切らしたのだろう。いくらこれまでは一対一で負けた経験がないとはいえ若すぎるぞ酔いどれ。
よし、上手く石田と二人で酔いどれを挟み込んだ。
そう確信した刹那、ボールが俺と石田の間を通り抜けていく。
ちょうど俺は石田とぶつからないよう、そっちの足に体重をかけたばかりで足を伸ばして止めることができない。
横の石田も同様なのか表情が強ばっている。そのボールが通った道を正確になぞるように、酔いどれの小さな体が二人の間のボール一個分ほどしかない狭い隙間をすり抜けようとしていく。
くそ! 舌打ちするがダブルチームなら止められると油断したつもりは毛頭ない。
だがほんの僅かな間、俺は酔いどれだけではなく味方である石田との距離を測った。その隙とまでは言えない一瞬の呼吸の乱れを見逃さずに突かれてしまったのだ。
逃がすまいと俺と石田がユニフォームへ伸ばした手をかき分けるようにして振り払う酔いどれドン・ファン。彼がその作業をこなす間に少しだけボールが足元から離れる。
時間にしてゼロコンマ数秒程度、距離にして一歩分。
俺達二人が邪魔できた時間はせいぜいそれだけでしかなかったが、けして無駄ではなかった。
いつの間にか俺達の後ろに戻っていた明智のスライディングによって、酔いどれが持つボールをピッチから外へクリアできたからだ。
凄ぇ、このタイミングで戻ってくる明智の守備センスや戦術観も感心するが、何よりあの船長を日本のゴール前に放り出してくる度胸が並ではない。
額に浮かんだ冷や汗混じりの汗を拭い、ちらりと確かめると船長の横には真田キャプテンが張り付いていた。いつの間にか二人できっちりとマークの受け渡しをしていたらしい。
しかし、俺と石田の二人がぴたりと張り付いていたつもりだが、それでも酔いどれ相手ではなお振り切られそうになるのかよ。
守備がこれだけ献身的にやってくれてるんだから俺ももっと気合いを入れないといけない。
いや、それ以上に他のメンバーまでが俺をフォローする為に必要だとすれば相当マズい。これからもし酔いどれが囮になったプレイをされれば間違いなく日本の守備網に穴が空く。
これは試合前に覚悟していた世界の頂点レベルとの戦いなのだ。例え厳しくとも俺が越えなければいけない壁だろう。
よし。
「石田さん、もう一度俺に酔いどれと一対一をさせてくれませんか」
「……勝てるのか?」
「理論上は完璧です」
口には出さなかったが前日にした脳内でのシミュレーションでは俺が酔いどれに圧勝して負ける要素がなかったのだ。なのになぜか今日の実戦の場では明らかに形勢が不利である。予想と妄想の区別が付いていないと指摘されれば一言もないが、あまりにも想定と事実と異なっている。
これはやはり酔いどれのアドリブ能力の高さと、俺が描いていたイメージと実物との間に齟齬があったせいだろうな。相手の情報が多くてもそれに振り回されて処理し切れていなかった。酔いどれと直接対決するのは初めてなのだから、試合前から何もかも見通したつもりでいるのは傲慢すぎたのだ。
俺がいるこの世界はすでにバタフライ効果のせいか、すでに色々な変化が顕れている。
だから俺は酔いどれを未来の名選手のまだ未熟な卵としてではなく、それに似た現在俺達の世代で最高のファンタジスタとして向き合わなければいけなかったんだ。
相手のデータはすでに頭に焼き付いている。しかし、これからはそれをいったん消去して予断を持たずに戦うべきだろう。
なあに、大丈夫。酔いどれとのマッチアップはトレーニングの一環として毎朝のように頭で描いていたんだ。頭では忘れても体の方はたとえ相手が未来の酔いどれであっても反応はできるように鍛え上げてきたはずである。
こう覚悟を決めても敵が酔いどれを使って攻めてこなければ無駄なのは判っている。だが、俺は必ずスペインが彼にボールを集めてくると踏んでいた。
予選前までは調子の上がらなかったスペインを、一気に優勝候補の一角に引き上げたのは間違いなくあの小柄なテクニシャンだ。そして今日の二得点の原動力も間違いなく彼なのだ。
国際大会の準決勝で残り時間が少なく、同点というこの状況でジョーカーを切らないチームはない。
――よし来い! 酔いどれドン・ファン、俺と一騎打ちだ。
俺の心が伝わったかのように、またもやスペインの天才少年がボールを受けとるとドリブルで突進してきた。
今度は味方へフォローを頼むのは止めて、深く息を吸い腰を落として目を凝らす。踵が軽く浮いて両腿とふくらはぎの筋肉が盛り上がる。
ここが天王山だ、俺がこいつからボールを奪ってさらに抜ければ日本は勝つ。いや、万一俺が抜かれたとしても日本は負けないけどね。
一方的に自分が有利な賭けを天に預け、俺は酔いどれとの勝負に集中しようとする。おっと、その前に監督のアドバイスを忘れるところだったな。
唇を釣り上げて相手を見ると、酔いどれも鏡に映したように牙を剥いていた。どうやら一対一になるのがお気に召したようだ。
やっぱりどこか似てるな。
いや俺がプレイを真似したからこいつにスタイルが似てきたのか。とにかく、この一対一を終えた後でも笑っていられるのは俺の方だぜ。