第五十五話 信頼は壊さないようにしよう
審判が指し示したポイントへ慎重にボールを設置する。これまでと同様に自分が蹴る場所へ空気穴が当たるようにするのは、ほとんど習慣と化しているので忘れたりはしない。
偶にそこを蹴らなくてもあまり変わりがないとアドバイスしてくれる人もいるが、すでに空気穴を蹴るのがフリーキックの極意だと頭に刷り込まれている。だからそうじゃないとなんだか忘れ物をしたようにもやもやしてキックに集中できないのだ。
最近のボールはどんどん進化して変化しやすくなったが空気穴が判りにくい物も増えた。俺としては製図技術の進歩は嬉しいが、穴が一目で判るタイプが好みである。
さて俺の嗜好はともかくとしてこれまでさんざん世話になった馬場が身を削ってまで手に入れたフリーキックなのだ、無駄にするわけにはいかないよな。
壁を作るスペインの選手達を眺めて大きく深呼吸をする。こいつらも日本国内で戦う相手に比べたら大きいのだが、これまでに世界大会で当たった奴らほど俺のサイズとかけ離れてはいない。ここからならば壁が作られていても十分にゴールを狙える位置と角度だ。
おそらくボールを置く様子などから間違いなく俺がキッカーだと予想されているだろうが、それでもなおゴールできる確率を高めるだけの技術を俺は所持している。
そうブレ球である。小学生時代から使い続けていた俺のフリーキックにおける切り札は、経験を積むのと同時に体が成長するのに伴いキック力が増すに連れ、少しずつ薄紙を重ねるようにその威力を上げていった。
ボールのブレ方や落差も今ではやり直す前の自分を完全に越え、納得できるレベルにまで仕上がっている。
ただ一つの不安要素はそれをおおよそのコースでしかコントロールできないということだが、蹴った本人もどこに行くか判らないボールの行方をキーパーが読めるはずないだろう。
審判が笛を鳴らした後、俺が丁寧にセットしたボールをもう一人のキッカーである明智が蹴る素振りを見せて通り過ぎる。
囮の明智が通った後で踏み込むと、上体を折りたたみ思い切り右足を振り抜いた。
助走をつけた自分の体重が全てパワーとなってボールに乗り移ったような、甘い痺れを伴う最高の感覚が蹴り足へ残る。
これならば! 伏せていた顔を上げて「入れ」と祈りつつシュートの行方を見守る。
狙い通りにジャンプした壁の上をギリギリで通過すると、そこからは不規則にボールがブレる。力とスピードがあればあるだけ揺れるこいつはそう簡単には止められないはずだ。
スペインのキーパーも俺が蹴ると読んで待っていたんだろうが、その彼の必死に突き出した拳をボールが枯葉のようにすり抜けていく。
よし、ゴールだ! ガッツポーズをとりかけて緩みかけた俺の頬がその直後に凍りつく。
揺れたボールはキーパーの手をすり抜けるとさらに曲がり、ゴールポストを直撃したのだ。
くそ、あんなに曲がらなくてよかったのだ。ほんの五センチでいいから内側に入ってくれてたらそのまま俺の得点になっていたのに!
舌打ちしながらもこぼれ球を押し込もうと、フリーキックで足を振り切った姿勢からすぐにダッシュへと切り替えようとする。
しかし俺からボールまでは当然ながら敵の作った壁を隔てていて、クリアされるまで間に合いそうもない。
こういう時に一番頼りになる上杉は、今回はマークが恋人を抱擁するかのようにがっちりとしがみつかれていて動きがとれていない。
だが、ここで頼りになる俺の兄貴分が動く。
山下先輩はまるで俺のシュートがバーに直撃するのを予想していたかのような素晴らしい反応速度で、跳ね返ったボールを膝と腿の中間辺りの部分で蹴るというよりもそのまま体ごとゴールの中へ押し込んだのだ。
スペインゴールに自分もボールともどもネットに手足が絡むほど突っ込んだが、審判のゴールを認める笛を耳にしたら猛然ともがいてはネットを振り払い俺と味方の待つ方へと走ってくる。
当然俺達だって待つんじゃなくて、殊勲者を迎えに行くに決まっている。
全員が抱きついたり肩や背中を叩こうとするが、それよりも先に山下先輩が俺達にかけた第一声は――。
「アシカなら絶対にバーに当ててボールが戻ってくると信じていたぞ!」
……い、嫌な俺に対する信頼感だな。
小学生時代、特に最初の頃にシュートをバーに当てまくっていた頃からコンビを組んでいる先輩はこれだから敵わない。あの時と違って俺は今は決定力だって相当高くなっているんだぜ。
今回はブレ球だったから狙いが多少ズレるのは仕方ない面が大きいんだよ、そう言い訳が口から出そうになる。
だが得点した直後喜んでいる先輩にそう突っ込むのは無粋だろう。
「ナ、ナイスシュートです山下先輩」
だけど賞賛の声が裏返って笑顔は引きつり、先輩の背中を叩く力がいつもよりちょっと強くなっても大目に見てくれよな。
これはベンチで立ち上がって拍手している馬場の分も含んでいるんだから。
足にアイスパックを巻き付けたピッチ上では黒子役に徹していた左ウイングに、俺はそっとガッツポーズを送った。うん、立ち上がっているって事は怪我の影響はなさそうだな。
ほっとして味方のガッツポーズしている向きにも気が付く、俺だけじゃなく皆が馬場へ「お前の穫ったファールで得点したぞ」とアピールしてるじゃないか。やっぱり一緒のチームにいる連中は、あいつが居てくれるありがたさが身に沁みているからだろう。
……でも山下先輩と馬場がこんなに祝福されているんだからフリーキックを撃った俺も、その、なんだ、もう少し誉めてくれてもいいのにな。
あ、痛てて。
いや、今のグチは別に背中への紅葉が欲しいって訳じゃないですって山下先輩。さっきの一撃が効いたからってこんなお返しはいりませんよ。
◇ ◇ ◇
「同点、同点です! 足利選手のフリーキックがゴールポストに直撃したそのこぼれ球を、山下選手がまるでそれが判っていたかのような見事な反応で押し込みました! 後半十五分、ついに日本が追いつきましたね松永さん!」
「……ええ見事なゴールでした」
「松永さんが足利のセットプレイでのキックは入らない可能性が高いとおっしゃった時は、ちょっと心配でしたが結果的には日本のゴールとなりましたね!」
喜びの声の中にも若干解説を責める響きがある。額に大粒の汗をかきながら、松永は焦ったように反論し始めた。
「ほ、ほら足利のキックその物は入らなかったでしょう? 確か彼のセットプレイにおけるキックは狙いが正確な割に小学生時代から決定力が足りなかったんですよ」
「そうですか?」
アナウンサーはごそごそと手元の資料をかきまわす。
「最近――とは言ってもここ一・二年の話ですがかなり足利選手はフリーキックでもブレ球を武器に得点していますよ。松永さんはいつの事をお話になっているのでしょうか?」
「あ、じゃあ……そうだ! 私が彼に決定力不足を指摘した後きっと猛練習したんでしょうね」
「え? でも足利選手は松永さんとは挨拶ぐらいしかしたことがないとか……」
「……サッカーに限らずスポーツを教えるのには言葉だけでは伝えられないこともあるのです」
なにやら精神論どころかオカルトじみた事を言い始めた松永にアナウンサーが「それってもうテレパシーとか超能力の類では」と突っ込みかけた所へ松永が言葉を被せる。
「ほら、それよりも試合がすぐに再開されますよ。実況アナウンサーが応援をしないで余談で気を逸らしてどうするんですか!」
「そうですね、今審判の笛が吹かれスペインボールで試合が再び動き出そうとしています。松永さんへの追求は試合後にでもまとめてするとにして、同点に追いついた日本代表のこれからの戦いぶりに注目しましょう」
強ばった表情で「後で追求はするのか……」と呟いた松永だったが、すぐに頭の上に豆電球が点灯したような明るい笑顔を作る。
「とにかくゴールを決めたのは山下ですが、そのきっかけとなったフリーキックを得られたのは馬場のおかげです。足利や得点した山下だけに焦点を当てるのではなく、もっと広い視点で多くの選手を応援して欲しいものです。トリッキーなプレイで目立つ足利や明智によく得点している上杉や島津や山下といった派手な選手が活躍できるのも、地味な仕事を労を厭わず他の代表選手も全員で頑張っているおかげなんですから」
松永の言葉は尤もである。だが彼が名前を挙げた、派手だという選手は山形が代表の新監督になってから抜擢された者ばかりな所から目論見が透けて見える。彼ら以外の選手は前の代からいるのだから、昔の松永指揮下の代表チームのメンバーこそが土台になっていると言いたいのだろう。
それは一面事実ではある。
だが、それは前のチームを率いて結果を残せなかった監督の言って良い台詞なのだろうか?
アナウンサーがその考えを公共電波なのでマイルドにして口に出そうとする前に、松永監督がさらに言葉を続ける。
「なんにせよ、日本は同点に追いついたこの勢いで一気に勝ち越しまでしておきたいところですね」
――この台詞の後、もちろんスペインの強烈な逆襲が始まったのは言うまでもない。