第五十四話 黒子役にも注目しよう
後半が始まってしばらくしても、ゲームは前半と変わらず両チームの間で流れが拮抗していた。
日本・スペインともにメンバーの交代や戦術の変更などといった積極的な変化を選ばなかったのだから、これはある意味当然だとも言える。
こっちには酔いどれに対するマークを厳しくしたりするなどの細かい修正点は幾つかあったものの、敵であるスペインも同じように微妙な変化と対応をしてくるのでスコアが動くような派手な展開にはならないのだ。
だがこのままではジリ貧になるのは自分達の方だとピッチの上に立っている俺達日本代表には判っていた。
中盤のパス回しのスピードで優るスペインに、少しずつついていくのが困難になってきているのをやっている本人達が誰よりも実感しているからだ。
これまでこっちは体力配分なんて考えずにアクセル全開で走っていた。だからなんとか技量が上のスペインにも対抗できていた。しかしレベルが上の敵と互角に戦うために、相手よりも運動量を増やすことで辻褄を合わせていくのはどうしてもいつも以上に急速にスタミナを減らしていく。
試合が進んでいくに連れてどんどん日本の消耗が激しくなり、スペインのペースについていくのが厳しくなっているのだ。
後半も十分が過ぎたほどの時間帯に俺は少なからぬリスクを犯す決断を下す。
これ以上均衡状態を保つのは難しい。今の内に同点に追いついておかなければ、仲間の体力よりも先に気力の方が萎えてしまう。
どちらもパスワークが冴えて、しかもクリーンな試合内容であるために時計が止まる事が少ない事さえマイナスに働いてしまっている。一息を入れる間がほとんどなく、通常の試合以上のオーバーワークを強いられる日本のイレブンにはすでに疲労の色が見え隠れしているのだ。
半ば見切り発車だが、俺は勝負をかけようと仲間にハーフタイムに話し合っていた合図を出す。
その指示に従い、微妙に位置を変える日本のメンバー達。もちろん試合中の最適なポジションからこのプレイの為に僅かな間とは言えフォーメーションからずらしているのだから、早くお役御免にして元の位置に戻さなければならない。
そしてこのタイミングで酔いどれにパスが回る。
うん、それは予想していたよ。今の俺の指示でほぼ前回の一対一の時と同じ俺達が孤立した状況ができあがっているからな。個人の戦いに絶対の自信を持つ酔いどれだったら自分へ寄越せとボールを要求してまた抜こうとしてくるよね、そりゃ。
俺も覚悟と策を胸中に秘めて彼の前へと立ちはだかる。
今度の対峙は十秒で決着が付いた。
完全に体勢を崩された俺が抜かれた、そう酔いどれが思ったはずの瞬間に罠が口を開く。
この場から離れていたはずの石田が、いつの間に近寄っていたのか酔いどれから死角になる俺の真後ろから出現したのだ。
例え俺が酔いどれを一人で止めることが出来なくても、抜かれるのが右からか左からかという風にコースを限定はできる。そこにうちで一番運動量の多いアンカーのこいつを呼んでおいたのだ。
一対一に集中していた酔いどれは地雷がセットされていたのに気が付かなかっただろう、ディフェンス専門の石田だけあってドンピシャリの襲いかかるタイミングである。
だが、ここで酔いどれは急停止する。
しつこいマークが外れて、振り切ろうと今まさにスピードに乗ろうとした体勢からの急ブレーキである。普通の選手なら止まれない。いや、止まろうとしてもつんのめるどころか芝で足を滑らせてもおかしくない。
相当な選手でも、自分の体が出現した相手にぶつからないようにするだけで精一杯でボールまではコントロールできないはずだ。
だがスペインの若き天才の強靱な下半身と高度な技術は、その小柄な体とボールを同時にストップする事を可能とした。
ここで慌てた様子になったのが石田である。作戦が嵌ったと確信した瞬間に相手がチャージをかける寸前で避けようとしているのだ。酔いどれの危険性を考えると、自分まで抜かれてこいつを自由にするわけには絶対に行かない。
その緊張した場面に忘れられていた俺が顔を出す。
ここまでは計算通りだ!
俺は後方から酔いどれの足下にあるボールを爪先でつつくようにして石田へと蹴り出した。
こいつならば万が一がありかねんと、素直に罠に引っかからない可能性も考えていて良かったぜ。
酔いどれならば俺との一対一と思わせておいてからの伏せていた石田の奇襲もかわしてしまうかもしれない。
だが、こいつが急停止する瞬間はボールも止まっているって事だよな?
後ろからでもボールを奪えるんだぜ。
こんな風に酔いどれの体に指一本も触れないでボールだけを蹴れば、後ろからのチャージでも反則にはならない。
俺がこんなに速く追いついてくるとは思いもしていなかっただろう酔いどれが、目を見開いて背後の俺を振り返った。
だから抜かれるのを前提にしていたんだって。本気でバランスを崩すほどフェイントに引っかかるような深入りしてはいないに決まっているだろうが。
冷や冷や物だった内心を押し隠しながらも相手にはさらにダメージを与えるようにやりと余裕に満ちた笑みを残す。
そして俺はまた身を翻して酔いどれが去った後のスペースへ走り出した。
すぐに石田からボールが俺へ戻されるが、今度は前半よりマークがつくのが早い。
敵も俺が突破する可能性を考慮して、前よりも少し腰を引いた陣形をしていたようだ。
だけどスペインの守備は組織的とはいえ、どうしてもドリブルする俺に対してマークをずらしていくと穴ができてしまう。
特にほら、その最中にオーバーラップしてくる奴までは捕まえきれないだろう?
右サイドをぐいぐいと上がってくる島津の前へとボールを捌く。
よし、中盤の右の敵は山下先輩へ引きつけられている。十分な時間とスペースの余裕を持って残った右サイドのDFとの駆け引きができるはずだ。
島津はボールを受けとると躊躇わずにDFラインの突破をはかる。
こいつの頭には迷いとか回り道とかないんだろうな。俺も敵もそう考えた瞬間、島津が直線的な縦へのドリブルを止めた。
とはいっても弱気になったようでもない。なにしろサイドライン沿いの突破から中央へのカットインに切り換えただけだからだ。
なまじDFが「この島津というサイドアタッカーは迷わず縦へ突破してくる」と信じていただけに、その急激なコース変更についていけない。
スペインのDFさん念のために注意しておきますが、そいつはサイドからクロスボールを蹴り上げるだけのセンタリングマシンではなく、自ら切り込んでシュートまで持っていけるアタッカーなんですよ。
あ、それと信じられないでしょうが彼はウイングではなくDFです。キックオフの時しかそのポジションにいないのでチームメイトの俺達も忘れかけていますけれど。
なぜか丁寧語で「ウイングより攻撃的なサイドバック」と評されたうちの島津のプレイぶりを脳裏で解説しながら俺もスペインのゴール前へ走る。
あいつならば間違いなくシュートかそれに繋がるパスを出すはずだ。
その予想通り、島津がちらりと内を窺うと素早くボールを蹴る。そのキックはアーリークロスとも普通のクロスとも言い切れない中途半端な位置からだけに敵の守備体型にも迷いがある。
しかもここで島津は素直にゴール前へセンタリングを上げるのではなく、蹴ったのは逆サイドの左サイドにいた馬場へのサイドチェンジだったのだ。
そして改めて島津はゴール前へ駆け出す。
うん、どうやら彼はアシストするより自分で決めたかったからパスしたようだ。
動機はともかく相手を左右に振りまくった絶好のチャンスである。
スペインのゴール前にはFWの上杉も含め日本の人数も揃っている。いいボールが馬場から入れば絶好のシュートチャンスになるぞ。
――あ!
「馬場さん危ない!」
危機意識を刺激されたのだろうスペインのDFが猛然と彼にチャージをかけたのだ。
しかも彼の後ろから。
もんどりうって倒れる青いユニフォームに鋭い笛の音が響く。駆け寄って倒れた馬場の容態を確認すると、その傍らで厳しい表情でイエローカードをかざしている審判の姿があった。
その前で手を合わせて恭順の姿勢を見せているのは危険なタックルをした相手のDFだが、イエローぐらいは当たり前だな。一発退場でもおかしくないファウルだったぞ。
今のファールで直接ゴールを狙える位置からフリーキックを得たが、それぐらいでは仲間の怪我の代償だとしたら全く割に合わない。
畜生、危険なファウルをしやがって。呪いのこもった視線を倒した敵DFから味方へ戻し、芝の上で足を押さえている馬場の様子を見守る。
あ、日本ベンチではもう監督が馬場を交代させる準備をしている。
どうやら怪我の如何に関わらず、これまでの時間に目立たないがずっと走り続けていた彼をここで試合から離すつもりか。
「馬場さん大丈夫ですか?」
「ああ、引っ掛けられた足よりもセンタリングを上げられなかった方が痛いぐらいだ」
顔をしかめながらも馬場が自力で立ち上がれた所からすると、今のファウルによるダメージそのものは心配いらないようだ。
でも、こいつはスペインの中盤に対抗するため前線の攻撃要員のはずなのに守備専門のアンカーである石田と同じぐらいに守備にも駆け回っていた。馬場の攻守を問わない豊富な運動量がなければ世界一の中盤とここまで拮抗した状態は作れなかっただろう。
その代償として足に疲労が溜まり、危険な反則をかわしきれなかったのだとしたらここで交代もいたしかたがない、か。
ならばせめて彼が後顧の憂いがない状態でピッチを後にさせなければな。
「馬場さん、絶対にあなたのくれたこのチャンスで同点にします。安心してベンチで見守ってください」
「そや、草場の陰で見守っといてくれ」
……上杉、それはなんか違うぞ。まるで成仏しろって言ってるみたいじゃないか。
「上杉も俺を勝手に殺すのはやめてくれ。それより試合からいなくなるとすぐにお前らに忘れられないかの方が心配だよ」
馬場の声は案外切実だった。よし、これは前線の中ではキャラの薄い彼にスポットライトを当てる為にも最後に彼が得たフリーキックを頑張って得点に繋げねば。
もし、このフリーキックで得点してもゴールした奴はともかく馬場が目立つかどうかは別問題ではある。だけど、まあ馬場よその辺は目を瞑ってくれ。お前の奮闘で作ったチャンスは無駄にはしないからさ。