第十八話 親指を立ててねぎらおう
「アシカ、ちょっとこっちに座れ」
下尾監督はピッチ上から目を離さずに、今交代して戻ってきた足利少年を呼びつけた。こいつを早めに引っ込めたのは体力や怪我に配慮したからではない。少しこの子と話し合いたい事があったからだ。
クールダウンを始めていた足利はクエスチョンマークを頭上に浮かべながら、ベンチの隣に座る。
この子の早熟の才能に文句はない、精神年齢だってとても小学三年生の子供とは思えない。だが、やはり他人に言われなければ判らない事もあるのだろう。
「怪我はなかったか?」
「ええ、大丈夫です。あのファールは予想してましたから上手く受け身がとれました」
気遣いに軽く返されると、こほんと咳払いして「そうか、やっぱりか……」と頷く。
「さっきのPKについてだがな……」
「あ、あれひどいですよ! PKはそれを誘った者が蹴るって約束だったじゃないですか、なんで俺じゃなくて山下先輩がキッカーになるんですか?」
「いや、お前だと外しそうだし……とそうじゃない」
監督は言葉を切って山下がPKのセットをしているピッチから目を逸らすと、足利の瞳を真っ直ぐにのぞき込む。
「あのPKはやっぱりわざと誘ってダイビングしたのか?」
「ダイビングじゃありませんよ。実際に足には掛かってましたし。まあ誘ったかと言われればそうかもしれませんが」
ため息を吐くのを寸前でこらえた。PKを誘うのは決して間違ったプレイではない。現実にトップレベルにおいてさえPKを獲得するのが上手いストライカーもいるのだ。だが、この年代ではやっては駄目だろう。これは正義感とかサッカー観とはまた別の理由だ。
「アシカよ、そのPKを誘うダイビングはもう止めろ。少なくともうちのクラブに在籍している間はな」
返事をせず、足利は訝しげな表情を作る。こいつは大人びているから多少は綺麗ではない手段でも、ルールに抵触しなければ問題ないと判断しているのだろう。その判断に反する指示には素直に従えないといったところか。まあ、素直にPKを誘ったのは認めたし、今もすぐに「はい」と心にもない返事だけするよりはマシだな。
「別に青臭い正義感で言ってるんじゃない。あんなPKを誘うようなプレイをしていると先がないから言ってるんだ」
「どういう意味ですか?」
眉をひそめる足利に下尾監督はゆったりとした口調で語りかける。
「PKをもらえるかどうかは所詮審判の主観で決まる。審判がノーと言えばどんな悪質なファールでも流されるし、逆にこちらが演技をしたとしてカードを出される事すらあるんだ。それぐらいなら審判に頼るより自分の足で決めた方が確実なのがまず一つ目。二つ目はいくら予想していたとしても、接触プレイで転倒まですると怪我をするリスクがあるって事だ。そしてこれが最も今のお前にとって重要かもしれないが、上にいけばいくほど審判とDFのレベルも当然上がっていくってのが三つ目だ。この小学校レベルで自分でゴールするんじゃなくて、審判にPKを恵んでもらおうとするのなら上を望むのは無理だな。
日本ではそうでもないが、海外のアウェーでは得点しようとしても反則で倒され、それでもPKをとってもらえないのも日常茶飯事だ。そんな状況におかれた時、それまで自分で点を取ろうとせず審判に恵んでもらってた奴なんかは何の役にも立たん」
じっと聞き入っていた足利はある程度は納得したようだ、だがまだ微かに不満があるのか口をへの字形にしていた。そのひん曲げていた口を開き、鋭い目を弱らせて少しだけ自信なさげに告白する。
「でも、俺、シュートが入らないから……チームメイトからも信用されてないんじゃないかって……」
「うん。まあお前の決定力はともかく、逆にアシカの方こそもっとチームメイトを信頼しろよ。自分で考えているよりもお前はずっと頼りにされているぞ、ほら」
と監督が顎で示す先にはちょうどPKを決めてこっちに向かって親指を立てたポーズをとっている山下の姿があった。
「サンキュー、アシカ!」
いつもは悪い目つきを丸くして、足利がおずおずと同じポーズを返す。
「ほらな、お前は立派にチームの一員だ。しかも主力の一人だと誰も疑っていないぞ」
ピッチの中から山下だけでなくキャプテンも他のチームのメンバーもベンチの足利に向けて親指を立てた「グッジョブ!」の仕草をしている。
しばらく同じポーズで固まっている足利の頭を、下尾監督はがしがしと荒っぽく撫でる。その間やられるままだった足利は、髪の乱れを気にすることなく頬をポリポリとかいた。
「まさか、あんな子供たちに励まされるとは……」
「いや、お前も子供だからな。というよりお前の方がもっと子供で、クラブで最下級生だからな」
思わず下尾は突っ込んだ。どちらかというとひょうひょうとして突っ込まれる側の監督が自ら言わねばならない程足利の台詞はボケている。
まあこれだけ冗談を飛ばせるなら大丈夫か。精神の安定を取り戻した期待のルーキーに胸を撫で下ろす。下尾の読みでは今大会において、今までの矢張SCの戦力ではこれから上の試合はきつい。次の試合までは多分何とかなるだろうが、その後の準決勝の相手は前年度の覇者、去年全国の舞台に立ったチームだ。決勝の相手は判らないが、向こうも厳しいブロックから上がってきたチームでありとても弱小だと甘い予想はできない。この先の準決勝と決勝がうちのチームにとって壁になるという推測はまず外れないだろう。
正直今年は全国は無理だろうと半分諦めていたのだ……足利を発見するまでは。さらに足利を見出した後も、さすがに今年には間に合わないだろうとも考えていた。それらの下尾の予測を全て超えて足利は成長した上に、まるで前からうちのチームを理解していたように戦術とフォーメーションにフィットして異例ともいえる三年でのスタメンを勝ち取ったのだ。
こいつがいればもしかすると……そこまでの期待をルーキーにかけるのは酷かもしれない。だが冷静に考えれば昨年の県ナンバーワンチームなどとまともに戦うなんて、勝ち目が少なくなるのはしょうがない。ちょっとした奇跡でも起こらないかな……と現実逃避に走りたくもなるだろう。そこに現れた計算外のプラスファクターが足利だったのだ、これでは監督に期待するなという方が無理だ。
「アシカはもっと上手く、強くなれる。だから、今はとりあえず俺の説教は忘れて仲間の応援をしようか」
「……試合中に説教してきたのは監督ですけどね」
相変わらず減らず口を叩く少年に対し別に腹は立たない。むしろこのぐらいの方がおとなしいよりは選手のメンタルとして向いているのかもしれないと思う。
「ま、説教できるのは監督の特権だからなぁ。ほーら、アシカ、声が出てないぞー」
「え、ちょ。……ふう、それじゃみんなー頑張れー! あ、ハーフタイムです」
思わず吹き出す。足利が声援を送った瞬間ホイッスルが前半終了を告げたのだ、なんてタイミングの悪い奴だ。気がつけば周りのベンチメンバーも笑っている。さっきまでの真面目な話では少し距離をおいていたが、今の足利のかけ声の間の悪さに一気に雰囲気が柔らかく明るくなった。
ピッチから戻ってきたスタメンも「おう、頑張るぞー。休憩だけど」などと足利をからかっている。
うん、いい雰囲気だな。前半終了時点で三対ゼロか、足利が抜けた後も大幅なバランスの崩れもなかった。というより足利が入ってくる以前のレギュラーだったメンバーとフォーメーションなのだ、急に悪くもなりようがない。
油断は禁物だが、この試合はこのまま後半もいけるだろう。
問題は明日の四回戦と、来週の土曜一日で済ます準決と決勝だ。この小僧がちゃんと働いてくれないと俺の計算が成り立たないんだが――そう心配げに見つめる視線の先には途中退場したとは思えないぐらい元気そうな足利が、山下に「これはお前へのおすそ分けだー!」と叫びながら頭と背中をバシバシと叩いていた。
あれか? 俺がもらったPKでゴールした後チームメイトに叩かれた憂さばらしなのか? 意外と仲が良さげなうちのエース格二人の子供っぽい姿に笑みをこぼした。
こいつらならやってくれるかもしれん。
監督の胸に僅かな希望の灯りをともし、矢張SCは三回戦を勝ち進んだ。