第四十八話 化け物のいるチームと戦おう
スペイン代表と並んでピッチへ入場しながら横へ視線を滑らせる。俺の隣は幸運にも「酔いどれ」という変わったニックネームを持つドン・ファンだったからだ。ま、トップ下というポジション的には被っているから隣になっても不思議はないか。
実はこいつについては明智の講釈を聞く前に、俺はある程度の知識を持っていた。「酔いどれ」のホームである欧州でさえもまだ噂と名前が先行しているだけなのに、なぜそんなマイナーな選手を俺が知っていたのか? 答えは簡単である、やり直し前から持ち越した知識の内の一つだったのである。
ドン・ファン、通称は「酔いどれ」という将来を嘱望されていた若手選手はテレビの画面越しに見てさえも明らかに別格のテクニシャンだった。成人する前にすでにスペインの名門クラブの中心選手として名を馳せていた同年代最高クラスのファンタジスタ。
俺が繰り返し見ていたスーパープレイ集にはデビューしてからの年数が少ないはずなのに、何遍もこいつが出てきた。その才能を見せ付けられるプレイを眺める度に「俺も足さえ無事ならこんな風にプレイできるはずだった」と唇を噛んでいた。
もっと率直に言うならば、俺は少なからずこの小柄な名選手に自分が果たせなかった夢を託して嫉妬と憧れの相半ばする感情を抱いていたのである。
そんな風に世界に名を轟かすはずの奴と俺はこれから戦うんだよな。
体がぶるりと震える。それを察知したのか、酔いどれはこっちを振り向くとにこりと笑いかけてきた。童顔の上、まだ鼻の周りに残っているそばかすが一層彼の外見を幼くしている。
負けるもんかとこっちも不敵な笑みを浮かべたつもりだが、いつもより表情筋の動きが鈍い。
それにしても童顔なだけでなく身長にしても、敵のチームでこいつみたいに俺より低い選手は世界大会に来てからは初めて出会うんじゃないかな。まあ、その分体格はかっしりしているようだが。特に下半身の筋肉――腿の太さなどは頭一つは大きい選手にも劣らないぐらい発達している。
なるほど、小さな体にそれだけの筋肉があればそりゃどんなトリッキーな動きでも軽々とこなせるはずだ。軽自動車のボディにスポーツカーの馬力のあるエンジンが搭載されているようなもんだからな。
確か俺が見たプレイ集では酔いどれの身長は、名門チームゆえに周りが大きい選手ばかりだったにもかかわらず比較的小柄に見える程度だった。おそらくこれから急激に背を伸ばすのだろうが、逆に言えばまだ体が成長しきっていない今の段階でさえも注目されるレベルの選手なのは間違いない。
俺は自分のこれまでの二回の人生で築き上げた技術に自信を持っている。持ち越した分の知識と経験が同年代の誰より上だと信じているからだ。
だが、その経験をおそらく才能で覆せる本物の才能が目の前にいる。
この酔いどれのドン・ファンとマッチアップすると想像するだけで、踏んでいる芝の長さが倍になったみたいに足の感覚がふにゃふにゃと頼りなく感じてしまう。
ああ、これは代表でのデビュー戦と同じ感覚だ。鼓動だけが大きくなって、他の音が耳に入らず、自分の周りで何が起こっているのか判らなくなる。
耳元で誰かが話しかけているのは解るのに、言葉が耳に入ってこない。まともな反応すらできないままで固まっていた俺はいきなり背中を叩かれた。
その痛みより自分の背で鳴った大きな音ではっと我に返る。振り向くと、俺の背中を平手で打ったのは山下先輩だ。
「どうした? アシカはまさか寝不足って訳じゃないよな?」
からかうような口調の中に、気遣うような響きがある。慣れ親しんだ腐れ縁の先輩の声で俺はやっと体の強張りが解け、周囲の動きが判るようになった。これまでは鳥の目どころか周りを肉眼で見回しもしていなかったもんな。
大きく深呼吸すると、今度は自分の頬をさっき先輩から背中へ受けたのと同じぐらいの威力で張る。痛ってて。よし、目が覚めたぞ。
「いえ、寝てはいませんでしたが今ので気合いが入りましたよ。でも後で背中の紅葉のお返しはさせてもらいますからね」
「はっ、アシカがアシストパスをくれた後でならいくらでももらってやるよ」
互いに緊張をほぐそうと会話をしていく内にどんどん頭がクールになる感覚があった。アップの終わった体にはもう火が入っているのに思考は冷めて澄み渡っていく。
さっきまでの惚けていた視界がアナログのしかも白黒テレビなら、今は一気にデジタル放送に変わったぐらい劇的に周囲を鮮明に認識できるようになったのだ。
足下に転がっていたボールを爪先だけで宙に浮かせ、額に乗せる。このボールの存在すらさっきまでは気がついていなかったんだよな。
そのバランスを保った状態で静止すること十秒、俺は落としたボールをこちらを向いた上杉にラストパスを出す感覚で蹴る。
うん、糸を引くように直線で日本のストライカーの足に収まったな。
今のキックといい、その前のボールタッチといい俺の脳内で描いたイメージと寸分の狂いもない。
メンタルに関しても山下先輩に助けられ、頭は冷静に心と体は燃えている。今日の俺は間違いなくベストコンディションである。
さあ、これで世界最高峰のパスサッカーを標榜するスペインの無敵艦隊と戦う準備は万端だぞ。
国家斉唱や全員集まっての写真撮影といったイベントも終わり、ようやく審判が試合開始の笛を吹く。
スペインからのキックオフにさらに集中力が高まっていくのを感じる。今の俺にとって世界にはこのピッチしか存在していない。それぐらい試合に入り込んでいるのだ。
おそらく他の日本のメンバーもそうなのだろう、動きに迷いがない。監督に指示された通りにDFはラインを高く設定し、強力な攻撃陣を相手に勇気を持って上がっていく。
ラインを高くすると裏を取られる危険性は跳ね上がりこれまで以上に守備の負担は増えるだろうが、キーパーを含めディフェンスの誰一人として指示に不満を洩らさなかった。それだけのリスクを負わなければスペインには勝てないと彼らも覚悟を決めているのだろう。開始直後から真田キャプテンとキーパーから激しい指示が飛んでいる。
そして俺を含めた中盤の激戦区を担当するMFは、敵のパスコースとマークすべき相手へのアプローチを開始する。さらに最前線を担う上杉となぜか島津の二人は敵陣へ向けて突っ込んでいく。
全員が受けに回っては駄目だと自分達から先にスペイン代表へ襲いかかったのだ。
これまでにないほど研ぎ澄まされた神経がスペインの最初のパス回しを観察する。キックオフからのボールが淀みなくスペインの中盤を流れる。さすが今大会ナンバーワンと称されるMF達だ、ほとんどワンタッチなのにパススピードは速く精度は高い。
リズミカルに回るボールが俺のマッチアップする相手である「酔いどれ」の下へ届いた。
この少年はトラップ一つでも洗練されている。彼へのパスはかなりの速度があったにも関わらず、まるで決められているかのように彼が一番蹴りやすい位置へぴたりと収まった。
ここまで酔いどれのプレイはボールをトラップするタイミングでさえ足下を見ていない。その視線は俺とおそらく上杉さらには日本の守備陣に当てられていた。
彼のそれまですっと伸ばされていた背筋が前傾し、こちらを向いていた顔が伏せられた。そのまま右足が力強く踏み込まれる。
よし、こいつがワンタッチで蹴らずにボールを止めたって事はロングパスか、それとも裏をかいてドリブルで来るのか? 初対決だと勇んで俺が接近する前に酔いどれの足元から大砲の発射音のような鈍い音が響く。
え? まさか……、彼の意図に気がついて戦慄する。
ここから日本のゴールまでどのぐらい距離があると思ってるんだ。俺がまだマークについていない事からも解るだろうが、センターサークルよりさらに向こうのスペインの陣内だぞ。
キック力ではうちで一・二を争うエースストライカーの上杉が撃つキックオフシュートと変わらない、いやそれ以上に無謀なチャレンジのはずである。
「キーパー!」
咄嗟に叫ぶが、俺の声が日本の守護神に届いた時にはすでに手遅れとなっていた。
いきなりのシュートに二・三歩背走した日本のキーパーが頭上を襲うシュートに必死で手を伸ばすも、その上を酔いどれの蹴ったボールは越えていく。ここまで速度を落とさずにぐんぐんと伸びてきたボールはキーパーを越すとあざ笑うかのように落下の軌道を描き、クロスバーをかすめながらゴール内へ飛び込むとネットを揺らす。
これは上杉が時折やる審判が笛を吹く前からシュートを撃つと決めて半分威嚇でゴールを狙う「決め撃ち」でのキックオフシュートとは根本的に異なっている。
酔いどれは自分がパスを受け取る瞬間まで、シュートを撃とうとは考えてなかったはずだ。だが、日本のDFラインが中盤をコンパクトに保つためにこれまでの試合より高く、さらにその後ろをケアするためにキーパーが前へ出ているのを見て取った。
しかも風向きや芝の感触に開始して初めてのボールタッチの感覚から、これだけ離れたゴールの枠をぎりぎりで狙えると確信したのだろう。
敵味方の置かれた状況と自身とピッチのコンディションの確認作業を一瞬でこなして、自分ならここからでも決められると冷静に判断した上でシュートを放ったのだ。
しかもこれら全てを試合が開始されてまだ数秒の内に、だ。
ハーフウェイラインより後ろの距離からゴールを狙えるパワーだけではない。どんな状況でも常にゴールを奪おうとするアイデアと、それを可能にするテクニック。さらにそれにチャレンジするスピリットがこの少年をファンタジスタたらしめているのだ。
しかも、シュートを撃つ前に俺と上杉に目をやっていたというのは、これまでにやった上杉のキックオフシュートに対して「こう撃つんだよ」という見本のつもりだったのかもしれない。
画面越しに眺めている時は酔いどれは面白く見て楽しい選手と思っていたが、相手にするとこんなに恐ろしい相手とは思わなかった。
ピッチの中央で駆け寄ってきたチームメイトにもみくちゃにされながらも、嬉しそうに踊っている両チームの中で最も小柄な選手。その輝かしい才能の中で最も不得意なはずのパワーを要する技術で開始直後に得点したファンタジスタ。
気がつけば俺だけではなく、日本チームの全員が酔いどれに対して同じ言葉を口にしていた。
「化け物め……」