第四十四話 バスケでの再戦は遠慮しよう
俺の隣では腹を押さえながら唇を噛んでいる山形監督がじっとピッチを睨み付けている。まさかこの雨でお腹を壊したんじゃないだろうなと心配しつつもやはり試合の方がより気にかかる。
後半が開始されてからここまで終始押されっぱなしだった日本が、終盤に執念を見せたからだ。
ロスタイムに突入して日本ボールでのキックオフした直後、同点に追いついた勢いそのままの押せ押せ状態でラインを上げたアメリカDFの裏に明智がポンと大きくボールを蹴り込んだ。
パスと言うには余りに大きく速い球足は単にミスキックのようだったが、なぜか一回もバウンドせずにそこで停止する。まるでプロゴルファーのグリーンへのアプローチのようだった。
おそらくあれは明智がキックする際に目一杯に逆スピンをかけ、そのスピンが水を吸って重くなっていた芝をがっちり噛んだ結果だろう。明智の技術がボールをストップさせてフィールドの外へ跳ねてゴールキックになるのを防いだのだ。
そこに突っ込んでくるのは攻撃意欲では日本で一・二を争う元DFの島津だ。現在はポジションを上げられて守備の負担が減らされたせいか、前へでるのにいつも以上に躊躇いがなくスタートが早い。
皆があのキックの強さではピッチの外に出るだろうと判断していたのだろう。この明智からのロングパスに対するアメリカディフェンスの反応は鈍かった。
ましてや体力の尽きる終盤戦、それも走りにくい雨のピッチでは足が止まりがちなのだ。むしろこの状況下では、無駄走りになる可能性の方が高かった明智からの大きなパスにフルスピードでダッシュする島津の方が判断としてはおかしい部類に入る。
真っ先にパスに追いついたそのどこかおかしい島津は、ボールが止まっていた場所から強引にシュートを狙う。だが、これは角度のない位置からだったせいでキーパーのパンチングに阻まれた。しかしそのままボールが外へ出たためにまだ日本のチャンスは残っている。
ロスタイムもほぼなくなった、もう審判が終了の笛をいつ吹くのか判らないという時間でコーナーキックをもぎ取った日本。守備という負担を捨て去った島津の我武者羅な突破がこの最後のチャンスを呼び込んでくれた。
早く再開しなければこのワンプレイの前に審判が笛を吹くかもしれないと、打ち合わせも碌にせずに合図はアイコンタクトとハンドサインのみで済ませ、キッカーである明智は急いでコーナーへ向かう。
そしていざコーナーキックという場面で、凄い勢いでDFの武田がアメリカゴール前に走り込んで来たのだ。
おそらく残り時間を計算してこのセットプレイに賭けたのだろうが、これで日本の陣地に残っている守備はキーパーだけである。
万が一このコーナーキックの後に数秒でも審判が続行を認め、アメリカがカウンターを仕掛けたらどうするつもりなのか? もし周りのディフェンス陣との話し合いをしていないなら、これは勇気があるというより蛮勇でしかない。
そんな常識論を口に出せば「アシカが言うな!」と返されそうだが、俺の背中から雨粒よりも冷たい汗が流れる。ベンチの皆も総立ちで祈るようにこの最後のチャンスであるコーナーキックの顛末を見守った。
だがこの強引なオーバーラップは敵にも動揺を与えたらしい。うちで一番高さのある武田の突然の来襲だ。しかもヘディング勝負になりやすいコーナーキックの直前のタイミングでは、いきなり現れた敵の長身選手にマークがついていなければ守備側が混乱するのも当然か。
そこでアメリカも対抗して急遽一番ヘディングの強い選手を武田のマークに付けた。アメリカ代表で最も空中戦を得意とする奴――すなわちスラムダンカーだ。
ま、こいつをコーナーを防いだ後のカウンター要員から守備に回させただけでも、このギャンブルは成功だな。
スラムダンカーと武田がペナルティエリアに入りそうになったのを見計らってコーナーキックを明智が蹴る。
だが、これは意表を突いてのショートコーナーだった。
このぎりぎりに追いつめられた状況下でなお小細工をする所が実に明智らしい。時間がないからといって、考えるのを放棄してのただの運任せにはしない少年だ。
相手のアメリカもまさかこの緊迫した場面でショートコーナーをしてくるとは思わなかったようだ、虚を突かれほんの僅かにだがマークがずれる。そのおかげで敵味方の入り乱れるゴール前にぽっかりと空白なエアポケットが生まれた。
すかさずそこへ武田とマークしているスラムダンカーが二人でもつれるようにして走り込む。
ショートコーナーでボールを渡された島津が、いかにもクロスを蹴り慣れたサイドの選手らしくコントロールされたセンタリングを上げた。
ここで上げられた速く鋭い弧を描くヘディングに絶好のボールはスラムダンカーと武田の空中戦の結果にゆだねられた。
その勝負は「スラムダンカー」ジェームスに軍配が上がる。
武田はボールに触れることさえ出来なかったのだ。
ポジション的にはむしろ武田の方が良かったにも関わらずである。
島津からのボールはアメリカゴールから戻ってくるように――いわゆるマイナス気味へ折り返されたセンタリングだったために、武田とスラムダンカーはどちらもゴール方向へと向けてのジャンプになったのだから。
ただ余りにもスラムダンカーのヘディングの強さと高さが有りすぎただけだ。
武田と体をぶつけ合いながらも頭一つ抜け出したスラムダンカーの額に強く弾かれたボールは――クリアされずにそのままアメリカのゴールネットに突き刺さったのだ。
……「スラムダンカー」ジェームスによる痛恨のオウンゴールである。
アメリカのゴールネットを揺らしたボールとさらに審判のゴールと試合終了を告げる笛の両方を聞いて、俺達日本のベンチが爆発する。
もう試合が終了したからお構いなしだとピッチに駆けていって、チームメイトの誰彼ともなく抱きつくのだ。
実は得点と終了が重なるのはサッカーの試合ではあまりない。ちょっと前はVゴールやゴールデンゴールなんてあったそうだが、俺はそのルールで戦った事はないからな。例外はPK戦ぐらいだろうか。
とにかくゴールの興奮と勝利の喜びが一遍に押し寄せて、じっとしてはいられない。これが日本代表の誰かが決めたゴールならそいつの背中を標的としてもっと盛り上がれたのだが、まあそれは贅沢と言うものだろう。
俺も手近に居た山下先輩と肩を組んではお互いの体をばしばしと叩き合う。本当は山形監督の背中も叩きたかったのだが、さすがにお腹を抑えていて喜んでいるはずなのに顔色を悪くしている人に手は上げられない。
俺にしたって勝利でアドレナリンが出まくっている今は大丈夫だが、また背中に紅葉がたくさん増えたなこりゃ。大会が終わるまで俺の背中の皮膚が頑張ってくれることを祈ろう。
いやまあ、だからといって得点や勝利の数が減るよりは乱暴なスキンシップに我慢する方がずっと気分がいいのだが。この背中の痛みは、いい気分でほろ酔いになった後の二日酔いみたいなものだと諦めて受け入れようか。
こんな嬉しい時なのだが、まだピッチを見渡していた鳥の目は気にかかる物をみつけてしまう。それは今まで戦っていたスラムダンカーが濡れたピッチにへたり込んでいる姿だ。
日本に明確なヒーローがいない一方で、オウンゴールをしてしまったジェームスは戦犯とされかねない。これまで彼の活躍で同点に追いついたのだが、この失点で全ての功績を無になってしまったと彼自身も感じているのだろう。さっきまで黒光りしていた肌がはっきりと判るぐらい青白くなっている。
正直あのオウンゴールは仕方がないと俺は思っていた。
島津のクロスは速く鋭くスピンが利いた、いわゆる「誰か触ればゴールになるボール」なのだ。ずっと日本陣内で攻撃していて、島津のクロスの速度も軌道も初見であるジェームスでは、あれを完璧にクリアしろという方が要求が高すぎる。
「ちょっと失礼」
そう一声かけて山下先輩の拘束から離れると、尻餅を突いたままのスラムダンカーに向かって手を差し出す。
きょとんとしたスラムダンカーに、ここぞとばかり付け焼き刃とはいえ勉強した英語で語りかける。
「ナイスゲーム、ユーアー グッドフットボールプレイヤー」
……あれ? なんか習ったはずの会話例が口から出ずに、小学生みたいなカタカナで単語のみの言葉になってしまった。いかん、全く英会話の勉強が役に立っていないぞ。そう焦れば焦るほど口ごもってしまう。
だが、そのたどたどしい言葉と発音が逆に真実味を増したらしい。彼もふっと緊張を解いたように薄く笑うと俺の手を取り立ち上がる。
うお、やっぱり隣に立たれるとでかいなこいつ。
そして彼はまるで子供にするように俺の髪をくしゃりと撫でる。それに訛りの強い英語で語りかける。なになに「今度はバスケットで勝負だ」だと。聞き取りは問題ないが、俺はお前みたいにサッカーとバスケットで掛け持ちするつもりはないんだが。こいつ本当に俺をサッカープレイヤーではなく子供と誤解していないか?
ちょっとむっとして睨むと言葉が通じていないとでも思ったのか今度は彼はゆっくりと判りやすい発音で「サンキュー」とお礼を言い、「グッドラック」ともう一度俺の髪をかきまわすとアメリカのチームメイトのもとへと帰っていく。
その足取りはさっきまでうずくまっていた少年の物とは思えないほどしっかりしていて、俯いていた顔は誇り高く掲げられて正面を見つめている。
うん、なんだか同年代扱いはされなかったのが不満だが、あいつも元気が出たみたいならいいか。
改めてアメリカ代表から自分のチームである日本に目を移すと、全員が笑顔でサポーター席に向かって行くようだ。おっと応援のお礼なら俺も遅れない様に参加しないといけない。
サポーターもこんな時に普通は決勝点を入れた選手のコールをするのだが、今回はその対象がいない。
だからなのか「ニッポン」と大合唱している。
ああ、これなら誰か一人にスポットライトが当たるんじゃなく、チームの全員がサポーターに祝福されているみたいで周りの仲間と顔を見合わせて照れ笑いが出るぐらいに気持ちがいい。
終わり方がちょっとだけ格好良くなかったが、それでもきちんとした勝利なのだから十分に誇っていいはずだ。オウンゴールなんてのは相手を押し込んでいなければ生まれないものだからな。
正直俺は追いつかれた時点で日本が敗北するのも覚悟していた。ベンチから試合を見守るだけで手出しができないという状況は俺にとって精神的にかなりきつかったのである。
まだベンチスタートであれば出番が回ってくる可能性もあるが、交代して退いたからにはもう何もできなかったからだ。
だが、俺の想像以上に日本のチームは強かった。いや強いと言うより精神的にタフだったと言う方が正確だろう。
明らかな逆境になり流れがアメリカにいっているのを承知で、無駄走りを厭わずに強引にシュートを仕掛けた島津。ずっと前線で相手DFを引き付け続けた上杉。土壇場で時間がないにも関わらず、スピンを効かせたロングパスや意表を突いたショートコーナーを蹴った明智。スラムダンカーのマークを止めてアメリカのゴール前に飛び込んだ武田の勇気。
それらの要素が全て噛み合ったのが最後に日本のゴールと言う結果につながったのだ。決してアメリカがミスしたから棚ぼたで勝利がもたらされた訳ではない。
どうやら俺は自分が居なければ日本は勝てないと自惚れていたのかもしれない。
だいたい、体力面での不安がなければ監督も俺を引っ込めて温存しようなんてしなかったはずだ。ディフェンス面でもっと信頼されていれば逃げ切り用の布陣でも居場所はあったはずなのだ。
監督の采配ミスもあるが、それを引き起こした遠因は俺にもある。
いつのまに俺はこんなに天狗になっていたのだろう。甘く感じていた勝利の味に苦い自嘲が混じる。
だが自信過剰になっていたのを敗北の取り返しが効かなくなった状態で気付かされたのではなく、チームメイトに勝ってもらった試合で目を覚ます事になって本当に良かったな。
大歓声で「ニッポン」というコールだけでなく、活躍した選手の名前を呼んでくれているサポーターに手を振りながら心に自戒の念を刻みつけた。勝利に喜んでいるサポーターからの歓声の中には俺の名前も入っているが、そんなつもりはなかったのに自分の未熟さを隠しているようで心苦しい。
この期待と応援に応える為には、俺はもっともっと強くならなければいけない。