第三十八話 ピンチをチャンスへ塗り変えよう
俺がボールを持つと皇太子ハインリッヒがすっと寄ってくる。まだ前半に彼がDFラインにいた時などは他の選手がマークしたりもしていたが、日本が二点目をとって皇太子が前のボランチに近いポジションに出るようになってからは専ら彼がマークしてくる。
他の選手ならばもう少しパスするにしろ抜くにしろ楽にプレイできるのだが、敵もそれは承知の上らしい。DFラインを置いても俺への対応を優先するようだ。
すこしばかり過大評価な気もするが、そのチームで最も守備の上手い――さらに「皇太子」とまで呼ばれるドイツの大黒柱をマーカーにされるというのは名誉な事でもある。
だが、それは全て勝った場合の話だ。
負ければまんまとドイツの作戦と罠にかかった間抜けなゲームメイカーという事になってしまう。
今回も俺は皇太子が完全に接近するまでの間に敵ゴールへと振り向く事はできた。うん、やっぱりこいつのスタミナはもう残っていないのだろう、その動きにはキレがなくなっている。
だが、それでもなお近付きながらも俺から前線へのパスコースはきっちりその体でカバーしていた。瞬間的なスピードこそ失っているようだが、ディフェンスにおけるその正確な読みと判断力にはいささかの翳りもない。
まあそれらまで無くしていたら監督も交代させるだろうが、ここまで消耗してもなお自分の弱みを外見からは判別が難しいぐらいに隠しきっている。
おそらくドイツのチームメイト以外は、実際に至近距離でピッチで対峙している俺や明智ぐらいしかこの誇り高い皇太子ハインリッヒが疲れ切っていると見抜いた人間は少ないはずだ。
つまり皇太子はかなり無理をしてきているはずなのだが、依然として普通の選手よりずっと上のレベルでのプレイを続けているのである。
ならその衰えを衆目に晒して、もう無理はさせないようにしてあげよう。皇太子の支配しているはずのエリアから突破すれば、彼を心理的な支柱にしているドイツ代表も動揺して士気が下がるはずだしな。
さて、目の前にはボールを持った俺を腰を落として待ち構えているようなハインリッヒ。
こいつの方が距離を詰めて俺へとチェックにきたはずなのに、なぜか向き合うといつもこいつの準備した罠へ飛び込んでしまった獲物の気分になる。
まあいい。前回止められたように個人技で抜けないのならコンビネーションで突破すればいいだけだ。
幸いなことに現時点での俺と消耗した皇太子では、一瞬の切れ味だけの勝負なら俺に軍配が上がるはずである。
ならば別に今ここでテクニック自慢をするつもりもないのだ、できるだけシンプルな方法で突破するのがいいだろう。
やや前線から引いてきた山下先輩の位置を確認して、ボールを預けると同時にダッシュをかける。
基本的なパス&ゴーで、先輩から返ってくるのはダイレクトでの壁パスになる。
このコンビプレイは小学生時代から何遍やったことか。お互いが相手の呼吸を感じ取ってアイコンタクトの必要もないぐらいだ。
皇太子との間合いを測って、横パスを出すと全力でダッシュに移る。
こうなると技術よりも純粋な瞬発力の競争だ。万全の状態ならともかく、現在の彼が相手なら問題なく振り切れ……ないな。なんでだよ!
予想外の展開に冷や汗が背中を伝う。ボールを持っていない状況なら接触プレイもできないだろうとパスで預けてのダッシュの競争だぞ? もうばてて足が動かなくなっている皇太子にとっては一番きつい条件のはずだ。なのに相手の皇太子は長いストライドを生かして一歩ごとにぐいっと体を加速させている。
スピード勝負に持っていけば、為す術が無くおいていける――いや、場合によっては追いかけようともせず諦めるかもしれないとさえ考えていた。
だって、これまでのデータでは俺が負けるはずのない勝負なのだ。
それなのに――なんでこんな冷や汗を流さねばならない?
しかもこいつ、下手したら俺のダッシュより速くスタートをきって先輩からのパスルートへと最短距離を取っている。
山下先輩からのリターンパスのコース上に割り込もうとした皇太子と軽く接触して、軽量級の悲しさで弾き飛ばされそうになる。すぐにバランスを取り返したが、ほんの一歩だけ遅れてしまう。
サッカーの試合においてこの一歩の差というのは絶望的に大きい。さっきまでは互角に肩でぶつかったのが、今度は俺からチャージに行くと後ろからのファールで一発退場になりかねない。
またも自分が原因でボールをロストしたことに身の毛がよだつが、今はそんな感情に身を任せていい場合じゃない。すぐに取り返しにいかねば。
幸い俺だけでなく近くにいた山下先輩も左サイドの馬場も緊急事態と感じたのか、慌ててプレスをかけに来てくれる。明智も目立たないようフォローに走るが、こいつは残念ながら少し距離が長いな。ワンテンポ遅れてしまいそうだ。でも三人もいれば皇太子を包囲できる!
そう囲もうとするが、今度はさっきの強引なオーバーラップと違って彼はあっさりとボールを離す。
「山下先輩、馬場さん、そいつ囲みます!」
パスでいなされても諦めないで、しつこくバックパスされたDFに対して追いかける。
皇太子の包囲網を素早く解くと俺とその二人でさらに包みこむように包囲して潰そうとする。ここでボールを奪えれば最高のショートカウンターになるのだが、さすがに相手も自陣のゴール近くでは無理をしようとはしないだろう。
俺と山下先輩が直線的に突っ込み、馬場は元々自分のいた左サイドを封じながら追い込んで行く。
まあセーフティに大きくクリアされるだろうなとは覚悟する。それでも皇太子からの正確なロングパスによる高速カウンターの芽を潰せたと考えるとそれほど悪くはない。
だが、カウンターと繋がりを重視するドイツのDFは安易にクリアしようとはせず、ここでも彼らにとって一番頼りになる近いノーマークの相手へとパスを回す。
――そう皇太子にパスしたのだ。
これは予想できる、いや期待していた展開だ。
左サイドへのパスは馬場がコースを切った。そしてもう一人の中央のDFのそばには上杉という危険なFWがいる。さらにこいつは自分のキックには自信がない。そうでもなければドイツのDFラインからの組み立てが皇太子一辺倒になるはずもないからな。
何も俺は考えなしにボールに食いついて皇太子のマークを外したのではない。ついていた三人が一斉に外れてノーマークにすることでそこにパスを出すように誘ったのだ。
だから、ほら。ちゃんと今度は俺達三人の包囲に慌てたDFから皇太子へのパスコースには気配を消して隠れていた明智が入っている。
明智がしてやったりという表情でカットしようとする。
だが明らかに自分へパスが来る前にも関わらず、皇太子が必死の形相でまだボールを受けていない明智にチェックをかける。嘘だよな、こいつ絶対にスタミナが切れてるはずだよね? なんでこんなに動けるの?
俺の内心の抗議を無視し、一呼吸で密着するとここでも体格とパワーを生かして明智が受け取りかけたボールを奪い返そうとする皇太子。
お前は勝負所になるとパワーアップする漫画の主人公体質なのかよ!
助けに行こうと駆け寄っていく俺の心からの突っ込みを無視して競り合う二人の足が激しく交錯し、ボールが不規則に跳ね回る。
お互いの足にぶつかったボールはどちらの意志とも無関係な位置へとピッチ上を転がっていく。
そこへ「よく来たな」とでも言いだげにスピンのかかったボールをちょこんと抑える少年が。
そのままひょいと緊張の欠片も見せず、上杉が俺達とドイツDFが激しく争っていたボールを軽くドイツゴールへ向けて蹴り込む。
ピッチ上の狭い区域をピンボールのように左右に慌ただしく弾かれていたボールは、そのままあっけなくゴールマウスの中へと吸い込まれていった。
これまでの激しい奪い合いとは全く違うリズムとタイミングでのシュートに、飛びつくどころか反応すらできなかったドイツキーパー。
ピッチ上の他の選手も「え? 何事?」とまだ事態が呑み込めずにきょとんと口を空けている。
空気を読めないストライカー上杉が、皆がボールを奪い合う中で一人だけ冷静に「ゴールする」という事だけを考えて迷わずに実行したのだ。
上杉が右拳を掲げたまま駆け出して日本のサポーター席に「ワイの得点や!」とアピールする。何度もアッパーのように右拳を突き上げる彼の姿に、ようやく日本が勝ち越し点を上げたという実感が湧いてきた。
同時に視界の隅にとうとう限界だったのか、がっくりと膝を落した皇太子の姿が映る。その気落ちして肩を落すドイツの主将に「これで勝った」という歓喜が胸の中を満たす。ゴールしたうちのエースの姿より、敵の落ち込む姿に実感が湧くとは俺も人が悪くなったもんだ。
最後の得点はかなり偶然ぽかったけれど、それでも立派なゴールである。
俺達前線の選手がプレッシャーをかけて守備陣からボールをロストさせ、そのボール争いでマークが緩くなった上杉がゴールを決める。狙ってやった訳ではないが最高のショートカウンターの形になった。
さて後はロスタイムを合わせても一・二分だ。もちろん油断などするはずもないが、ここから追いつかれるとは思えない。
手の届かない所でガッツポーズを繰り返している上杉を見て、俺も小さく拳を握りしめ唇の端をつり上げる。
他の上杉の所へまた祝福に駆け付けていた日本代表のチームメイトは気付かなかったかもしれない。だが、俺はドイツの誇り高き皇太子がどこかドイツ代表に馴染みきっていなかった爆撃機ヴァルターの手で立ち上がらされたのを目撃していたのだ。
そのまま何か会話を交わすあの二人はこれまでプレイ以外での接点はなかったはずなのに、何だか今は強い絆を感じさせる。この試合があのコンビを一層深く結びつけたのかもしれないな。
ピッチに膝をついた姿勢から体も、そして精神的にも立ち直った皇太子が激しく手を叩き、大声で檄を飛ばす。
――たぶん、このまま今日の試合は勝てる。でも次やればもっと強くなったドイツ代表に勝てるとは自信過剰の気がある俺でさえも断言できそうにない。
というか、間違っても今のこいつらと延長戦なんてやりたくねぇ。
勝利間近でありながら、俺の冷や汗は止まらなかった。