第三十六話 二人の実力を認めよう
見る者をゾクリとさせる切れるような冷たい雰囲気をまき散らしながら、皇太子ハインリッヒが俺から奪ったボールを持ったままでピッチの中央を通ってのオーバーラップをかける。
これまでの彼のプレイスタイルならばここでサイドへロングパスを供給するのだが、今回に限っては自分のドリブルで突破口を開こうとしているようだ。
ここは彼に一番近く、ボールを奪われた責任もある俺が真っ先に止めにいくべきだろう。
さっきのチップキックで抜いたもんだと早合点して敵陣にダッシュしかけていた体はたたらを踏んでしまうが、それを引き戻して必死に追い縋る。
全力で追うと、さすがの皇太子も疲労からかドリブルも前半ほどの速度はないのだろう、ハーフウェイラインの所で追いつけた。
俺が前へ立ちはだかりコースを切ろうとするのを左手でガードし、半ば押し退けるようにして強引に突破を図る皇太子。
これまで彼はずっとパワーを生かす強引な接触プレイを避けてエレガントなプレイをし続けていたが、さすがにもう表面上を取り繕っている余裕はなさそうだ。端正な表情を歪めて今までよりも荒々しいプレイぶりなのだが、それでもファールにならないようにぎりぎりの一線だけはきちんと守っている。
誇り高いこの少年が必死になっているのがその動きからも伝わってくる。だからこそ絶対に止めなくてはならない。
俺がブロックされながらもしつこくチェックに行くことでさらにドリブルの速度は落ちる。その間に中盤の守備メンバーの要である石田や明智までが包囲しようと駆け寄ってきた。
舌打ちが聞こえると、さらにぐっと俺の体が押されて皇太子から突き放された。そしてそのスペースが開いた僅かな間を逃さずに皇太子からドイツのサイドアタッカーへとロングパスが渡される。
流れは似てはいるが、これまでのドイツのカウンターとは少しだけ展開が違う。皇太子が自分で中央へ敵を引き付けて十分にタメを作ったせいで、日本の中盤のディフェンスが彼に集中してしまったからだ。おかげでこっちのサイドの守備はすかすかである。
いくらゴール前の爆撃機達には厳重なマークが張り付いているとはいえ、これだけサイドを完全にフリーにするのはまずい。
慌てて石田がパスの後追いでサイドへと走っていく。
おそらくこのタイミングではクロスを上げる前に追いつくのは無理だろうが、それでもサイドの選手に少しでもプレッシャーを与えて味方の守備陣を有利にしようと自分の果たすべき役割に手を抜いたりしない。
俺も急いで敵味方が集結し始めた日本のゴール前へと駆けだした。まだ成長途中の俺の身長と競り合いの弱さでは屈強なメンバー達とのヘディング争いには加わるだけ無駄だろうが、一番危険な相手にくっついて邪魔をするぐらいならできるはずだ。
少なくとも石田の無駄走りを厭わない献身ぶりを見ていたら「守備は任せた」とくつろいでなんかいられない。自分の出来る事は最大限にやらなければ。
そしてドイツのサイドアタッカーがコーナーの奥深く、ほとんど旗が立っている直前の位置にまで侵入してからの折り返しのクロスを上げた。
やはり石田はクロスを阻止するのには間に合わなかったが、それでも敵のサイドアタッカーがゴール前に上げるタイミングを遅らせるのと精度を落とすのには成功したようだ。
日本のゴール前に飛んでくるボールはややスピードが無く、しかも明らかにターゲットにしていたはずの爆撃機ヴァルターの頭上を遥かに超えていく。
彼も届かないと諦めたのかジャンプして競り合いをする素振りすらしなかったほどだ。
だが、その後ろにドイツでおそらく最もヘディングの最高到達点の高い少年――皇太子ハインリッヒが走り込んでいる。
サイドへロングパスを通した後、疲れているはずの体に鞭を打って休まずにここまでオーバーラップしてきたのだ。
偶然なのかサイドの選手の狙いか、それとも走り込む皇太子のピッチを見渡すセンスの結果か不明だがちょうど彼が跳躍したスペースにクロスのボールが落ちてきた。
この危険な少年を追いかけていた俺と、アンカーの石田から皇太子のマークを受け渡された途中出場のDFも同時に飛ぶ。
だけどヘディング勝負ではとてもボールにまでは届くはずがない。そりゃそうだ、相手の皇太子が半端な跳躍力じゃないのはさっきチップキックを止められた時に思い知らされている。
仕方ない、ジャンプをする前から届かないのは承知の上である。
ボールを競り合うのはDFに任せて、俺はむしろ空中で皇太子の体にジャンプした勢いと体重でぶつかった。ファールを取られて万が一にもPKにならないようないように注意しながらも、相手に万全の体勢でヘディングシュートをさせないことに心血を注ぐ。
くそ、判ってはいたがこいつ高ぇ!
同時に飛ぶとなおさら皇太子の高さとジャンプ力が際立つ。体感的にはあの中国の巨人、楊と同等のレベルの手が届かない空中戦の高さに歯噛みする。
先ほど俺のチップキックを難なく捉えたあの跳躍力を存分に生かし、ハインリッヒはこっちの頭が胸までも届かないほど飛び上がると大きく首を後方に引いてから思いきり振ってクロスボールに額をぶつける。
ちぇっ、俺より高いはずのDFの二人がかりのマークですらほとんど意味ないじゃないか!
そのヘディングのタイミングに合わせてこっちも皇太子に体を預けて邪魔をしたが、それがどれだけ効果が合ったか怪しい物だ。
それでもやるだけの事をやったおかげか、皇太子の豪快なヘディングシュートは日本のキーパーの手で防がれた。
足で撃たれたシュートと同等なほど威力のある至近距離からのシュートをよくぞ止めたが、さすがにキャッチするまでは至らない。
こぼれ球に殺到する敵味方の選手達、俺も参戦したいがヘディング争いの後で皇太子ともつれるよう倒れていて動けない。
さすがの皇太子もボールを奪ってからの一連のプレイに、あれだけの高さまで跳んでのヘディングは脚力を消耗したようだ。シュートと同時に仕掛けた俺からのチャージでバランスを崩して俺ともう一人のDFと一緒にピッチに膝をついているのだ。
「止めろ!」
「――!」
俺の叫びと一部しか聞き取れない皇太子のドイツ語の叫びが交錯する。
その声が届いたのかゴールの中に飛び込んだ物が。しかしネットに突き刺さったのはボールではない、ドイツのユニフォームの太めの少年だ。
この爆撃機ヴァルターがヘディング争いには参加すらしなかったのは、まさかこのルーズボールに備えていたからなのか? そんなはずはない、あの時点ではキーパーが弾いたボールがどこに転がるか判るどころか、皇太子のヘディングシュートさえまだ撃つ前だったのだから。
あ、それよりボールはどこだ? ゴールの中にはヴァルターの姿しか見当たらないんだから、早くクリアしなければならない。
だがゴール前の混戦に目を凝らし、鳥の目を使っても見つからない。俺がようやく立ち上がりながら首を傾げた時、審判が長い笛を吹いた。
これは得点が入った時の音色だ。
いつのまにゴールを奪われたんだと改めてゴールの中を見つめると、そこではヴァルターがゆっくりと身を起こすところだった。
するとその体の下からようやくボールが転がり出てきた。どうやら彼の体の下敷きになっていたらしい。
立ち上がったドイツのエースストライカーであるヴァルターが冷静だった一回目の得点と違い、今度は顔を真っ赤にして天に向けて咆哮を上げる。
これまでのどこか鈍重な印象を覆す、まるで爆撃機というより自身が爆弾のような危険な雰囲気を放っているぞ、今のこいつは。
その気配に臆することなく群がるドイツ代表が、まだ叫び続けている彼に抱きついたり髪をくしゃくしゃにかき回したりしている。
冷たく規律正しいイメージの彼らだが、同点に追い付いた今だけは年齢通りの子供っぽさを垣間見せていた。
しかしゴールシーンは確認できなかったが、ヴァルターは綺麗にヘディングやキックで押し込んだのではないはずだ。
倒れ込んだ彼の腹の下から海亀の産卵のようにボールがこぼれたって事は、まさに体を投げ出してそのままゴール内に飛び込んだってことになる。おそらく足でも頭でも処理できない曖昧な高さのボールを自分の体全部を使って、かなりのスピードで体もろともゴール内に突っ込んだのだろう。
こんなのはコーチが正しいポジショニングを教えてどうこうできるプレイではない。
こぼれ球がどこにくるかの嗅覚とそれに誰より速く追い付く身のこなしと反射神経、さらに躊躇わずゴールに飛び込める勇気を持っているかいないか――つまり点取り屋の本能があるかどうかという問題だ。
それに加えて溢れるぐらいの決定力を持った爆撃機に見事にしてやられたってことだな。
いや、彼だけでなくその前の皇太子の強引でパワフルな一連のプレイも見事だった。あれが無ければ爆撃機にもっと厳しくマークがついていたはずだからだ。
なにしろゴール前で俺と一緒に皇太子のヘディングを止めようとマークを受け持ったDFは、本当なら武田と一緒に爆撃機を潰す役割をしていたはずなのだから。あいつが張り付いていればヴァルターもこれほど簡単に得点できなかったかもしれない。
オールラウンダーな皇太子に、シュートエリア内でのみ危険な爆撃機。この二つの化学反応がドイツ最高のコンビの実力なのだろう。一足す一が十にも二十にもなっていやがる。
リードされていても決して焦らずに、絶対に最後まで勝負を諦めない。それどころか危機になればなるほどそのプレイは鋭さと力強さを増していく。
さすがは「最後に勝つのはいつもドイツ」と言われたゲルマン魂を受け継いでいるチームだな。
なんというかこう、これだけ強いチームと戦っていると、こっちまで最後まで諦めないゲルマン魂が注入されたみたいに燃えてくるじゃないか。
ああ、日本代表ならば大和魂になるのか。
自分では使った事がない言葉だが、死んでも諦めないって意味なら俺は間違いなくそれを備えているはずだ。
それ以前に、こんな楽しい試合を諦めるだなんてもったいない選択肢は今の俺の脳内には存在していない。
たぶん俺のミスからの失点だと実況では叩かれているかもしれないが、そんな事など気にならないぐらい強敵との戦いに高揚していた。