第三十五話 ゲルマン魂に対抗しよう
ゴールした上杉となぜか俺に甚大な被害を与えた馬鹿騒ぎが一頻り終わると、俺達は厳しい顔付きの中にも苦笑を覗かせた審判に促され日本の陣内へと戻っていく。
その時すれ違いざまにドイツ代表からは鋭い視線を浴びせられた。だが、そんなのはこれまで何度も通った道だ。むしろ重要な試合で敵がこういうぎらついた目をしていない方が不自然である。
ただ一つ気になったのは、これまでずっと試合中もプレイするのが面倒そうで鈍重なイメージの強かった爆撃機ヴァルターが、その太めの体に纏っていたもっさりとした雰囲気を全て払いのけてじっとこっちを睨んでいた点だろうか。
でも今更目を覚ましたって遅いぜ、こっちはもうすでに勝ち越してるんだ。お前さんの得点能力は認めるが、今回は俺達が勝たしてもらうぞヴァルター。
そして精悍な作りの顔を一層引き締めたドイツの皇太子ハインリッヒさんよ、そんな厳しい表情をしているとハンサムなだけに迫力が増してちょっと怖いぞ、女性ファンが減るんじゃないか? 気をつけるんだな。
浮かれている日本代表とは異なり、なぜかリードされたにも関わらず士気がちっとも下がる様子のないドイツ代表。それどころか不利な状況に陥って一層チーム全員の気合が入ったようだ。これまで以上に熱の入った声をお互いに掛け合っている。
劣勢でも諦めが全く見当たらない、これが話に聞くゲルマン魂って奴か。
そしてゲームが動き出したせいかピッチの外からの動きもあった。
ドイツの方では選手交代が行われ、これまでかなり走り回っていたサイドアタッカーにフレッシュな人材を投入してきたのだ。日本の弱点となるサイドをとことん抉るつもりだな。
それを見た山形監督も控えのDFにアップを指示したのだろう、にわかに両ベンチの動きが慌ただしくなる。その日本ベンチでの騒ぎを面白くなさそうな表情で見つめる島津。
ああ、DFを交代させて守備固めをする場合ピッチを去る第一候補はこいつだからな。自分が代えられるかと思うとそりゃ渋い表情にもなるか。
――そして再開の笛が吹かれ、追いつこうとするドイツ代表の逆襲が始まった。
その手始めとして素人目でもすぐに判る変化が一つ。
皇太子がDFラインから前へ、アンカーに相当する守備位置まで出るいわゆる「フォアリベロ」というポイントにまでポジションを上げたのだ。しかもその場所からこれまでよりも頻繁にオーバーラップを繰り返す。
もともと守備的なポジションの奴が毎度のように駆け上がってくるのは、それを相手にする側としてはかなり精神的にきつい物がある。
日本チームでは島津がその代表格だな。ポジションに見合わない攻撃意欲に満ちたオーバーラップは「なんでお前がそこまで攻め上がるんだよ」って文句を言いたくなるんだと敵にやられて初めて身に染みたよ。
こうなると監督の指示した「皇太子が上がった場合は全員で声を掛け合って注意し合う」というのは意味がない。何しろ相手は常に上がろうと機会をうかがっているのだから。それに従ってこっちの守備の分担も変えなければならない。
これまではせいぜいが中盤の底辺りからパスを散らすハインリッヒからのパスコースを制限すればいいぐらいだったが、皇太子自ら前線にまで御出陣されるのだからマークを付けないわけにはいかない。
中盤でマークに付くのはアンカーの石田ということになった。それ以上上がった場合はDFとマークを受け渡しをする。島津の代わりにDFを入れた分だけゴール前の守備の枚数は余っているからだ。
ま、別に「面倒な仕事は全部アンカーのあいつ……ああ石田だったな、あいつに投げておけ」って苛めている訳ではない、一応理由はあるのだ。
ドイツはトップ下を置かないでサイドアタッカーと皇太子がゲームメイクをする戦術だけに、石田はこれまでは特定のマークを受け持たなかったからここで選ばれたのだ。
これまではせいぜいが、中盤のスペースを埋める役割と上がりっぱなしだった右サイドバック島津のフォロー、それに神出鬼没な爆撃機がボールをもらいに下がってきた場合と、俺や明智がゴール前に侵入した時のケアにしか石田は働いていなかったからな。
……あれ? 列挙すると彼はこれまでもなんだか凄い仕事量をこなしているような気がするな。
ま、まあ監督の指示だから従わないと。
苦労性のアンカー石田のブラック企業並の仕事量から目を逸らして、自分の仕事へと目を向ける。
皇太子のポジションが上がったからといって、俺のトップ下の役割は楽にならない。それどころか難易度が上がったようにすら思える。
なぜなら皇太子の上がった中盤の底のポジションと、俺のトップ下のポジションがピッチ上で重なってしまうからだ。
これでは今までよりもずっと厳しいプレッシャーを感じてしまうのも無理はないだろう。こいつは役割が攻撃的になったにもかかわらず、相変わらず守備に関しても手抜きはしてくれないのだ。
むしろ俺に激しくチェックをかけてボールを奪い、そこからカウンターにしようとしている。
しかたなくこちらも背中を向けてボールを奪われないような防御的な体勢になるが、この少年を相手に速度の落ちるヒールパスは相性が悪いのはこれまでに判明している。カットされる危険性が高いために今は封印せざる得ない。
そして間が悪いことに、こういう時に後ろからオーバーラップしてくる島津はすでに交代済みだ。あいつがいれば俺も敵ゴールに背を向けたままで安心して、どうせ指示しなくても上がってくる島津へバックパスをはたいて前へ向けたのだが。
ちっ、ゲームの流れがこっちの思うように進まないと思考までが愚痴っぽくなってしまうな。
だが冷静になればドイツに攻め込まれる回数が多くなったとはいえ、一点リードしているのはまだこっちだ。見方を変えれば、向こうにボールを渡して時間を使わせているとも言えなくもない。
いつのまにかバランスのとれたセントラルMFを目指していた俺までも、この日本代表のチームカラーである攻撃最優先主義に染まりかけているぞ、気をつけよう。
ドイツの攻勢はゲームメイカーである皇太子が前へ出た事と、途中出場に力が有り余っている感じのサイドアタッカーによって強められている。
だが、最終的なゴールを許していないのは日本が爆撃機ヴァルターへのマークを厳重にしているからだ。島津と交代で入ったDFはそのまま武田と組んで彼を二人がかりで抑え込む役割だな。監督もこの爆撃機から漂う危険な雰囲気を察知したようだ。
こうなるとドイツの攻撃がサイドからのクロスに偏っているのはありがたい。ヘディングの高さにおいてだけは爆撃機よりもうちの武田の方があきらかに勝っているからだ。
皇太子からの後方からのパス一発でのカウンターには武田と真田キャプテンが上手くカットしてくれている。まあそれには俺と明智にアンカーの石田の三人が、体を寄せてパスを出すコースを制限したり時間をかけさせているという隠れた努力があっての事だが。
そういう地味な働きも評価してくださいよ、日本の関係者の皆さん。
とにかく、ゲームの流れはドイツが押してはいるが日本の抵抗で拮抗した重苦しい空気が漂っている。このまま何事もなく試合が終了してくれれば波乱が無く、ゲームとしては面白くはないが日本にとっては一番リスク管理という観点からは良い戦いになるな。
……なんておとなしい考えを俺達が持つはずがない。
このままの硬直状況が続けば国際戦の経験が浅く、守備に穴がある日本代表の方が不利だ。リードしている今こそが止めを刺す絶好の機会なのである。
あ、念の為にもう一度繰り返しておく。俺は攻守のバランスが取れたセントラルMFを目指していて、この超攻撃的な日本代表のチームカラーには一切染まってはいないぞ!
こほん。そういった試合を決定付ける一点を狙うと言う意味では、皇太子が中盤の底まで出て来たのは日本にとってもラッキーだった。そのフォアリベロ、またはアンカーのポジションはおそらく最も守備的ポジションでは運動量が必要な位置である。
いくら皇太子が体力的に恵まれていたとしても前半同様に攻守両面に渡って活躍しようとすれば、必ずオーバーヒートを起こすはずだ。そこはスタミナと運動量に自信のある守備の専門家達でさえフル出場したら音を上げるハードなポジションだからだ。
監督の言う「皇太子には自分から崩れてもらう」というのはプライドの高い彼を攻守に走り回らせ、体力を奪おうとする作戦だった。
もちろん一つ間違えれば彼に大活躍されるリスクもある。だが攻撃もできるDFのリベロだった前半と、個人のディフェンスもオフェンスの組み立てもさらにオフサイドの指示やチーム全体を見てのコーチングの声掛けまでも自分一人でやらなければならない今の立場の疲労度は比べ物にならないはずだ。
ほら、その証拠にこれまで以上に肩の上下動が激しくなり端正な顔の唇が開いて息を荒げているじゃないか。
強敵の苦境につい頬が緩んでしまうとは俺も人が悪くなってしまったかな。
おっと、ちょうどこの残り十分ぐらいでの、得点すれば駄目押しになり試合が決まるいい時間帯で俺にボールが回ってきたな。
そしてやっぱり皇太子は俺へマークにつくタイミングが微妙に遅れている、疲労がピークに差し掛かって足が動かなくなっているのかもしれない。
よし、チェックに来る前にターンして簡単に前を向けた。それでも皇太子によってゴール前の上杉へのパスコースだけはきっちり消されているのは見事だが、今の消耗したお前に怖さは感じないぜ!
皇太子ハインリッヒが近付こうとする寸前に俺は思いきり右足を振り上げた。
そこで立ち止まろうとするハインリッヒだが足が踏ん張り切れなかったのか、ぐっと身を縮めながらも上体は前へつんのめる。
もらった!
そう内心で快哉を叫びながら右足を振り切った。
しかし、俺が蹴ったボールは前へではなく宙へ浮いていた。そう、俺の得意技の一つチップキックだ。
これで皇太子の頭上を抜いて後ろにボールを落せば、そこからよーいドンでのダッシュ競争となる。
もう足にきて、体勢が崩れているこいつが相手ならば突破するのは問題ないはずだ。なあハインリッヒ。
かわしたと確信してダッシュをしかけた俺の足がもつれるようにして急停止する。
その瞬間俺は信じられない物を見たからだ。
完全に疲れ切っていたはずのハインリッヒが空中の獲物を襲う豹のように跳躍し、ボールを額で受け止めていたのだ。
嘘だろう? 長身のハインリッヒでも届かないように上げたはずの高さのボールを完全にへばっていたにも関わらず、だぜ。
冗談抜きに今の跳躍は高ぇ。これほどのジャンプ力をまだ隠し持っていたのか。
しかも、浮かせたとはいえそれなりの速度があったはずのボールを単に頭で弾いてクリアするのではなかった。
空中での不自由な体勢でありながら首と上半身で柔らかくボールの勢いを完全に吸収し、そのまままっすぐ自分の真下に落としたのだ。着地した時にはすでに彼の足元でコントロールされている。
あれだけ大きな体をしているくせに、なんて瞬発力と柔軟性に技術までも兼ね備えていやがるんだよ。
――一連の動作を淀みなくこなした皇太子の口が釣り上がる。その顔から疲労の色は隠せないのだが、なぜかその笑みは凄みをもってはっきりと俺の目には刻まれた。
まだ敵陣であるにも関わらず、戦慄に鳥肌を立てた俺は大声を上げていた。
「皇太子が来るぞ!」
と。それは警告ではなく、半ば恐怖の叫びだった。