第三十話 先輩の力を見直そう
しまった! 自分のプレイの裏を突かれた屈辱に顔が歪む。
意表を突いたつもりで選択したパスコースが完全に皇太子に読まれ切っていたようだ。
後方から一気にオーバーラップしてきた島津の攻撃参加まで予想していたのか、絶妙の位置で相手の体に触れることさえなくエレガントにパスしたボールを奪われる。実にスマートな守備のやり方だが、それさえも余裕たっぷりみたいで余計に腹立つな。
しかし、そんな事に怒っている場合ではない。
俺がここまで綺麗にパスカットされたのは、サッカー人生のやり直しをしてから初めてかもしれないのだ。そりゃこっちがキックのミスをしたり、受け手との意志疎通が上手く行かずに敵にボールが渡った事はある。
だが完全に待ちかまえられてパスを遮られたのは珍しい。というか記憶にない。
もちろんそんなにパス成功率が高いのは俺の鳥の目があっての話だ。しかしハインリッヒはそれをかいくぐるような動きをしたのか、それとも想定外のスピードにイメージが追いつかなかったのか、もしくは俺の鳥の目と同じようなセンスを持っていてパスを予測して対応したのか。
とにかくどれにしてもこいつが厄介なことには変わらない。
僅かに俺が呆然としてしまった隙に、皇太子はすでに反撃の狼煙を自分のロングパスによって上げていた。
そのパスの標的は当然島津の抜けた日本の右サイドだ。
深い位置からドイツのサイドアタッカーの足元へ測ったようにボールが送られる。無造作に蹴っているようだがDFの抜けた裏のスペースへとアバウトに出すのではなく、距離があってもきっちりとピンポイントでパスを通しやがる。
しかしうちの守備陣はこれぐらいのサイドからのカウンターではそう簡単には崩されない。
なにしろこれまでもさんざん島津の空けた守備の穴を突かれているのだ、日本の守備はサイドから崩されるのはある程度織り込み済みである。
だから、この場合でもボールホルダーであるドイツのサイドMFへアンカーの石田が寄せてはいくが無理に追いかけてまでボールを奪おうとはしない。むしろゴール前に厳重に錠前をかけて固めようとしている。
特にドイツの得点源であるヴァルターに対しては武田と真田キャプテンの二人が張り付いているな。よし、あの二人ならそう簡単に競り負けたりしないはずだ。
俺の期待通りにドイツのサイドアタッカーが上げたクロスは武田の頭によって跳ね返された。うん、あいつの高さと強さは貴重だ。世界でも通用するし、いかにも体が重そうにジャンプしたヴァルターより頭一つ抜け出していたぞ。
それにしてもドイツの得点源のはずのヴァルターはここまでのプレイに本当に精彩がないな。まあ爆撃機が不調ならばそれはそれで平和で結構な事だ。今戦っている日本にとって不利な事ではない。
それより、またディフェンスから回ってきたこのボールをどう展開するか……。背中にドイツ代表のマークがついてきた事よりも皇太子にパスカットされたのが気にかかる。
偶然かもしれないが、さっきは完璧に止められたからな。これまでそんな経験がないからどうにもゲームメイクをするのにやりにくさを感じてしまうのだ。
ならば今度は攻め方を変えてドリブルで行ってみるか。
すぐ右斜め前方にいる山下先輩へ軽くパスを出すと、マークを回り込みながら前を向いてリターンパスを受け取る。
よし、いい形で敵陣でゴール方向へ前を向けたと思う間もなく、今度は目の前には皇太子が立ちはだかっている。なんでこいつこんなに反応が速いんだよ! ついさっきまでドイツのゴール前にいたのを確認していたのに、俺が突破しに来るのを予測していたようなディフェンスの仕方だ。
完全に俺の動き警戒してやがるな。皇太子からここまで注目されるとはまた光栄な事で。
それにしても実際に対峙してみると判るが、この少年から放たれるプレッシャーはとんでもない。攻めているのはこっちなのに、逆に餓えた虎からボールを狩られているような空気だ。こいつの本性はあだ名に似合ったおとなしい奴じゃなく、間違いなく精神的にはファイターである。
ここで一対一の勝負を挑みたいのは山々だが、俺の背後にはまだマークがくっついている。さらに敵のゴールまではまだ遠く、この位置で皇太子を抜こうとするよりも得点チャンスを虎視眈々と狙っているあいつにボールを渡した方がいい。
一回大きくボールを動かしドリブルで行くぞとフェイクを入れ、コンパクトな足の振りで上杉へとパスを出す。
そこにハインリッヒが左足を伸ばしてカットしようとする。そこまで計算してこいつが届かないコースを選んだはずなのに、いつの間にかとっていた間合いをほぼ消されてしまっていた。
幸いこのパスは皇太子の爪先をかすめるぐらいで、パスカットされるには至らなかったのだが本当に厄介な奴だなぁ、こいつは。
しかし、その僅かに触れられた分だけボールの軌道がずれる。いつものようにDFラインの裏のスペースへ飛び出そうとしていた上杉には合わなかったのだ。
そのままゴールラインを割るかと思いきや、なぜかさっきの攻撃からDFラインに戻らずここまでオーバーラップしていたままのサイドバックの島津が、スライディングしながらボールをラインの中に押しとどめる。
いや、まあこいつに攻め上がりを自重しろって言う方が無理なのは判ってはいる。それに今回に限ってはその積極性が役立ちチャンスがつながったから文句は言えない。
素早く立ち上がった島津がそのままセンタリングを上げた。
ドイツゴール前でのヘディング争いになるが、ここでは上杉が絶好のヘディングポジションから複数のDFによって弾き出される。一回裏へ飛び出したために却って危険な奴だと彼へマークが集中したようだ。
ゴール前からヘディングでこぼれた球を今度は俺とハインリッヒが奪い合う。
拾いに行くタイミング的には一歩先んじたのだが、彼も強引に体を寄せてボールとの最短距離に体をねじ込もうとしてくる。
こいつ、いざとなれば恵まれた体格を生かしたパワーでごり押しするプレイもできるのかよ。だからなんでもできるこんなエリートは嫌いなんだ。
半ば体勢を崩されながらも、僅かに先に届いた足先で山下先輩へとボールを押し出す。こんな時はいつも俺から適度な距離感を保っていい位置にいる先輩がありがたいぜ。
多少窮屈な姿勢ながら、パスを受け取った山下先輩がドリブルでまだゴール前に密集している地帯に突っ込む。突破できれば一気にビッグチャンスになるがちょっと相手ディフェンスが多すぎる。さすがに無謀じゃないのか……。
ああ、やっぱりボールを取られちゃった。
いや、違う! その前に審判の笛が鳴っている。ドイツDFのファールだ!
ファールを受けた山下先輩が痛む素振りも見せずに拳を握りぐっと小さくガッツポーズをしている。ここ最近攻撃の場面での見せ場が少なかったから自分のチャレンジで得た絶好のチャンスは嬉しいのだろう。
日本チームとしても嬉しいチャンスだ。この位置からならば十分に直接ゴールを狙えるし、何よりフリーキックをもらおうとするのは試合前からの計画の一つだったのだ。
もちろんわざ反則を受けた振りをしたり、ダイビングして審判から恵んでもらおうとはしない。イギリスの審判は特にそういう行為が嫌いだから、そんな事をしたら全体的に日本に対する判定が辛くなるからな。
だが、DFの密集した地域にカットインすれば相手が反則して笛を吹いてもらえる確率は高まる。これは正当なプレイでどこにも恥じることはない。
それでなぜ俺達がセットプレイの中でフリーキックに拘ったかというと、DFの役目が限定されるからだ。PKほどではないがフリーキックではキーパーの能力が一番重要になり、壁を作るぐらいしかシュートを邪魔することができないこのワンプレイに限ってはDFの皇太子の価値が激減する。
俺はさっそく審判が示した位置にボールを置き、そこからゴールまで視線を流してピッチ上の情報を頭に入れる。
明智がまた審判に「壁が近すぎるっす」と日本語でアピールした後、流暢な英語で抗議した。あいつが成績がいいのは知っていたが、英語で喋るのも上手いな。英会話ではまだぎこちない俺よりよっぽどネイティブに近い発音をしている。
審判も苦笑いして明智からの抗議を認めドイツの選手達に下がるよう指示すると、壁と距離ができた分少しだけシュートコースの選択肢が広がった。
セットされたボールの前で俺と山下先輩が並び立つ。ここからならば俺の右でのブレ玉で狙えるが……ちらっとハインリッヒに視線を流すとこっちをじっと観察している。
なんだか細かい挙動から次のプレイを予測されているだけでなく、思考まで読まれているようで気持ち悪いな。
先輩と二言三言交わし、助走の距離をとる。
じっと目を瞑って笛を待っている俺の耳に澄んだ音が届く。自然に体が動き、ゴールの右隅だけがイメージの中で大きくなる。
そして俺が足がボールを撃つ――その寸前に、山下先輩がその左足から鋭い軌跡のシュートを描き出した。
おそらく会場中のほとんどの人間がボールをセットした俺がフリーキックを蹴るという予想を裏切って、山下先輩が直接ゴールを狙ったのだ。
代表ではほとんどが俺か明智がフリーキックを撃っていたために、これまでは封印されていた先輩の久しぶりの一撃は、俺だけを警戒して虚を突かれたドイツ代表の反応を遅らせた。
――ただ一人を除いて。
それが誰だかはもう判るだろう。異常なディフェンスのセンスを持った皇太子が、ゴールの左上を襲うボールをクリアしようと跳躍する。
ハインリッヒよ、お前は俺をじっと見ていたのに俺が狙っていたゴールの反対側に来ると思わなかったのか?
山下先輩のフリーキックが皇太子の茶色い髪の頭を掠めてゴールネットを揺らすまでの数瞬の間に「俺が蹴ってたらハインリッヒに止められて入らなかったかもしれない」と少しだけ弱気の虫が顔を出した。
いや、とにかく先制点だ!
隣で日本のサポーター席へと人差し指を掲げ「俺が一番だ!」とアピールしている山下先輩を祝福しなくちゃいけない。
なにしろこれまで俺の背中にたっぷりと紅葉をつけてくれた主犯格の一人だからな。
「山下先輩ナイスシュート!」
「へへっ、もっと褒めてもかまわないぞ!」
うん、自分で得たフリーキックを己の足で決めた先輩はテンションが最高潮だ。この流れならどさくさに紛れて背中を叩いても大丈夫だな。
まるでこんな風にゴール後に背中を狙い合っていると、小学生に戻ったような気がする。
まあ、それは他のチームメイトが集まるまでのほんの少しだけの感傷なのだが。
――前半十五分、日本が先制点を奪取。
その時歓喜で湧き立つ日本代表の中で、鳥の目を持つ俺だけがドイツの主軸二人を見ていただろう。
皇太子ハインリッヒの悔しさに唇を歪めた表情と、新型爆撃機ヴァルターの「ようやく出撃準備ができたぞ」と言いたげな自信に満ちた笑顔を。
彼らはこの失点にいささかも戦意を損なっていないようだった。
そりゃそうだ、国の面子のかかった代表戦で一点失ったぐらいで諦めるようなチームはここまで勝ち残っていられるはずないもんなぁ!
先制したという興奮と、それに対してまるで覇気を失わない敵チームに鳥肌が立つ。さあ、これからがドイツの皇太子と爆撃機を相手にした戦いの本番だ。