第二十四話 体をゆっくり休ませよう
イタリア戦の翌日、俺は少し寝坊気味に目を覚ました。
あくびをしながらぐっと背筋を伸ばすとぽきぽきと凝り固まった関節が鳴る。うう、ちょっとまだ疲労が抜けきっていないな。フル出場は免れたのにと、他の最後まで戦ったスタメンに比べて自分の体力の無さに落ち込みそうになる。
ま、まあ体力作りは長期的課題だ。小学生の頃も初の全国大会では息切れしたが、卒業する頃には一試合を通しても平気になっていたのだ。
だからきっと試合時間が中学になってから延びたのにも、もうしばらくすれば適応できるはずだ。……ただこの世界大会には間に合わなさそうなのが辛いところだが。
さて眠い目をこすりつつ食堂に行き、あまり美味しいと思わずにバイキングで消化の良さそうな朝食を取る。
食べなきゃ体力が回復しないのは判っているが、なんだかこっちのパンは日本の物よりぱさついている感じなんだよな。元気一杯な時はいいが、ちょっと疲れている時なんかはそんな僅かな違和感が気にかかってしまう。
むにゃむにゃとゆっくり食べているといつの間にか食堂に残る最後の一人になってしまった。
さて今日は試合直後の休養日だ、これからミーティングが行われる夕方までどうするかなと砂糖を多めに入れた食後の紅茶で喉を潤しながら思考する。
本来はコーヒー党の俺だが、イギリスでは明らかに紅茶の方が美味しいのでどうしてもそっちを頼むようになる。正確に言えばこのホテルのコーヒーがあんまり美味しくないのだが、これはもしかしたら海外からの宿泊客を紅茶党へ洗脳しようとする陰謀ではないかと俺は密かに疑っている。
こんなくだらない陰謀論を考えられるのも、ようやくはっきりと目が覚め脳に血が巡り始めて物が考えられるようになったおかげだな。
とりあえず、一回自室に戻って習慣になっているランニングをしてからマッサージを頼もう。チームドクターではなくフィジカルコーチにしてもらうのだが、これが中々に気持ちがいい。疲れている時なんかは途中でいびきをかいてしまうほどリラックスできて、翌日になるとだいぶ疲れが軽減されているのだ。
昨日も試合後してもらったがさすがにマッサージを希望する人数が多く、あまりじっくりとやってはもらえなかった。今日ならば少しはゆっくりと時間をかけて丁寧に揉みほぐしてもらえるかもしれない。
自室からトレーニングウェアに着替えてランニングに行こうとすると、その途中でまた余計な物が目に入った。
ミーティングルームで明智が携帯をいじっていたのである。もしかして、こいつ俺の進路を先回りしてないか?
前もこんな事があったよなと思いつつ、やっぱり無視は良くないだろうと声をかける。
「明智さん何してるんですか?」
「ああ、昨日の試合の日本での評判をちょっとしらべてみたっす」
そう言って日本国内での俺達代表に対する反応を大雑把にまとめてくれた。
明智は情報を扱うのが好きなのか対戦相手や自分達のデータを尋ねると、大体二つ返事で答えてくれるのだ。
さてイタリア戦での勝利の後日本では山形監督率いる我がアンダー十五の日本代表は、サッカー関係者だけでなく一般層にまで話題になっているそうだ。
そりゃそうだろ。俺達の代表チームは手前味噌になるが、まず何と言っても試合内容が面白い。
ほとんどやけくそでスタメンを選んだのではないかと邪推されるほど、攻撃的な面子の多い刺激的なチームである。
そのためにアジア予選以来これまでのどの試合も必ず得点と失点の両方があるので、報道するにしてもゴールシーンを中心に非常にエキサイティングに編集しやすいのだそうだ。
そしてこれはプラス面もマイナス面もあったが、ネット発で俺達代表に関する話題が沸騰したらしいのだ。
俺を含めた攻撃的でかつ突っ込み所の多いメンバーは、にわかファンにしても判りやすい実に何というか「キャラが立っている選手」が多かったのである。
特に目立つ選手についてはプレイスタイルからこれまでのまだまだ短いがキャリア通算の成績など、ネット上では詳細な記録に分析までされている。
俺もそこで名前の挙がっている選手の一人だが、皆がこれまでの公式戦が何試合で何得点とか書いてあるのだ。だがある人物だけは何試合で何KOというKO率まで入った毛色の変わった経歴も持っている。明らかにサッカーだけの情報じゃないよな。
そこまで調べているのは凄ぇが、これ一体何の役に立つんだ?
他にも好調な視聴率で扱いが大きくなった世界大会の生中継の実況だが、アナウンサーと松永によってコントのような掛け合いが行われているらしい。放送日に毎回のように炎上する自身のブログに燃料を注ぎ続ける松永前監督が、一試合ごとにドヤ顔から冷や汗へと変化していく。それをリアルタイムで実況するスレは大人気だったそうだ。
おかげでネット上では謎の「納豆少女」のように現代表を応援するサポーター達と、松永は現役時代は凄かったんだとする一派が激しく論戦を繰り広げているのだ。
この両者の戦いはもうほとんど戦術や選手選考の議論ではなく、互いの嗜好の問題になってきてしまっている。
論戦の一例を挙げると「白飯の一番の友は納豆だよね、だからアシカが後ろ向きでプレイしてもOKだよ!」「何を! 松永前監督はJリーグになる前に得点王を取ったこともあるんだぞ。だから絶対島津の先発出場はおかしかったんだ!」……もはや戦術的にどちらが正しいとか言うレベルではない泥沼の戦いの様相を呈していた。
それがまた白飯に最も合うのは梅干し派とか日本の歴代最高のストライカーは誰かなど、話題は代表そっちのけで場外乱闘のような盛り上がりも見せていたのである。
「これって喜んでいいんでしょうかね?」
「さあ判らないっす。でも代表に注目度が上がったという点はプラスっすね。多くの人に応援されるとやっぱりやる気が違うっすから」
「……まあそうとでも思っていないとやってられないですよね」
「その通りっす」
顔を見合わせて鏡に映ったように同時に苦笑いをして肩をすくめる。
注目を集めるのは確かに嬉しいが、同時にプレッシャーも大きく強くなる。そのぐらいは代表に選ばれて青いユニフォームを着た時から覚悟は出来ていたつもりだ。
だが、事前に予想していた以上に俺達の代表はマスコミから一般人へ向けての露出が多いようだった。普通年代別の代表チームとかは、オリンピックを目指すチームぐらいしか一般のマスコミには映らないと思っていたのだ。
まあ俺に関して言えばサッカー人気が上がるのは願ってもないことだとは思う、でもあまりそれ以外の事で目立ちたくはないんだがな。
例えば松永前監督との関係にしても彼があんまり適当な嘘をぺらぺら喋りすぎると、ついうっかり俺も本当の事を取材に来た記者さんにぽろっと洩らしてしまいかねない。
協会の関係者から「できるだけ松永前監督に対しては穏便に頼む」と山形監督と一緒に言い含められていた。だが、俺達はともかくブラジルにいるカルロスなんかにインタビューされたら一発でどんな監督だったかバレてしまうんじゃないかな?
でもそこら辺の事情は俺が心配してやる義理は全くないはずである。
これまでもインタビューなどで「足利君にとって松永前監督はどんな監督でしたか?」「誰ですかそれ?」「……足利君はあまり人の名前を覚えるのは得意じゃなかったんでしたね」といった会話をしていたのだ。
一応嘘は言っていないし、どう解釈されたかは知らん。
それにあの記者も結構失礼な奴だよな。俺のどこが人の名前を覚えるのが苦手なんだよ。
「まあ日本国内の話はここまでにして、次のブラジル戦についての情報は真田キャプテンと石田も交えて話し合うっす。その方が守備の戦術とも擦り合わせがスムーズにいくはずっすからね」
「ああ、了解。……ところで石田って誰だったっけ?」
明智は信じられないような物を見る目で俺を数秒凝視し、「ギャ、ギャグっすよね? これまでずっと一緒に中盤で戦ってきたうちのアンカーじゃないっすか」と答える。
……えっと、アンカー役の彼ってそんな名前だったっけ? う、うん、そうだったな。ど忘れとか人間誰でもたまにはあるよな。
だから心配そうな顔をして「ぼ、僕の名前は覚えてるっすよね?」と念を押すな。お前のような特徴的な奴は忘れっこないから。そう思って名前を呼んでやると露骨にほっとされるのも嫌だな。
大体アンカーのえっとそうだ石田は、その真面目過ぎる性格から守備に関しては俺からの無茶ぶりも全部受け入れて、その上で黒子に徹してくれているから別に名前を覚える必要性はなかったんだよ!
……あれ? 今考えるとかなり有用な人材だな。
……その、次の試合からはちゃんと名前を呼んであげようか。
そしてイタリア戦から四日後に行われたグループリーグ最終戦。
当然のようにナイジェリアを粉砕したブラジルとのグループリーグ頂上対決になる。
もう両チームとも勝ち点六を得てグループリーグは突破が決定し、すでに本戦のトーナメント進出が決まっていた。
お互いがむしゃらに勝利を求める試合ではない。だからこそ負けてもリスクのない両代表がどんな戦い方をしてくれるのか、いつもの負けられない試合への緊張感に満ちたものではなくリラックスした興味本位の視線が集まるのだ。
そして日本のサッカーファンと一般のマスコミにも注目された俺達日本代表と、若きタレントに恵まれ世界中のサッカー関係者が注目するブラジル代表の一戦が行われ――日本は惨敗を喫した。