第二十話 ニックネームを頂戴しよう
赤信号ジョヴァンニをドリブルでぶち抜く。しかも相手が手の使えるエリアの中で、その上にDFが追い付くまでの短時間という制限付きで。
困難なミッションだが、それでも撃つ前に彼に防ぐのに最適なポジションを取られてしまったシュートを狙うよりはまだゴールできる確率が高いはずだ。
というか今更捨てたシュートを撃つというプランを考えても仕方がない。
ここまで接近されてしまうとシュートチャンスはもうなくなったのだ。雑念を捨ててこの怪物キーパーをかわす事だけを考えなくては。
右・左と小刻みにフェイントをかけながらボールをタッチするが、相手の軸はびくともしない。
俺とゴールの間に常に大きな体を割り込ませるように位置取りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
これ以上は時間がかけられないと、ゴール正面に向かうフェイントを入れて実際にはシュートの角度がきつくなる縦への突破を試みた。
え? これにもついてくるのかよ!
今の切り返しはキレのある会心の動きだったはずだが。こいつ手を使わないでも普通の選手より一対一が上手い。
くっ、危ない!
一瞬だけ余計な事を考えたのが仇になったのか、ジョヴァンニからのチェックで危うくボールを奪われそうになる。
反射的にボールを引っ込めて体を反転し、身を捩って雛を守る親鳥のように背中をキーパーに晒して懐にボールを抱え込んだ。
何とかボールを失う事だけは避けられたが、ジョヴァンニとゴールに背を向ける格好になってしまったぞ。
ああ、しかもDFがエリア内に追い付いてきてキーパーのすぐ後ろにバックアップとしてつきやがった。
本来ならDFが前に出てキーパーはその後ろに控えたいはずだ。
でもここでキーパーと位置を代わると、そのマークの受け渡しをする僅かな隙に俺がシュートを撃つかもしれない。だからバックアップについたんだろう。
さらにもう一人のイタリアDFも遠いサイドのゴールポスト付近に戻っていやがる。あそこに居られてはジョヴァンニの頭上を超すようなループを撃ってもあいつに処理されてしまう。
しかし、イタリアの守備は鍛えられている。僅かな時間で守りを整えてどんどん攻撃の手段を削ってくる。俺はこれでループシュートを撃つという選択肢までも失ってしまった。
どうする、どうする?
その時俺は一筋のシュートコースを見つけた。おそらく鳥の目を持った俺にしか発見できないであろう道筋だ。
迷っている時間はない。決断すれば後はその直感に従って体を動かすだけだ。
そしてこんな無茶な要求に応えられるように、俺はこれまで肉体と技術を鍛え上げてきたのだ。
キーパーチャージにならないように気を付けながら、背中をジョヴァンニに接触ギリギリまで近づけるとマルセイユルーレットのモーションに入る。
相手もこの背中を向けた状態ではターンするかパスかの二択しかないと読んでいたのだろう、足を広げて腰を落とすと右からは抜かれない様にしている。
俺の左側はもうゴールラインギリギリで、これ以上は進めば外に出てゴールキックになってしまうからだ。
このタイミングでしかシュートチャンスはない。
俺はゴールとジョヴァンニに背中を向けたままで思いきりヒールキックを撃った。
長身のキーパーは足元が弱点だと言われるが、この赤信号に限ってはそうではなかった。これまでも狙ってはみたが、ことごとく防がれたからだ。
だが今のこのタイミングならばどうだ?
至近距離でルーレットをしようと背中を見せている状態からのヒールキックならば?
しかもジョヴァンニは自分の後ろにはちょうど今DFがバックアップに付いて、ゴールの守りが整ったと思った瞬間なら?
そしてゲームメイカーの俺にはここからはパスかドリブルしかないという判断でシュートへの集中が削がれた瞬間ならばどうだ?
背中越しの俺からヒールで撃たれたボールがこれほど強いとは思ってもみなかったのだろう。ジョヴァンニの長い脚が閉じる事ができないうちに、その股の間をボールがすり抜けていく。
はっとしたジョヴァンニだが、後ろにバックアップのDFがいるのを思い出したのかすぐ振り向く。彼がこのシュートをブロックしてボールがこぼれた場合に備えて体勢を立て直したのだ。
仲間が俺のヒールショットを止めてくれると信じているのかそれともキーパーとしての執念か、まだゴールを守るのをちっとも諦めてはいないようだ。
うん、俺以外の鳥の目でピッチを眺めていないプレイヤーならば、後ろを確認もしていない状況からのヒールシュートはただの悪あがきでしかなかっただろう。
でもな、俺はきちんとシュートコースを見つけて撃ったんだ。
キーパーだけでなくその後ろのDFの股下にもな。
ヒールキック一発で、キーパーとDFの二人を同時に股抜きでぶち抜くシュートである。
キーパーがブラインドになったのか、後ろに控えていたDFは反応すらできなかった。
どうやら自分の足の間をボールが通り過ぎてから初めて気が付いたようで、驚愕に顔を歪めている。
ファーサイドへ構えていた残りのDFもまた、ループかパスを警戒していた所へ仲間の影から突然現れたシュートなんか止められるはずがない。
高い観客席からピッチを眺めていた観客達ですら、いきなりゴールマウスの中にボールが出現したようにしか見えなかっただろう。
審判でさえゴール内にボールがあるのを二度確認してから、やや遅くなったゴールの笛を吹いた。
俺も振り返って肉眼で確かめてから腹の底からの雄叫びを上げる。
「おおおー! 見たか! 俺を、いや日本代表を舐めるんじゃねーぞ!」
対戦相手への鬱憤を大声で晴らす。
この瞬間だけは試合中でありながら、ただゴールした感動と興奮に我を忘れていい至福の時間だ。これまでの試合展開で受けた全てのストレスが叫びと一緒に浄化されていく。
叫び終えようやく天に向けていた顔を戻して周りに気が使えるようになると、叫ぶ場所をもう少し考えるべきだったかとちょっぴり後悔した。
なぜなら目の前にいたジョヴァンニの顔が髪と同じほど赤く染まり、歯を喰いしばっている音が聞こえそうなほど首の筋肉が膨れ上がっていたからだ。正直怖ぇぞ。
だが仮にも相手も一国の代表選手、しかも主力である。
ぐっと何かをこらえると舌打ちと共に身を翻し、ゴールの中のボールをセンターサークルへ向けて蹴り出した。
そして大声で怒鳴るようにまた仲間に指示し始める。まだまだ彼は試合を諦めず、闘志に翳りはないようだ。
ここまで時間が経過してやっとゴールしたのが俺だと判ったのか、チームメイトが祝福に駆け付けてくれた。
口々に「あの赤信号からゴールするなんて凄ぇ!」「後ろ向きの方が決定力が高くなるなんてさすがアシカだな!」「さんざんワイを囮にしたんやからこのぐらいはやってもらわんとな」とバチバチ背中を平手で叩きながら褒めてくれている。
「痛てて。あ、ありがとうございます。でもちょっと背中に紅葉をつけるのは禁止でしたよね。勘弁してくださいよ」
俺の抗議にはっと一瞬チームメイトが手を止める。
だが「ふふふ、僕はそんなことしてないっすよ」という誰だかばればれの少年が見えてないと高を括ってかさらに平手で追い打ちをかけると、「けけけけ、ワイも絶対してへんで」とか「ふはは、先輩をもっと敬えー!」「デイフェンスの苦労はこんな物じゃないぞ思い知れ」といったもはや得点とは何の関係もない言葉とともに、勢いを増して背中の紅葉が数を増やす。
うう、こいつらに次のゴールをアシストしたら絶対にやり返してやるぞ。
「まあ、ゴールして叩かれるなら本望やな!」
「いやあんたがこの習慣に真っ先に反対したんですけどね」
「固いこと言うなや」
全員が悪気がないのだからこれ以上文句を付けても仕方がない。次にこいつらがゴールした時に絶対お返しするのを楽しみにこれからはアシストに励もうか。
ようやく仲間からの拘束を解放された俺は、グシャグシャになった髪とおそらくは大量の紅葉が付いた背中がひりひりとしてちょっと気にかかった。
だが俺の頬は緩みっぱなしだ。
そりゃそうだ。なにしろあの今大会ナンバーワンキーパーの呼び声も高いイタリアの「赤信号」ジョヴァンニの守るゴールから得点したんだもんな。
スタンドで盛んに振られている旗も歓声も俺一人に捧げられているように錯覚してしまう。
自陣に戻る足取りがこれまで以上に軽く、まるで宙に浮いているような心地である。完全にゴールの美酒に酔ってしまった。
いかんいかん、このぐらいで満足してはいけないんだ。引き分けではなく、まだこれから逆転するという大仕事が残っているんだから。
あんな曲芸染みたまねはジョヴァンニには二度と通用しないだろうし、一層気を引き締めたイタリアと赤信号が相手なんだから俺もまた気合を入れなおさなきゃいけない。
ああ、ほら見ろイタリアはもう完全に陣形を整えて再開に備えているじゃないか。
イタリアの様子は同点に追いつかれても気落ちした様子を窺わせない。ショックを外に出すことが自国の士気を下げ、相手を勇気づけると知っているのだろう。
これからが本番だと声を掛け合い、自慢のキーパーが破られたダメージを表面上は完全に覆い隠している。ここら辺がサッカー伝統国の持つ強さとしぶとさだな。
勝たなければグループリーグ敗退がほぼ決定のイタリアは攻撃的に来るだろうが、日本もここから引き分け狙いに変更なんて器用な真似はできない。もちろん明智や島津のポジションは前半の位置にまで下げるが、攻撃を捨てて守りに徹する訳ではないのだ。
というか、俺の直感はそんな腰の引けた作戦を取ったらこのイタリアの覚悟に押し切られると告げている。
むしろ時間を気にするイタリアから先に一点取って、試合を決めてしまうのがうちのチームの流儀なのだ。
さあ、ここからが勝負所。一番楽しく盛り上がるクライマックスだな。
だからベンチで嬉しそうに右手を振りあげているが、左手は腹をさすり続けている山形監督も安心してくれ。
上機嫌で親指を立てて監督にアピールすると、なぜかひきつった表情をしながらもグッジョブと返してくれた。
この試合で見せたトリッキーなプレイとピッチ上での笑みを絶やさない姿から「ピッチ上の道化師」という現在の代表の年代にストライクな、中二病溢れるニックネームが俺に定着してしまったのだが、まあそれは試合後の事だ。