第十九話 手強い相手を抜いてみよう
改めて鳥の目でイタリアのディフェンス陣形を見直すと、整然としているようだが確かに間隙も空いている。
それはそうだろう。十一人しかいない――しかも守備に全員を割けるわけでもない選手達で、ピッチ上の自陣のスペースを全て埋めるのは不可能だからだ。
ならば守備側としてはどうするのか? 普通ならばより危険と判断されるエリアにDFを配置するのだ。
もちろんそれは相手のフォーメーションによっても、若干の手直しと変更される事が前提の物なのだが。
しかしイタリアの守備ではゴール前の重要な地点にしばしば穴があく。それもゴールに直結するような場所でだ。
鉄壁の守備に誇りを持つかの国がそんな無様な真似をするだろうか? とてもそんな楽観はできない。そんな不注意なチームだったらブラジルは苦戦なんかしないし、日本にしても前半の内に何点か取れているはずだ。
だとすればこの隙はわざとそこへの攻撃を誘う為の罠でしかない。
つまりはこれまで日本の攻撃がことごとく読まれていたように防がれたのは、シュートの前段階からその地点に来るように誘導されていたせいなのか!
くそ、舐めたまねをしてくれるものだ。
そうしている内にもチラチラと上杉へのパスコースが開いているように見える。俺ならば通せる――逆を言えば俺や明智といったパサーでも通すにはギリギリで余裕がない。最終的なパスがそこに来ると判って準備していれば、そんな遊びのない正直で正確なだけの攻撃は読みやすく対処しやすかったかもしれない。
おそらくブラジルも最初の内はこの敵からの誘いにずるずると乗って、ペースを握られてしまったのだろう。
日本も同様の手口に乗って、これまではいいように踊らされてしまったって事か。
頭に血が上っていくのを自覚する。ここまで俺達は相手に許可されていた場所しか攻撃していなかったのか!
……いや、そうじゃないよな。すっと急に思考がクリアになる。もしすべてがイタリアの思惑通りにいっているのならPKなんてもらえるはずがないじゃないか。
いくらジョヴァンニが凄腕のPKストッパーだとしても、PKなんて止められる確率の方が低いはずだ。あれはわざとではなくPKなんて撃たせるつもりはなかったと考えたほうがいい。
ならばイタリアの計算が狂った理由はなんだ? ああ、そうか。答えはすぐに出た。
俺の突破力がイタリアの想定以上だったのだろう。
前のブラジル戦でもカルロスのような個人で突破できるドリブラーにはマンマークを付けていた。もしかしたら、このパスコースを空けて誘導するディフェンスは強引なドリブルが苦手なのかもしれない。
――だったら試してみるしかないよな。
手を上げてまた後方の味方にボールを要求する。同時に山下先輩に視線を飛ばす。
それだけで俺の意図を理解してくれたのだろう、彼は軽く一つ頷きを返してくれた。
まだ自分の頭の中でも完全にはまとまっていない俺の作戦を理解してくれるんだから、先輩ってものは本当に有り難い。
……本当に判ってくれてるんだよな? 山下先輩。最近少し影が薄くなった先輩にちょっぴり危惧を覚えるぞ。
さっそく回ってきたボールにいつものように頬が緩む。だが今回はそれがいつもより少な目である。
うう、俺は今フリーだからもっと優しいパスでもいいはずなのに「いい加減点取ってこいや!」という日本ディフェンスの感情が込められてような強いボールが来たからだ。
判ってるって、ただもうちょっとだけ待っていてくださいよ。
ぐっと体勢を前傾させ、高速ドリブルの姿勢になる。
本来ならピンと背筋を伸ばして周りを見ながら進むのが中盤のゲームメイカーのドリブルとしては正しい。
しかし俺はその周辺の状況をドリブルを始める前に見回して、後は鳥の目による脳内に映るイメージで把握して処理しているので問題はないのだ。
逆に下を見てばかりいるから「どこを狙っているのか判らない」「やっと顔を上げたと思ったら逆方向へノールックパスを出された」とかマッチアップした相手からは不評の、マークがやりにくくて仕方ないプレイスタイルらしい。
今日もイタリアのデイフェンスを何度か破っているし、スピードじゃなくトリッキーな技術でかわす俺の突破は世界でも通用するんじゃないかと希望が持てる。
まあここまで上手く行っているから自分のドリブルを試してみるんだけどな。
足元にはボール。場所はプレミアリーグのホームグランド。舞台は国際大会で相手はイタリア代表とくれば顔が綻んでしまうのも仕方ない。
こんな日の当たる場所でサッカーが出来る幸せな選手はそうはいないだろう。
こんな場面で笑顔を作らないでいるのは、俺にとっては赤信号からゴールを奪うのと同じくらいの難事である。
だいたいサッカー馬鹿の俺がしかめっ面をしているという時点でそれは日本が苦戦しているという事を意味しているんだ。俺の表情一つで味方もサポーターも今の状況は厳しいと感じとってしまうだろう。
だから「真面目にやっているのかあいつは?」と前の代表スタッフに文句を付けられた楽しそうな顔で、ダンスのようなステップで、相手を小ばかにしたようなフェイントで敵を翻弄しよう。それがきっと俺にできるベストなプレイなのだから。
覚悟を決めるとなんだか足取りまで軽くなったようだ。
よし、スルーパスを出すのに絶好のポジションにまでたどり着いたが、ここからどうするべきか。
俺に予定通りの場所へパスさせるためかイタリアの守備陣のプレスが少しだけ遅く感じられる。あ、今ちらりと上杉の姿が肉眼でも確認できた。俺ならパスが通せる程度のきわどいタイミングで、だ。
これまでならゴール前の上杉に反射的に鋭いパスを届けようとしただろう。
だが今はパスコースに穴が空いたはずなのにそれを埋めようとしないディフェンスの動きを見極めようとしているんだ。
うんやっぱり、イタリアのDFとキーパーはまだパスを受け取っていない上杉をパスをもらった次の瞬間に潰そうと動き出しているな。
――その誘いを今度はこっちが利用させてもらおうか。
俺は山下先輩へボールを渡すと、そのイタリアが見せた隙間を走る。
上杉に予想したタイミングでパスが来ず、なぜか俺が誘いの隙を見せた守備の穴を走っている事にディフェンスラインが僅かに乱れる。
誘うためとはいえ、隙は隙なのだ。穴が開いていた分ディフェンスは俺へ厳しいチェックができずにいる。
またそのタイミングで「あかん、オフサイドや」と上杉もまたゴール前からDFラインの内へと戻って来たのだ。
さあ、どうするイタリアディフェンスの皆さんは?
その答えはよりゴールへ近く脅威度が上と思われる上杉へのタイトなマークだった。これまでは微妙に間合いを測ったマーカーが抱きつきかねない密着マークへと変更された。
その分、俺へのマークがほんの少しだけ遅れる。
頼んだぜ山下先輩。あんたは元々はシューターではなくトップ下のパサーでもあったんだ、いいボールを期待してますよ。
その無言のメッセージが届いたのか走っている俺の足下、しかも利き足である右にぴたりと合わせられたパスが通った。
減速する必要もないほどドリブルにおあつらえ向きのボールだ。この辺の呼吸は小学生以来の付き合いになるだけに寸分のズレもない。
止まってトラップせずにボールをワンタッチでコントロールできた分、俺はボールを受けとって三歩の後にはすでにトップスピードに乗っている。
そのままイタリアにとって危険なペナルティエリア前までくると、DFがここから先へは通さんと、凄い迫力で立ち塞がる。
よし、今だ。
僅かに空いたゴール正面の上杉へのパスコースに向けて左のアウトサイドでボールを押し出す。
その次の瞬間幾つもの出来事が重なった。
まず一つ目は上杉がDFラインをすり抜けるようして裏を取った。
次にその上杉と俺への直線上に上杉をマークしていたはずのDFが割り込んで、パスがくればカットしようと絶好の位置を占めたのだ。
そして最後に俺は上杉へとパスを「しなかった」。
左のアウトサイドで押した次のタイミングで足がボールを追い越して、インサイドで切り返したのだ。パスに見せかけて少しだけボールの持ちが長くした変形のエラシコである。
最後にお前らイタリアの誘導策の裏を突いたぜ。
エラシコについてこれなかったDFを振り切ってペナルティエリア内にまで侵入する。ここまできたら敵DFもまたPKが怖くてタックルにはこれない。
ましてや今DFは全員が俺の後ろにいるのだ。接触プレイは全て危険なバックチャージとして、PKプラスレッドカードのおまけ付きになってしまう。
この時点で俺はDFを意識の内から消していた。
そして――持てる全ての集中力をいつの間にか目の前に飛び出して来た少年、赤信号ジョヴァンニの守るゴールを奪う事に費やしていたのだ。
後はこいつさえ何とかすれば得点できる。
だがどうしてもシュートを撃つ事ができない。今俺がここからシュートを撃ったとしても入るイメージが全く持てないからだ。
この少年の発するプレッシャーからかジョヴァンニの体がそれこそゴールを隠すぐらい大きく見えてしまう。こんなんじゃシュートは撃つだけ無駄だ。確実に枠から逸れてしまうぞ。
なら誰か、例えば上杉にでもパスを出すか?
思考が逃げに流れそうになった時、俺の頭に実に今の日本代表チームらしい攻撃的な発想が浮かんできた。
――シュートが無理ならジョヴァンニまで抜いてしまえばいいんじゃないか?
確かにキーパーをドリブルで突破できればゴールは間違いないだろう。
問題はこのナンバーワンキーパーを手が使えるペナルティエリア内でかわせるかどうかだが、こればかりはやってみないと判らんよな。
だから、やってみる事にした。