第十五話 笛の音に喜ぼう
上杉が強烈なボレーを撃つ。ジョヴァンニによって弾かれる。
島津がミドルシュートでゴールを狙う。赤信号の手でキャッチされる。
山下先輩は俺からのスルーパスで抜け出しキックする。敵のキーパーに止められる。
俺もキーパーの前目の位置を見てループシュートを放つ。瞬時にバックステップしたジョヴァンニの長い手がゴールの枠から外へと逃がす。
左ウイングの人……ああ馬場だったな、彼がクロスに対してダイビングヘッドを敢行する。当然イタリアの守護神に防がれる。
――つまり日本の猛攻は忌々しい事に、ディフェンスは崩せても最後のギリギリで全てあの赤信号キーパーのジョヴァンニに止められてしまっているんだ。
その直後にイタリアのカウンターによって日本の右サイドを抉られる。
自分の受け持ちのはずの場所を蹂躙される度に島津が「く、俺があそこに居さえすれば手助け出来たものを……」と拳を震わせているが、そう悔やんではいてもじゃあ下がろうかという発想はこいつにはないらしい。
普段の島津のポジショニングは、敵ボールの時はDFラインにいて日本がボールを確保するとすぐに前線へ上がってくるという物だ。どちらがボールを支配しているかで極端にアップダウンが激しい位置をとっている。
だが今日はそれが正直上手く機能しているとは言えないな。ボールキープ率は日本が多い為に島津は前線に数多く顔を出しているのだが、そこからのイタリアのカウンターが鋭すぎるせいで島津がDFラインに戻りきるまでの時間がないのだ。
結果として島津は真田キャプテンが率いるディフェンスを、俺達と一緒に手を振って応援するしかない。
それでも日本の守りにも明るい材料もある。例えば今日のうちのキーパーについては当たりの日だ。
多少調子に波がある日本の守護神だが、この試合ではDFが防ぎ切れなかったボールを危なげなく処理している。見くびっていてすまないが、正直毎試合失点しているうちのディフェンス陣がここまでイタリアの攻撃陣を相手に頑張ってくれるとは思っていなかった。
しかし、何回も敵からシュートを撃たれるのは心臓に悪い。せめてこっちが先制していれば悪くても同点止まりだと、もう少しは安心できるのだが。
つまりは俺達攻撃陣の不甲斐無さがこのサスペンスを作ってしまっているんだ。
うちのキーパーがボールを抱え、DFを落ち着かせるように笑顔のまま「大丈夫だ、こっちに来なくて良いぞ」と手で制する。温厚で頼りがいのあるその姿は、俺達攻撃陣に対する厳しい態度とは随分と違うな。
うう、このディフェンスの献身ぶりに応える為にも早く一点を取らなければいけない。
今は守備が安定しているとはいえちょっとしたミス、あるいは不運で失点しかねないのがカウンターの得意なチームとやる怖さだからな。
しかし、日本代表がこれだけ攻め込んでも得点できないなんてこれまでなかった。
アジア予選でのアウェーでは攻撃陣がほとんど不発だった試合もあったが、あの原因はどちらかというと敵のディフェンス能力ではなくラフプレイでゲームを壊されたせいである。
イタリアはここまでファールがほとんどない、激しいがクリーンなディフェンスをしている。尤もそれはフェアプレイ精神だけでなく、セットプレイになると万一があるからと無理をしてまでは止めずにキーパーへ任せるという共通理解もあるのだろうが。
何にしろ自分達が擁するキーパーへの絶大な信頼感のなせるプレイである。
そうした精神的支柱を持つチームは強い。
どんな逆境にあってもエースが健在な限り試合を諦めないからだ。どれだけ日本が押していても最後の一線はジョヴァンニが防いでくれるという、信仰にも似た思いがイタリアの強固な守備の骨格となっている。
だからイタリアの陣内でパスを繋いでDFを振り回しているにもかかわらず、その精神的な疲労を感じていないようなのだ。全く持って厄介な敵である。
とりあえず一点取って勝ち越してしまえば、向こうもキーパーに対する信頼感が薄まって集中力も削がれるのだろう。だがその一点がどうにも遠い。
いや、弱気になるな!
自分を叱咤する。遠いも何も、日本が攻め込んでいるのは確かだ。だったらそこから最後の詰めを誤らなければ必ず得点できるのは間違いない。
そろそろ時間も前半の残り五分を切っている。ここら辺で何とかしてゲームを動かしたい所だ。
カウンターを止めたディフェンスから今俺まで回されたパスも、気のせいかやや雑になってきたように感じられる。この拮抗状態にうちのDFも精神的に疲れが溜まって来たのかもしれない。
改めて何とかせねばと気合を入れ直すが、やはりイタリアの守備の壁は厚いんだよなぁ。
ふむ、ちょっと今度は違った手で行くか。
俺は少しずつ間合いを測ってゆっくりと前進する。他の攻撃役はとりあえずその場で待機だ。その方がDFを引き付けていてくれる。
ここからが相手のボールを奪いに来ると設定したラインだと見て取った、そこよりほんの僅かに手前の地点からシュートモーションに入る。
これには慌てた様子でイタリアのボランチも慌てて体を寄せてシュートコースを消そうとする。いくらキーパーを信頼しているとはいえ無抵抗でシュートを撃たせるはずもない。
目の前にディフェンスが立ちはだかるのを無視して俺は右足を一閃する。
俺の前には目を硬く閉じて身を強張らせた敵のボランチと、その頭上に浮かぶボール。そう、俺はまた得意のチップキックでふわりとボールを浮かせたのだ。
浮いたボールが落下すると同時に相手の脇を抜けて、落ちてくるボールを胸でトラップし前へコントロールする。抜かれた敵も俺の袖を掴もうと手を伸ばしてきたが、空中のボールを目が追いかけていたせいで顎が上がって体のバランスが崩れている。手を振り払うだけで簡単に突破できた。
数メートル前方の敵にとってはもう危険なエリアへ侵入すると、ルックアップして周りを見回す。これは半分フェイントである。
この動作一つで俺へ詰め寄ろうとしたDFの動きが一瞬止まり、パスを出されまいと日本の攻撃陣のポジションの確認作業に追われる。
だが、俺は最初から自分のドリブルで切り込むと決めていたのだ。相手が寸時でも足を止めてくれればそれで十分だ。またすぐに体を前傾してドリブルの速度は緩めない。
俺へマークが寄ると最も警戒されている上杉と島津に山下先輩達の右サイドを視線で見据えて、顔の向きとは反対の左ウイングの馬場を使ってワンツーで突破していく。
ほら、これでペナルティエリアまで来られたじゃないか。
後はこのゴールにボールを入れさえすれば……。
そこまで都合良くはいかない。いやイタリアの赤信号はいかせない。
シュートモーションに入る前にすでにコースを潰しながら、凄いスピードで俺の方へとダッシュしてくる。
ちいっ! 慌てて飛びついてくるとか体を倒しながらスライディングしてくるとかならまだ可愛いのだが、こいつは腰を落としても尻餅をついたりは絶対にしない。
ぎりぎりまでバランスを保ちながらシューターの選択肢を狭めようと粘り強い守りをするのだ。
どうする? 思い切ってここからキーパーの脇を抜けるニアサイドへ撃つか? それとももう一度浮かせてループにするべきか?
駄目だ、これでは今撃ってもシュートが入るビジョンが見えない。本当に目の前で赤信号が光っているみたいだ。
しかたなく一歩下がってステップを踏み直そうとすると、そこに何かが足に引っかかってバランスを取る間もなく転倒する。
え? なんだ? しまった失敗だな。ジョヴァンニに気を取られ過ぎて後ろのDFへのチェックを怠ってしまったのか。
どうして転んでしまったのかに自分で回答を出した時、俺にとっては福音が鳴らされた。審判がファールの笛を吹いてペナルティスポットを指差したのだ。
――ラッキー、PKだ。
途端にわっと歓声が湧き起り、観客席で日の丸の振られる速度が勢いを増す。ここまでじりじりする展開だったので、日本のサポーターもようやく得点できると盛り上がっている。
よし! 俺も芝の上で横たわったままぐっと拳を握りしめた。今のは俺がステップしたせいで敵のタックルしようとした足に引っかかったから、ファールを取ってもらえるかどうかの確率は半々だった。だが、どうやら今回は幸運が微笑んでくれたようだ。
そこに手が差し出された。見上げると満面の笑みを浮かべた山下先輩だ。
「いい突破だったぞ」
右手でぐいっと俺を引っ張り上げると、左手で髪をくしゃっと一撫でする。
立ち上がるとイタリアのDFが血相を変えて審判に抗議していた。だが、判定は覆るはずもない。
まあわざと足をひっかけたんじゃないのは判っているが、俺もPKを貰いにファールを受けた振りをするシミュレーションを演じたわけでもない。今回はありがたくPKのプレゼントを受け取っておくとするか。
そしてうちのエースストライカー様はこっちへは一瞥もくれず、すでにボールを抱えてペナルティスポットの前で陣取っている。
俺がその傍らに近付くと振り向く事なく「ワイが蹴るで」と釘を刺してきた。
ああ、そう言えばPKは全部あんたに蹴らせると約束していたよな。
「ええ、うちのPKのキッカーは上杉さんと決まってますから異議は唱えませんよ。ただあの赤信号がPKをストップするのを得意にしているようですから注意と激励しに来ただけです」
「おお、そうなんか。あ、そういえばアシカは大丈夫なん? 派手に転んだみたいやけど」
俺がキッカーの役割を取らないと判った途端、急に体の具合を尋ねてくるこいつはかなり現金である。
まあ俺としても気配りのできる常識人より、得点する以外には能のない上杉の方がチームメイトとしては好ましい。
「とにかく、最高のチャンスなんですから確実に頼みますよ」
「任せとけ、PKなんて目を瞑って蹴ってもワイは外さへんて。すぐに片付けるさかい、ここは任しとき」
……上杉が口にしているのは頼もしい言葉のはずなのに、聞けば聞くほど何か嫌なフラグが立った気がしてしまう。
いや、それはきっと気のせいにすぎないだろう。頼んだぞ上杉!