第十二話 守りは全部任せよう
イタリア戦のキックオフを目の前にして、俺はいつもと同じように目をつぶって自身の調子を確認していた。体調は良好そのもので、初戦の疲労はどこにも残っていない。鳥の目にしても瞼を閉じていてもピッチの隅々まで見通せるんじゃないかというぐらいに鮮明だ。
うわぁこれだけ良いコンディションで強敵と戦えるだなんて、思わず顔がにやけてしまうな。
まさにサッカー選手として本望、こんな試合をやる為に俺はここまでトレーニングを積み重ねてきたんだ。
他のチームメイトが試合前の緊張に満ちた顔つきをしているのに、俺一人が笑顔でリラックスしているのが目立ったのかテレビがずっと俺の緩んだ表情を追っていたとは後日聞いた話だ。
自分の調子に満足していた俺は、勝手に動き出しそうな体をなだめながら試合開始を待つ。
その時日本代表の中に俺と同じぐらいそわそわと嬉しそうな少年がいたのに気が付いた。あいつは何を笑ってやがるんだ? ――しまった今日はあれについて念押しをするのを忘れていたぞ! 俺が慌てて声をかけるほんの少し前に開始を告げるホイッスルが鳴った。
「上杉さんちょっと待って!」
俺の叫びは上杉のキックオフシュートが放たれるのとほぼ同時だった。
絶句してボールの行方を見守る俺に、なぜか舌打ちした上杉が振り返る。
「なんやアシカ? 今ワイは監督の言う作戦を真面目に実行するんで忙しいんやけど」
「え? あ、いや、いきなりシュートは止めてくださいって言いたくて、あれ? がんがん撃とうという作戦通りならいいのかな? あっそれよりも惜しい! あのキーパーは本気で上手いですね。今のはいきなりにしては結構いいコースだったのに、それをキャッチしますか」
上杉のキックオフシュートの結果を見ながらだったので、やや支離滅裂な返事になってしまった。
「まあ、アシカがワイに言いたいことも判るわ」
「ああ、そうなんですか」
さすがに毎試合キックオフシュートをされてはたまらない、と俺が思いとどまるように声をかけたのを理解してくれたか。上杉も判ってくれるなら次からは自重してくれるだろう。
「でもな、これ以上早くシュートを撃とうにもルールの壁っちゅーもんが……」
「あ、もう今はそれ以上の弁解は結構です」
自重どころかどうやら上杉は俺が怒っているのは、あれでもシュートを撃つタイミングが遅かったからだと誤解しているらしい。
……でもキックオフのボールは審判が笛を吹いてからだって規則で定められているから、これ以上の時間短縮は無理なんだ。
だからどうにかしてルールを越えて、ゴールした時間を限りなくゼロに近づける為にはもっと早くシュートを撃つんしかないんやとか呟く少年を止めなければならない。
「あ、そうや。キーパーに反応させへんようにするなら、開始の笛の音がキーパーに届くまでにシュートしたボールが先にゴールにたどり着けばええやないか」
「そんなマッハを越えようとする無茶なチャレンジに情熱を燃やすのは止めてください」
もうこいつにキックオフシュートについては今更ここで蒸し返しても仕方がないな。
それより、敵味方全員の虚を突いたであろういきなりのシュートをしっかりと掴んだ敵のキーパーであるジョヴァンニについて考えなければ。
「いくら距離があったといっても、いきなりあれだけ良いコースに上杉さんのシュートが飛んだんですよ。普通はボールを弾くのが精一杯で捕ったりできないはずですが」
「ああ、それなんやけど」
上杉が逆立った髪をかきながら、言いにくそうに敵キーパーについて話しをする。
「あの赤信号は、ワイがシュート撃つ寸前に一歩下がってシュートを止める体勢になってたで」
「へえ……」
という事は誰も予想していなかったはずのキックオフシュートを読んでいたのだろうか。手にしたボールを丁寧に転がしてDFに渡す「赤信号」をじろっと睨む。
体が大きいが動作は敏捷で、おまけに読みか勘のどちらかが鋭いキーパーが相手チームにいるなんて面倒で仕方がない。
「なんかあいつ、どっかで見たような気がしてたんやけどやっと思い出したわ。ワイの知っとるクロスカウンターの名手のライト級チャンピオンに雰囲気がよう似とるんや。なんやどこ狙っても読まれてるようで気持ち悪うてしゃあない」
「上杉さんが言うぐらいだからよっぽど撃ちにくいんでしょうね」
このシュートジャンキーが撃ちにくいと言うのは初めて聞いた気がするな。まあ予想してたとはいえ、やはりあのイタリアの赤信号はただのウドの大木じゃなく優秀なキーパーであるのは間違いないようだ。
だとしたらますます一点が重要となる。なんとか先制点をとってイタリアにも攻めさせないと、ずるずる向こうにペースが行ってしまうぞ。明智と話し合ったようにロースコアでの神経戦は相手の十八番の展開だからだ。
イタリアはキーパーのジョヴァンニから投げられたボールをじっくりとDFラインで回している。日本の攻撃陣もプレスをかけてそのパスを取りに行きたいが、行けば間違いなく最終ラインからのロングパス一発で高速カウンターが待っている。おかげでそう気楽には俺もポジションを上げられない。
今イタリアがカウンターをしてこずにボールを回しているのは、こっちのメンバーが上がる前に上杉がシュートを撃ったからだ。誰も前線へ上がっていないチームにはカウンターのしようがないからな。
俺達が警戒しているのは、いくらディフェンス力が突出して注目されているいるとはいえイタリアのオフェンスも捨てた物ではないからだ。大体攻守のどちらかに欠陥があるチームが厳しいヨーロッパの予選を勝ち抜いてこれるはずがない。
イタリアのフォーメーションは一応四・三・一・二という形にはなっているが、ピッチ上では微妙にポジションを変えている。
三人のボランチはほぼ守備専門で、攻撃は前にいる三人だけで済ませているのだ。
その攻撃的な選手でさえ全体的に引き気味のポジションである。スピードに自信のあるはずの二人のFWでさえこっちのDFラインから下がり目に位置取っているのだ。そこからいつでも日本のオフサイドラインを突破しにダッシュの準備ができてます、といった格好で後方からのパスを待っている。
まるで侍が居合いの構えをしているようだ。うかつに足を踏み入れるとカウンターという名の刀でバッサリと真っ二つにされてしまう。
だからと言って怖がって腰の引けた攻撃であの赤信号の守るゴールを割れるとは思えない。
どうするべきか……悩みながらピッチ上を首を回して選手の動きを確認していた俺の体が一瞬びくんと跳ねる。遠くにイタリアのゴールマウスが見えて、そこに三人の人物がいるのを発見したからだ。
一人目は相手キーパーの赤信号ジョヴァンニである。こいつはいい。
二人目はうちのエースストライカーの上杉だ。いつの間にあそこに行ったのか、そこはオフサイドだとか色々言いたい事はあるが、まあ大目に見よう。
しかし、三人目の島津よ、なぜそこにいる! お前は仮にもDFだろうが!
慌てて日本の右サイドのスペースを確認すると、やはり後方に大きな穴が空いてしまっている。アンカーが気にはしているようだが、中盤の底を一人で支えている彼にそこもフォローしろとは言うのは無理な注文かもしれない。
「島津の抜けたスペースは頼みます!」
でもあえて俺はその無茶な注文を出す。
島津のポジショニングで思い出したのだ、このスタメンで戦う試合は撃ち合いに持ち込むしかないのだと。
人差し指で「え? そこのスペースまで俺?」と確認するアンカーは可哀想だが、彼を島津の尻拭い役に勝手に任命した後は顔をそむけてそっちを見ないようにする。
向こうの攻撃が三人ならこっちはDFが三人にアンカーを足して四人だ。きっとなんとかしてくれるだろう。
そう簡単な足し算でサッカーの方程式が作れれば楽なんだが、といった胸の呟きを封印する。今日の俺は攻撃の組み立てを考える役目だ。ディフェンスは真田キャプテン達に任せるとしよう。
そんな俺の思いをよそに、イタリアDFからのロングボールが日本の右サイド深くへと放り込まれた。普通ならば島津が守っていなくてはいけないスペースだが、当然ながら現在は無人になっている。
やばいな、やはり俺も戻った方がいいか? と考えるより早くそのパスを体を張ってカットしたアンカーがボールを抑えてくれた。よし「ナイスディフェンスだ!」俺の心からの叫びになぜか彼は敵をマークする時より凄い目で睨み返してきた。
だが諦めたように首を振ると、結局はいつもよりやや右にポジションをとって真田キャプテンと相談しながら島津の穴を埋めてくれるみたいだな。
ここで日本のボールにした事で完全に思考が攻撃的になった。鳥の目によるピッチ全体を見渡す視界も日本陣内は無駄だと意識的にカットしてイタリア陣にのみ焦点を合わせる。
くそ、ゴール前のペナルティエリア付近は渋滞を起こしそうなぐらい向こうのDFの人数が揃っているな。
そしてサイドと中盤も攻め手を少なく絞っている分だけ、守りに人数を割いてしっかりと危険なスペースを潰している。
基本に則った隙がない守備のブロックが構築されている。そしてその最後の砦として「赤信号」ジョヴァンニが控えているのだ。俺でもちょっと攻撃に踏み切るのは覚悟がいる鉄壁の守備陣形だな。
だがビビったままでいる訳にもいかない。ボールを奪ったアンカーからのボールが明智を経由して足元に回って来たのだから。
どう攻撃しようか悩んでいる最中だが、ついパスをトラップした感触にまた頬が緩む。
試合中で感覚が鋭敏になっているせいか、練習の時よりもボールを持っただけで勝手に胸の奥からわくわくする熱い物が溢れ出して制御できなくなってしまう。
――よし、行こう。
ボールに触れただけで思考が前向きになる俺もおかしいが、まあ今更だ。それにうちには俺以上に前向き、と言うか前方しか見えないし進めない猪のような奴らがいるからな。
俺の今居る場所はボールを奪いに行く地点ではないと判断しているのだろう。敵からのプレッシャーはまだない。
よほど自分たちのキーパーを信頼しているのだろう、積極的にボールを狩りにいくポイントを随分と深く設定している。ここまでボール保持者を誘い込むと決めると守備ブロックも崩れにくいしボールを奪えればカウンターの威力も増すが、フィニッシュまでもっていかれる可能性も高くなる。
それでも至近距離からフリーででもシュートを撃たれない限り、ジョヴァンニはゴールを許さないという信頼感を敵全員が持っているのがはっきりと判る。
その信頼感が本物かどうか試させてもらおうか。
ボールを足元に置いたまま俺は大きく息を吸い込み、目を瞑った。いきなり動きを止めて目まで閉じた俺の態度に、近くのイタリア人選手が困惑の表情を作ったのが視覚によらず知覚できる。
体の中のギアが切り替わり、暖気運動をしていた心臓と筋肉が躍り出す。
――俺は赤信号を無視する事を決心し、一気にイタリアゴールへ向かってドリブルのアクセルを踏み込んだ。