第九話 信号を青にしよう
カルロスは額から流れる汗を拭い、次第に雲行きが怪しくなってきた試合の流れに舌打ちを一つした。
本来なら大会の初戦などさっさとハットトリックでも決めて早めにピッチから下がりたいのだが、相手が悪かった事もありそう上手くはいかない。大体、こんな風にリードされる展開になったのも試合前のミーティングで想定したよりかなりイタリアの守備が堅固なのが原因なのだ。
もともと楽天的なブラジルのお国柄とサッカーに対するプライドの高さから敵への警戒は甘いのも確かだが、ここまでイタリアがチーム一丸となって粘り強く守ってくるとは思わなかった。
カルロスでさえイタリアが強豪国だとは知っていても所詮ジョアンでないのはあのキーパーだけだ、他は警戒する必要がないだろうと高を括っていたのだ。
しかしその舐めていたイタリアDF達の網は、彼に突破されるのは仕方ないにしても良いタイミングやゴールを狙いやすい場所からシュートを撃つのだけは必死で阻止してくる。得意ではない左足で撃たされたり、無理な姿勢からのシュートを余儀なくされているのだ。
それはブラジルのもう一人の天才FWエミリオも同様で、大統領を警護するシークレットサービスのように小柄な彼の周りを常にDFが囲んでいる。
それでもこれまでの南米予選での試合ならば、例えカルロスは徹底マークされた状態であっても一点ぐらいならば苦も無くもぎ取れていたはずだ。
それが出来なかった要因は二つある。
ブラジルはまだ大会初戦だと、チームスタッフがコンディションを無理に上げようとしていなかった為に選手達の体の緩みを絞りきれなかった点が一つ。
そしてもう一つは――いや最大の理由はやはりこのイタリアの赤毛のキーパー「赤信号」の存在に他ならない。
「あいつなかなかやるなぁ」
のんびりとした声をかけてきたのは、ここまでカルロスと同じように悉くシュートを止められているエミリオだ。後半に入ってまだ敵にリードされているにも関わらず、いっこうにその陽気な表情には陰りが見えない。
だがそれはカルロスも一緒である。お互いにここまでの経過に不満は持っていても追いつけないかもしれないという焦りは露ほどもない。どちらも自分が本気でゴールを奪いにいけば、得点できないはずがないと心の底から信じているからだ。己の得点力には狂信的なまでの自信を持った二人である。
しかし対戦相手の力量が予想以上だった事への苛立ちが隠せないだけだ。
好敵手を見つけてもあまり嬉しそうでないのは、二人とも攻撃的な選手だけにどうにもディフェンスを専門としている敵選手には評価が辛くなってしまったからだろうか。もし強敵の相手がFWならば「どっちが点を取れるか勝負だ!」とこいつらなら喜ぶのだが。
しかし、このコンビの余裕がある態度はともかく時間的にも徐々にブラジルが追い詰められつつあるのは確かである。
「いやー関係者の目を気にして綺麗に点を取ろうだなんて、ちょっと甘かったかも」
そう頭をかくエミリオに白い目を向けるが、カルロスにしてもここまでは全力を尽くしたと胸を張って誓えるプレイ内容でもない。
「あまり遊んでる時間はない。仕方ないがどんな形ででも、とにかく試合をひっくり返すぞ」
「了解ー」
小柄な点取り屋は軽い口調で言い残すとスキップを踏んでるような歩調で離れていく。ちょっとだけ「大丈夫かあいつ」という視線を投げかけたカルロスだが、頭を振って雑念を追い払う。
エミリオが得点の匂いがする場所――ペナルティエリア内では誰よりもしっかりとしているのは、これまでの試合で実証済みである。
初日だから、初戦だからと驕っていたカルロスとブラジルの本気での狩りが、遅まきながらようやくここから始まろうとしているのだ。
カルロスは手を上げてチームメイトからの注目を集めると、クラウディオキャプテンに目をやり視線を左に流す。そこにいるのはブラジルが誇る暴走特急フランコだ。
失点の原因がフランコのオーバーラップした後のスペースを突かれたものだったために、ここまでイタリアの鋭いカウンターに備えてできるだけ自重させていた。
だがもうその封印を解くべきだろう。このままではこいつの長所を生かしきれていない。
カルロスの視線に気がついたのか、フランコが自分の出番だなと浅黒い顔の中で歯を輝かせて笑う。
やれやれ、カルロスは首を振った。さて、自分も加えたこれだけの攻撃陣からなる本気のアタックを止められるチームは世界中を探そうともあるとは思えんな。
さあ、行くぞ赤信号。そろそろ信号もお前の顔色も青くしてもらおうか。
◇ ◇ ◇
テレビの中から大歓声に包まれて熱戦の試合終了を告げるホイッスルが響く。
それを耳にする俺達日本代表のメンバーは無言でその体はすっかり冷え切ってしまっていた。
それも当然だ、ナイジェリア戦の後でシャワーも浴びずにブラジル対イタリア戦をずっと観戦していたのだから。でもそんな些細な事などこれから対戦する相手のプレイの数々を見ている内に頭から吹き飛んでしまったのだ。
それは隣にいる明智も同様だったのだろう、お喋りなこいつが一言も話さずに試合終了まで見つめていたのがその証拠だ。だがホイッスルが鳴るとすぐに唾を飲み込んでかすれた声で俺に話しかける。
「……凄かったっすね、特に残り十五分からの攻防は」
「ええ」
「やっぱりアシカもそう思うっすか? ブラジルの猛攻もイタリアの堅守もちょっとお目にかかれないレベルだったっすよ。あいつら各地の予選では三味線を弾いていたんすかね、僕の各国の情報を分析したノートもこれじゃあ随分と訂正しなきゃいけないっす」
「それも無理ないでしょうね。二カ国ともちょっと俺の想定以上の実力でした」
息を大きく吐き出してぶるっと身を震わせながら明智に対して頷く俺の表情と言葉は硬い。
ブラジルの戦力については、前半と後半初頭を見た限りでは何とかなるんじゃないかと楽観していたのだ。だがそれは最後の十五分間の攻防によって完全に粉砕された。
残り時間が少なくなってからのカルロスとエミリオというブラジルが誇る攻撃の二大柱が共に爆発しての二対一でのブラジル代表の逆転勝ちだ。
あの二人が得点したとはいえドリブル突破からの華麗なシュートで得点した訳ではない。ほとんどFWと変わらない位置まで居座っていた左のサイドバックをはじめとして、中盤からの押し上げが半端じゃなかったのだ。守備的なポジションについていたとしてもさすがはサッカー王国のブラジルだ、その気になればそこらの国の十番クラスのテクニックを持った選手がごろごろしている。
カルロスとエミリオの二人は決定力を生かして最後のゴール前での詰めをきっちり締めただけである。
だが、イタリアも簡単に破れた訳ではない。嵐のようなブラジルの猛攻をじっと防ぎ、機を見てのカウンターで反撃まで仕掛けようとしていた。
それでも結局は両国の攻撃陣の破壊力の差に屈した形だが、あの「赤信号」とやらはカルロスとエミリオなど綺羅星のようなブラジル攻撃陣の至近距離からのシュートを何度も防いでいたのだ。
そのシュートをダイビングして止めた直後で体勢が崩れた所にこぼれ玉を押し込まれてしまってはいたが、どちらかというとあれはキーパーではなくディフェンス陣に責任がある失点だよな。
「ブラジルでも完全には崩しきれなかった守備陣が次の相手、そしてグループリーグ最終戦はブラジルかぁ」
緊張で乾いた口の中の唾を飲み下す。今戦っているのは国際大会なのだ、相手が弱いと油断していたつもりはなかったがこうしてテレビを通して客観的に相手の試合を見ると改めて身震いがする。それは強敵と戦う恐れだけでなく、幾分かは確実に興奮も混じっている武者震いである。
「今のイタリア対ブラジルの結果は試合内容はともかく、ちょっと俺達に運が向いてきた展開になるかもしれないっすね」
明智が何か思いついたように隣で腕組みをする。たぶん「どうしてだ」とか尋ねて欲しいのだろう、ちらちらと横目でこっちの様子を伺っている。面倒だとは思うが、ここは乗ってやるのが人の道か。
「へーどうしてです?」
「いやーアシカにそこまで尋ねられたら答えないわけにはいかないっすね」
棒読みの口調で一回しか質問していないのに「仕方ないっすねー」我が意を得たりとばかりに嬉しそうに頷く。
「イタリアがここで負けたって事は勝ち点三を取るために、うちとの試合には攻撃的にくるって事っすよ。もしイタリアがブラジルとでも引き分けたり勝ったりしていたら、引き分けでもオーケーだと無理な攻撃を仕掛けてこないはずっすからね。あんな強力な守備陣に引き籠られて亀にでもなられたらちょっとしゃれにならないっすよ」
「まあそうかもしれないね」
「そうっす。もしそんな展開になるとうちが戦っても一点を争う試合になりそうっすけど、このチームってそんなロースコアのゲームが一番苦手っすからね」
ふむ、と明智の言葉に納得する。ブラジルとの試合を見る限りでは、イタリアは伝統の鉄壁の守備である閂を基本として、あのキーパーを守りの中心に据えたカウンターチームだ。そんなチームが引き分けでもいいやと守る事に重心を置かれたらと思うと寒気がする。
同じカウンター主体のチームにはさっき勝っただろうとは簡単に言わないでほしい。
今日戦ったナイジェリアではイタリアと比較するには安定度に差がありすぎるのだ。イタリアは単に勝ち負けではなく、一試合当たりの失点数で比べるならば世界最高に近い成績を叩き出すだろう守備の伝統国だ。そんなチームとうちが守りを固めてのカウンター合戦をするだなんて考えたくない。
ま、それでも明智の言うようにイタリアが勝ち点三を狙いに、カウンターを捨てて多少なりとも前へでてくれればこっちにも勝機はある。
いつものようにスコアが跳ね上がる打ち合いに巻き込めば良いだけだ。そしてそんな試合でこそ攻撃力に自信のある俺達の力が最大限に発揮される。
「よし、じゃあとりあえず次のイタリア戦に向けて俺達がやることは……」
考えつつ俺が口にしようとすると「はっくしょん! とくらぁ」と大きなくしゃみをする音が響く。まったく試合中もそうでない時もやかましいストライカー様だこと。
「まずはシャワーを浴びて体を温めることだな」
「そうっすね」