第八話 ロッカールームで喜び合おう
「ようし、お前らナイスゲームだったぞ!」
山形監督の声がロッカールームに響く。
試合に勝利しても俺達はなかなか即解放とはいかない。相手選手との握手やユニフォームの交換にサポーターへの返礼。さらには取材しにきたマスコミ関係との応対など雑多な用事が待っているのだ。
それらの試合終了後のセレモニーを一通り済ませると、俺達はロッカールームにまで戻ってお互いの視線を無言で交わし合う。ここに日本代表の関係者以外がいないと確認できると、監督の言葉でようやく金縛りが解けて俺達は喜びを爆発させた。
ピッチ上ではあまりに喜んだ姿を見せてはしゃぎすぎると、敗北した相手への侮辱になりかねない。代表の自覚を持つんだと出発前に諭されたせいか全員が少し抑え気味だったのだ。
その分他人の目がなくなるとメンバーが一斉に踊りだす。特に目立つのは厳つい顔を赤くして、ピッチから戻ったばかりの汗だらけの選手を誰彼無く力一杯に頭をくしゃくしゃに撫でている山形監督だ。あれは撫でているというより頭部をシェイクしているといった方が正しいな。下手したら脳震盪を起こしそうなほどの乱暴な親愛と喜びの表現である。
監督も大会初戦のプレッシャーを強く感じていたのだろう。それが三対一での勝利というこの上ない結果で解消されたのだ、安堵と歓喜は隠しようがない。
まだ初戦とはいえグループリーグで戦う後の二試合の相手を考えると、ここで負けるどころか引き分けでも後がなくなったはずだ。トーナメントまでたどり着くためには俺達は喉から手が出るほどナイジェリア戦で勝ち点三が欲しかったのである。
「はっ、一点しか取れへんかったのはちょい残念やけど、次の試合に期待やな」
「それは俺も同じだ」
上杉と後半に駄目押しの三点目を決めた山下先輩の二人組は、ちゃんと点を取ったのにまだ不満げである。こいつらはたぶんハットトリックを達成しても「もっと取れたはずだ」と得点に関しては慢性的に飢えていて、永遠に満腹しないでいるタイプなんだろうな。
だが勝利そのものはやはり嬉しいらしく、口の端が笑みに吊り上っていて悔しがる口調にも暗さはない。
そんな贅沢な点取り屋達の不満はとにかく、今日の試合での俺自身のプレイを採点してみるとほぼ満点だったと言えるのではないだろうか。
自らの得点こそ無かったものの、明智と二人で完全にゲームの流れを掌握できていた。相手のナイジェリアが中盤を省略するカウンターチームだったことも味方して、中盤でのボール支配率は日本が独占していたのだ。
これまで自分が培ってきた技術が世界の舞台でも通用するのが嬉しくて、つい明智と不必要なぐらいパス交換なんかをしてしまったがそれでも問題はなかった。
しかし後半途中で俺や島津の攻撃的なメンバー二人が引っ込んだ試合終了間際になると、ナイジェリアがなりふり構わず日本ゴール前に人数を送り込んできた。そこでロングボールをただ前線に放り込む単純なパワープレイに出た敵の勢いを止められずに失点してしまったのがこの試合唯一の誤算である。しかしその失点も大勢に影響はなかった。
その後も人数を日本のゴール前に割いて逆にDFラインが薄くなった相手に対し、明智から山下先輩へと綺麗なパスが繋がり日本の三点目で試合が決着したのだ。
山下先輩は結果的に得点できたからいいじゃないかと思うが、俺からのアシストでは無かったのがどうもご不満らしい。また愚痴をこぼされるかもしれないな、覚悟しておくべきだろう。
真田キャプテンやアンカーなどのDFを預かる者は、最後の失点のせいで手放しでは喜べないようだがそれでも表情は明るい。それらは次の試合への課題であって取り返しのつかない後悔ではないからだ。
少なくともグループリーグ突破への希望がぐっと現実味を帯びてきた。いや、まだ最初の難関を越えただけで気を緩めてはいけないのは理解しているが、どうしても緊張も頬も緩んでしまう。明日からまた頑張るから、試合が終わった直後ぐらいは気を抜くのを許してくれよ。
にたつく顔のままでチームメイトとハイタッチを交わしていると、終わった自分達の事より段々と他の試合の事が気になって来る。
確か同じグループ内のブラジルとイタリアはちょうど今が試合中なんじゃなかったかな。
どういう理由があるのか別会場の少しズレた時間帯でブラジル対イタリアはやっているはずだ。テレビ局も人気カードだろうこの試合について放送時間の都合とか色々あるみたいだが、重要なのは今リアルタイムで観戦できるはずって事だ。
「山形監督、そういえばブラジル対イタリア戦はどうなっていますか?」
「……そうだな」
監督の表情が勝利の喜びから一転して難しい顔になったが、「まあ見た方が早いだろう」とロッカールームにある少し大きめのテレビのスイッチを入れた。この口ぶりからすると山形監督は途中経過をある程度知っているようだ。
ちょうどこの部屋で誰かが眺めていたのか、チャンネルを変えることなくブラジルとイタリアの試合が画面に映る。
だけど、どうも外国の放送のせいか表示が判りにくいな。ええと、途中経過はどうなってるんだ?
ブラジル戦をやっているのに気がついたチームメイトも全員がテレビに群がってきた。
「お、これブラジル対イタリアじゃん」
「ユニフォームはどっちの国もワールドカップなんかでよく見るけど、やっぱ格好いいなぁ」
「あ、カルロスがここにいるぞ。なんかあいつ、またでかくなってねぇ?」
「……あれ? これスコアはどうなってるんだ?」
最後の奴の台詞にかぶせるように山形監督が途中経過を口にする。
「今は後半が始まったばかりで、一対零でイタリアがリードしてるな」
「……え?」
思わず口があんぐりと開いてしまう。俺だけでなく日本チームのほぼ全員が、だ。
例外は「な、なんやこの空気は。俺一人リアクションが遅れてすべったみたいやけど、どないしたらええんや」と関西人っぽく周りの驚愕の反応に驚いている少年だけだ。
そんな上杉に向かって、山下先輩が呆れたように肩を叩く。
「上杉、だってあのカルロスのいる優勝候補のブラジルがリードされているんだぜ。ちょっと信じられないだろうが」
「あ、そや。尋ねときたかったんやけど、カルロスって誰なん? 時々名前聞くけどワイは会った事ないはずや。そんなに有名な奴なんか?」
彼の言葉にちょっと戸惑う。あ、上杉は中学からサッカー始めたんだったよな。だったらカルロスが日本にいた頃はまだボクシングをやっていたのか。ならば俺達の年代のサッカー選手にとって一種のシンボルだったカルロスを知らなくても仕方がない、かな。
「ま、確かにカルロス言うんがこいつなら、他の奴とはちょい格が違うんは今の動きを見ただけで判るんやけど……」
テレビ画面ではカルロスがその自慢のスピードを生かして、密集したイタリア守備陣を強引に引き裂いてフィニッシュまで持っていった。
「あっちのイタリアのキーパーもかなりのモンや思うで」
だがそのパワフルなシュートはそこに来るのが判っていたかのように、絶妙のポジションを取っていた赤毛が特徴的な大柄なキーパーの手によって弾かれてしまった。あれだけのスピードでDF網を突破してそのまま強烈なシュートを枠内に撃てるカルロスも凄いが、それを止めるイタリアのキーパーも只者ではない。
「あいつら、チャンピオン級の強いボクサーが纏っとる風格ちゅうもんを持っとるな」
「まあそれは当然かもね。あの二人は年代別の世界大会では常連だし、そこでベストイレブンに何度も選出されているから」
なるほど、真田キャプテンはカルロスと一緒にこれまで世界大会に出場していただけに情報が細かい。でもとりあえずは今やっている試合の方が気になるな。
「でもこのまま、カルロスもブラジルもリードされたまますんなり終わらせるとは思えませんが……」
テレビの中でシュートを防がれたのが不服なのか、キーパーを睨んでいるカルロスとその彼の肩に手を置いて何かささやいている小柄なブラジル人のFWが映る。確かエミリオだったかな? ブラジルの攻撃での二枚看板の一人だ。そんな奴ら相手にここまで無失点でいるこのジョヴァンニってキーパーも、俺が今まで対戦したことのないレベルの相手な事は間違いない。
「とにかく次のイタリア戦で当たるこのジョヴァンニって赤信号をどう攻略するか、考えなくちゃいけませんね」
全員が一斉に頷いた。山形監督までもがだ。本来ならあんたが考えなくちゃいけない問題でしょうが。俺の冷たい視線に気が付いたのか慌てたように監督は顔の前で手を振る。
「このジョヴァンニは穴がなく、キーパーとして求められる技術については全て平均的にレベルが高い。というか明確な弱点があればそう何年も年代別とはいえキーパー大国でもあるイタリアの正GKを務めてはいられないだろう」
「それはそうですね……」
納得できる意見だが攻略法には何一つ光明をもたらさない見解だな。そんな中、素人ならではのずばりと本質を突く言葉を放つのはやはりこの少年だ。
「ごちゃごちゃ考えんとたくさんシュート撃ったらええんちゃう? どんなええキーパーや言うても今まで点取られた事ないはずないやろ。でもとにかくシュートを撃たんことには入らないんは確かやからな」
まあ、そうだよな。能天気なストライカーの意見に空気がふっと軽くなる。こんな時、改めて上杉は頼りになる奴だと再確認する。
「そうですね、じゃあイタリア戦での合言葉は「もっとシュートを撃とうぜ」にしましょうか? どうです監督?」
「あ、一応俺にも確認とってくれるのか。念の為尋ねるが俺がその作戦を却下したらどうする気だ?」
「表面上は「判りました」と従ったふりして、ピッチに出たらがんがんシュートを撃ちまくります」
「……うむ、俺に一応確認をとっただけでもいいか。試合が始まってからやらかされるよりは、今チームの統一見解にした方がましだからな」
勝利したばかりなのに胃の上に手を当てて苦笑いする山形監督に、なんとか元気を出してもらわないと。
「大丈夫ですって、次の試合はもっともっと攻撃的スタイルでいきますから心配しないでください」
「うん……頼むぞ。一試合十本のシュートで満足しないFWと監督を無視して攻めたがるゲームメイカーが攻撃的に行くって言ってるんだ、そりゃ俺だってお前らが攻めまくるのには一片の疑いも抱いてないさ」
信用しているとは言いながら、ちっとも安心する素振りのないのはなぜなんですかね、監督?
俺と同じように監督の体調を心配したのかもう一人元気づけようとする者が現れた。
「俺も今日のようにしっかりとオーバーラップするので、確かに攻撃に関する心配はご無用に願おう」
「……ああ、島津もか。うん、何と言うか……その、ああいや何でもない。頑張ってくれ」
なぜか俺達が声をかける度に山形監督は胃の具合が思わしくないような挙動をするが、本当に大丈夫だろうか。原因が判らないだけにちょっと心配だな。