第四話 落ち着いて試合に臨もう
ゆっくりとピッチの中央で深呼吸を始めると同時に試合直前のいつものルーチンワークである目をつぶっての体調診断と鳥の目の調子を確認する。
特に鳥の目のような上空からピッチ全体を見渡す感覚は、どれだけウォーミングアップをしてもなぜか試合前には把握できない。この特殊な技能なのか天からの贈り物なのか自分でもよく判らないビジョンを使えるようになってからは、身に付けた後で試合に使用できなくなったことは無いのだが、今日も問題なくピッチを上から見渡せる映像が脳裏に浮かんだのを確かめて改めてほっとする。
それに体調に関してもこの開幕試合に合わせて調整してきただけにベストコンディションに近い。ブラジルなどの常に優勝を意識している超一流国は、スロースターターというか決勝戦に併せてピークを大会の後半に持っていくために、大会の序盤は調子が上がらずにもたつくことがあるらしい。
だが日本チームにはそんな余裕はなく最初から全開である。それだけスタートダッシュをしようと気を使ったコンディション調整をしているために、チームの全員が遠征の移動による疲れなど微塵も感じていない。
深呼吸で心身の準備が整ったら、ちょうどいいタイミングで審判がキックオフの笛を鳴らしてくれた。笛の音色は日本でいつも聞いている音よりちょっと金属的で甲高く耳障りに感じるな。それが笛が違うせいなのか気候のせいかは不明だが。
緊張していたせいで試合前の国歌演奏や写真撮影のセレモニーなどのこまごましたやり取りも、まとめてあっという間に過ぎ去ってピッチに入るとすぐ試合に突入したような印象だ。
だから開始の笛が鳴った瞬間、日本側からのボールが上杉に渡ると心臓が大きく跳ねた。注意し忘れていたが、まさかいきなりキックオフシュートはやらないよな? だが俺の心配は杞憂だったらしく、ここではさすがに練習試合のような無茶は自重した彼が舌打ちしそうな顔で日本陣内へパスする。
よけいな心労で激しく鼓動を打つ心臓に手を当てて焦るな、落ち着けよと浮つきそうな自分に語りかける。これまでいろいろな初舞台では毎回のようにちょっとした躓きをしてきたのだ、それらの経験を生かして世界大会のデビュー戦だからと気負わずに自分らしくシンプルにプレイしよう。
ようやく俺にまで下げられたボールを軽くトラップする。よし、これは好調時のパスを柔らかく受け止めると言うよりかちりと音を立てて足下にボールがはまるような感覚だ。
十分な足からの感触に満足する間もなく、敵であるナイジェリアが間合いを詰めてくる。ここは無理する場面ではないとすぐに後方の明智へとボールをはたいた。
受け取った明智がさらにボールを戻し、アンカーを経由してボールが日本の守備陣を一巡する。これでDFも落ち着いただろう。サッカー選手の習性なのか、とりあえずピッチ上で一回ボールに触れると地に足が着くというか精神面が安定するのだ。
それに、今の何気ない一本のパスでも確認できたが、俺と明智との距離間とコンビネーションが上手くいっている。パスの交換がどうこういう以前に、自然と互いの位置が把握できるようにかつ敵からパスカットをされにくいように動いているのだ。
俺と近いセンスを持っているのだろう、パスや指示でわざわざ動かす必要がなく明智が自分で動いてくれるのが実に使い勝手がいい。
攻撃陣を操るポジションにいるとまれに将棋やチェスを指している感覚に陥るが、それならば明智は指し手が駒を動かす前に自主的に最善手へ動いてくれる意志をもった駒である。彼がいるから、チーム全体として敵より一手早く攻撃や防御の準備ができる。
まるで小学校の頃最初に全国大会に出場した時のキャプテンのように甲斐甲斐しくフォローしてくれ、さらにゲームメイクまで手伝ってくれるのだ。ドリブルやアシストパスといった攻撃的センスや得点力は俺が上だと思うが、それ以外では明智の方がMFとしてはバランスが取れているかもしれない。っと仲間の分析よりもまず当面の敵であるナイジェリアを観察しようか。
監督はナイジェリアの全員が身体能力が高いと言っていたが、それは逆に特筆する選手がいないことを意味している。平均的にレベルが高いチームなんだろう。つまりそれは誰か一人を見極めれば、他も大体の見当がつくということだ。
そういう訳で、まずは俺のマークについた中盤の守備を担当しているだろうナイジェリアの六番をまじまじと見つめた。
そういえば俺はアフリカ系の選手とは初めて対戦するな。長身だがこのぐらいならアジア予選でも沢山いたし、肌の黒さも事前に知っていた。だから一番印象に残ったのは首から上の小ささだ。
え、俺よりも背が高いのに半分しか顔の大きさがないんじゃと錯覚するほど、相手の頭や顔が小さく感じる。運動する場合は頭の重さはデッドウェイトになる場合が多いからその分だけ有利になる。本当にスポーツに向いた人種なんだよなアフリカ系の人達って。
……えーと、身体的特徴の点で彼の足の長さについて言及しなかったのは特に意味はない。別に自分と比べてコンプレックスを持ったりしてはいないからな。
さて、この恵まれた体を持つマーカーを相手にどうしましょうかね。唇を舌で湿らす俺には敵の身体能力の高さを理解しても、なぜか焦りの感情は湧いてこない。自分の技術への信頼とコンディションの良さが強敵相手でも気後れを起こさせないのだ。
余裕を持った態度が目に付いたのか、明智がいいタイミングでボールを回してくれた。それでもパスを受け取ろうとした俺の背後に、すっとマークが近付く気配がする。ここはすでに敵陣に浅くだが侵入している、まだゴールまでは遠いとはいえゲームメイカーを簡単に振り向かせてくれるつもりはなさそうだ。
だからこそこのファーストコンタクトで相手に自分の力を見せつける!
敵も世界大会の初戦である。少なからず肩に力が入っているはずだ。
しかもまだ一回もボールに触っていないこのマーカーはなおさら落ち着いていないだろう。そこに強引にドリブルで突破をしかけて抜ければ絶対にリズムをがたがたに崩すはずだ。
明智のパスをトラップするのではなく、勢いを少しだけ落して自分の左斜め後ろに流すようにボールをちょこんとタッチする。
それと同時に左腕を張って、抑えつけた左腕で相手を軸に巻き込むようにしてターンする。これで敵とボールの間に前を向いた俺の体が入る事となる。左腕が強烈な圧力で押し返されているが、完全に俺が有利な体勢になっている。いくらフィジカルに差があろうと、すでに軸を作って回っている俺へこれ以上手出しをすると反則になるぞ。
ここまで綺麗に抜けば――ってうわ! 危ねぇ、完全に届かないと思っていたボールへ向かって相手が足を伸ばし、しかもそれが届きかけたのだ。慌ててもう一度ボールをアウトサイドへ逃がしたから奪われなかったが、こいつの射程距離を完全に読み違えていたな。
同じ身長の日本人選手と比べてスパイク三つ分は足が伸びてくると想定し直さなければ。
ナイジェリアのマークも無理してボールを奪おうとしたのだろうが、そのギャンブルは裏目にでた。体勢を崩すほどにチェックしてしまってたのでその後の俺のドリブルへの反応ができなかったのだ。
マークから逃れるためにタッチしたボールが少し右サイドへ流れてしまったが、それは全く問題ない。それどころか日本の右サイドは攻撃の駒が揃っているために、俺までやってくると向こうがマークする人数が足りなくなるのだ。
だからほら、慌てた様子でドタバタとやってくるDFが到着する前に速いがややズレたコースで山下先輩へと向かったパスを送る事ができた。彼も当然マークを背負っているが、DFに張り付かれているのを気にせずにそのままボールへと足を出してトラップを――しなかった。
え? と一瞬だがナイジェリアDF陣が凍り付く。よし、さすが先輩だ。俺のパスの意図を判ってくれたな。
ミスキックでもないのに俺があんたにズレたパスを出すわけがないじゃないか。
山下先輩がスルーしたボールは右サイドのラインぎりぎりをオーバーラップしてきた島津によって拾われたのだ。
この右サイドを快足で上がってきた暴走DFは、山下先輩がスルーする時にはすでに彼とほぼ同等の前目のポジションにまで侵入していた。パスを受け取ってなおそのトップスピードを維持したままのドリブルでさらにナイジェリア陣内の奥へとボールを運び込む。
日本がゆっくりと自陣で横へボール回しをしていた状況からの、縦への急展開に敵味方を問わず動きが慌ただしくなる。
こんな時にこそ有効なのが俺の持つ鳥の目だ。上空からピッチ上の流れを読み取り、最善と思われる行動を選択する。
今はこうだな。左斜めへと進路を取ってダッシュする。
やや右サイドにいる俺の位置からはゴールへの最短距離であるコースだ。当然ながら相手も危険な位置に黙って行かせる訳がない。だが、ここで俺へのマークがトラップで抜いた相手とゴール前からヘルプにやってきたDFの二人になっていた事が逆にこっちに有利に作用する。
俺が二人のマーカーのちょうど中間地点を走り抜けようとするとどちらも体で止めようとするのを躊躇したのだ。そのお互いがお見合いをしている間に、俺は閉め切れなかったスペースを使って走り抜けゴール前のシュートを撃てるバイタルエリアまで侵出する。
その間にもちろん島津もじっとしているはずがない。右サイドをケアすべきDFが俺と山下先輩に分散されているのを、自分の為の露払いだと勘違いしたかのように喜々としてドリブルでインへと切り込んで行く。
俺と島津が右サイドから中央へ寄って行ったその後ろでは、山下先輩と明智がさりげなくポジションを右へと少し移し中盤のバランスを取ってカウンターに備えているのが確認できるが、まずはこの攻撃を成功させることを考えよう。
まだ試合は序盤、ここで得点できれば間違いなく日本のペースに巻き込める重要なポイントだ。
どうする島津? いや、お前に対してその問いは無粋だったよな。島津はストライカーである上杉と精神的にはかなり近い、ゴールが射程距離に入ったなら彼らがやることは一つしかない。
日本代表の今大会のファーストシュートは、この時はまだ知らなかったが解説者にウィークポイントと批判された右サイドバックから放たれたのだ。