第二話 必ず勝つと誓い合おう
ロッカールームの中は帯電しているかのようなピリピリとした雰囲気と、これからすぐにお祭りでも出かけるみたいな浮ついた空気が混合していた。
試合直前のロッカールームではこんなムードになるのは珍しくない。厳しい試合になるだろうという覚悟と強敵と戦える冒険心、それに世界のサッカー関係者が注目している大会に初登場するという高揚感。チーム全員の持つ色々な感情が無秩序にブレンドされている。
そのざわついた落ち着かない空気を手を叩く音が破った。
「よし、注目。これからナイジェリア戦への作戦の最終確認をするぞ」
山形監督がすでにアップを終えて体の準備は出来上がっているチームメイト達を見回すと、精神面でも最後の調整を行うためのミーティングを始めた。
「今日の相手のナイジェリアは、アフリカ勢らしい身体能力の高さと欧州のクラブチームから強い戦術面での影響を受けたカウンターチームだ。速さと強さで真っ向勝負してあのアフリカ予選を勝ち抜いてきたんだから、こっちとしても油断できない相手だ」
監督の告げる相手チームの強さに誰かが唾を飲む音が大きく響く。それぐらい皆が真剣に聞き入っているのだ。
「ロングボールを蹴り合うようなカウンターの応酬で、単純な走りっこの身体能力の勝負にされればこっちに勝算は少ない。だが向こうにもいくつかアフリカの予選で晒した穴がある。それはまだ選手間でのコンビネーションが確立されていない点と精神的にむらがあるのか調子に波がある点だ。カウンター戦術は機能しているが熟成されてないのか連携ではまだぎこちなさが残るし、伝統的にアフリカ勢は作戦がはまれば強いが一旦狙いが外れるともろさも見せるからな。試合の序盤はパスで向こうを守備に走り回らせて先制点を奪えれば、後は敵が勝手に崩れてくれるはずだ」
「……ずいぶんと都合がいい展開を期待してますね」
こちらが先制点を取るのが前提になっている作戦とは危なっかしくて仕方がない。
「なんだ自信がないのか?」
挑発するような声音で山形監督が尋ねてきた。口調は軽いが目はじっと俺が臆病風に吹かれていないのか観察している。
「まさか、俺達は優勝するつもりなんですよ。先制点を取れってぐらいの無茶振りは叶えてみせますよ、上杉さんが」
「お、おう。ワイにパスすればちゃんと点を取ったるで」
さらりと流して責任を上杉に被せる。監督や真田キャプテンからの「あ、こいつ汚ね」という視線をスルーして試合に向けての確認をする。
「では前半は守備を優先してカウンターを受けないように注意しながら、できるだけパスを回して向こうを守備に走り回らせるという作戦なんですか?」
先発メンバーに島津なんか攻撃的なメンバーが多いのにずいぶんと消極的だなぁと念の為に近い確認のつもりだったが、まだ俺を見つめ続けていた監督は目を丸くする。
「うむ、俺が言ったのはその通りだが。アシカ、お前具合でも悪いのか?」
「そうやで、こっち来てから何か悪いもんでも食ったんちゃうか?」
「くそっキャプテン、すまない。アシカの面倒をみるよう頼まれていたのに……」
あまりに酷い言い草に「え?」と一瞬思考が停止する。その間にも「まさかアシカの偽者やないやろな!?」とまで言われていると、一番付き合いが長い山下先輩がどうして周りがこんな反応をしているのか解説してくれた。
「いいか、アシカはこんな状況なら素直に監督の言う事に納得したりしないだろう。いつものお前なら知らん振りしてパスを回しまくって得点を狙うに決まっている。カウンターに注意しろって監督が指示するのは当然だが、ゲームメイクするお前まで警戒して腰が引けていたら日本の長所の攻撃力が生かせないだろう。普段のアシカなら――」
「逆に攻撃を厚くしてナイジェリアがカウンターをする暇がないように追い込むはず、でしたか」
確かにいつも通りの俺ならば監督の言葉を聞いた振りだけして、ピッチで勝手に強硬策を取っていたかもしれない。皆の俺への偏見には物思う所があるが、普段の精神状態ではないという指摘にはっと息を飲む。自覚は無かったが世界大会という事で少し舞い上がって消極的になっていたらしい。
俺はこれまで気が付かなかったけれど舞台が変わるとちょっと入れ込む癖があるのかもしれないな。確か小学生の時の全国大会初戦やアジア予選の初戦でも新たなステージへ立った初めての試合の序盤は緊張のあまりプレイ内容が悪かったはずだ。
ふうっと深く息を吐いてはゆっくりと吸い込む。新鮮な酸素の供給にロッカールームの照明が明るくなったような気さえする。よし、これで平常運転だ。
「確かにちょっと俺らしくありませんでしたね。こほん。では今の話し合いをやり直して、前半からアクセル踏みっぱなしの攻撃全開で相手を叩き潰しにいきますが、それで構いませんね?」
「え、いやいくらなんでも監督の俺の前で堂々とそんな……」
開き直った俺の発言に何やら慌てだす山形監督だが、それをスルーして賛成意見が続々と集まる。
「ワイは元からシュートしか撃つつもりあらへんから、攻めてくれるほうがビビって逃げ腰になるよりはええな」
「俺もアシカの意見に賛成だ。守備的だとポジション的に目立てないし、ここらで活躍しないと先輩としての面目が立たないからな」
「俺に期待されている役割は攻撃的なオーバーラップだろう。どんな状況でも上がる覚悟はできているが、チーム全体で押し上げるのを共通理解としてもらえるとありがたいな」
攻撃的な面子である上杉に山下先輩と島津が「どうせ俺達も指示を無視して攻めるつもりだった」と同意してくる。言い出しっぺの俺が言うのも何だが、ナチュラルに監督を無視するお前らは酷ぇ。特に島津はDFのくせにこの試合だけでなく今までもずっと――ああ、まあもういいかこいつは。
「お前ら……」
「はい、何ですか?」
「いや……」
俺達が攻撃面で大事な話し合いをしているというのに、監督のくせにそれに加わろうとしなかった山形監督が遅れて口を挟もうとした。だが言葉を飲み込むと頭を振って大切な何かを諦めたやけに爽やかな微笑みで、腹を押さえつつ山形監督は親指を立てる。
「頑張れよ!」
「はい!」
元気良く頷くと「なんでこんな時だけ素直に声が揃うんだ……」とうめき声が聞こえたような気がするが、今はそんな些事に関わっている暇はない。忘れかけていたけどこれは試合前の最終ミーティングなんだ。
「じゃあ監督、中盤より後ろへの指示をお願いします。DFは俺達と違って作戦通りに守りますから――島津以外は」
「ああ、うん」
どこか疲れた風情で胃の辺りを一撫でしてわざとらしく咳払いをする。それで気分を切り替えたのか、疲労の影を一掃させて再び俺達チーム全員を見渡す。
「まあ攻撃陣は話し合いの結果通りに前掛かりになって構わん。そうでないとうちの持ち味の攻撃力が生かせんし、予選グループ内の力関係を考えると突破するためにはどうしてもナイジェリアからは勝ち点三が欲しい。多少強引にでも得点を狙ってくれ。ただし必ずシュートで攻撃を終える事、でないとカウンターが怖いからな。速攻でフィニッシュまで持って行けなかったら、切り替えてパスで相手を振り回せ。スタミナを消費させれば後半にそれがボディブローのように効いてくるはずだ。
そしてディフェンスについてだが向こうはスピードのある選手が多い、後ろのスペースを空けないようにオフサイドを狙うのは控えめにして慎重に対処しろ。相手のFWはトップスピードは速いが一旦足を止めさせてしまえば、カルロスみたいに一歩で爆発的に加速するような奴はいなかった。例えカウンターを食らっても慌ててボールを奪おうとするよりまず相手の足を止めて守備を整える時間を稼ぐを優先しろ。いいな?」
「はい、了解しました」
一際大きい声で返事をするのは真田キャプテンである。他はともかくこの人がしっかりと守備を引き締めてくれれば後方に不安はない。ないったらない。
もしも島津が上がっていてそのスペースを突かれたら危険だとか、オフサイドトラップの使用を控えればDFラインと中盤の間にもスペースが空いてしまうのではないかという不安はとりあえず棚上げにしておく。中盤のアンカーが埋めるべきスペースはともかく、DFラインの穴は真田キャプテンが悩んでどう解決するかの指示を出すべき問題だ。……別に丸投げしたわけではないぞ。
「そしてDF陣が頑張っている間に攻撃陣が点を取ってくれるはずだ。あれだけ俺の前で見得を切ったんだ、できないなんて言わせねぇからな」
監督はじろりとまだ固まって話し合っている俺達攻撃メンバーを一瞥する。判ってるって、今更責任から逃れるつもりはない。なにしろこの攻撃的なメンバーをまとめるのは俺になるはずだからな。
本来俺と明智が二人で交互に攻撃を指揮するはずだったのが、アジア予選以降段々と俺が中心になりそれを明智がフォローするという体勢に固まりつつあるのだ。もちろん俺のマークが厳しい場合は一旦明智にタクトを渡すかもしれないが、基本的には俺がより前へでるという合意ができている。
本来自分が目指していたプレイスタイルからはややずれた姿だが、チームからより攻撃的になれと要請されれば拒みはしない。元来の気質はやはり俺も攻撃を好んでいるのだ。そして日本代表にはそんな攻撃が好きなプレイヤーが多い。
島津なんかは普通のチームでは試合に出場できないか、DFからウイングへのコンバートをさせられるはずだ。でもこのチームのメンバーは「ああ、島津が上がるなら俺も攻撃しに上がろう」というメンタリティの持ち主ばかりなのだ。本来は守備のまとめ役であるはずの真田キャプテンでさえも最近は隙あらば「武田、行け!」とオーバーラップをけしかけている。
こんな守備陣で大丈夫だろうか? いや、大丈夫じゃないとしたら余計に点を取らなければならない。もし大丈夫なら、安心して点を取るのに集中すればいい。結論として俺達攻撃陣が得点するのが、グダグダ心配するよりずっと役立つんだよな。
だったらここは監督の挑発にも胸を叩いて請け合おう。
「はい、任せてください。絶対に先制点を取らせてみせますよ、俺が」
今度は誰にも責任を回避することなく、それが自分の役目だとしっかり皆の前で宣言した。
ここで終われば格好良かったのだろうが、なぜかその後続けて宣言する者達が現れたのだ。
「じゃあ絶対に先制点を取ってやるで、ワイが」
「なら確実に追加点を入れてやるぜ、俺が」
「だったら失点はさせないよ、僕が」
続々と自分の責任において役割を果たすという選手が現れ、結局スタメンの全員がなにがしかの誓いを立てたようだった。
俺にたぶん良い意味でのプレッシャーをかけるつもりで挑発したのだろう監督は、目を丸くしてこのドミノ現象の宣言を見つめていたがやがて「くくく」と笑い声を漏らすと、腹に当てていた手を外し目の縁の涙を拭った。
「そうか、ならお前らを間違いなく勝たせてやるぞ、この俺が」
嬉しそうにかつ誇らしげに親指で最終的な責任を取ると自分を示す山形監督。放任主義で選手の自主性に任せすぎのようだが、監督という勝敗の全てを受け止める責任から逃げないこの人はやっぱりこのチームに一番ふさわしい監督なんだろうな。