外伝 ブラジル十番の朝の風景
早朝の爽やかな空気の中、ピッチの脇で一人カルロスは褐色の体をゆっくりとほぐしていく。体重をかけて一本一本筋を丁寧に伸ばして行くと、徐々にしなやかで強靱な筋肉に血液が行き渡り、じんわりと熱を持って「早く動かせ」とまるで彼をせっついているようだった。カルロスの厳しいアスリートとしての観点から見ても、非常に資質に恵まれた彼の肉体は今日も良好なコンディションをキープしている。
そして好調なのは身体面だけでなく精神的においてもである。彼のテンションが上がるだけの材料を昨日の内に伝えられたのだ。
それは彼のかつての母国であった日本が今度の大会に出場が決まったという話だった。しかもカルロスにとっては嬉しいことに監督が交代し、自分が居た頃のチームとはまるで様変わりしているそうなのだ。これは緊急に入手してもらったビデオで日本代表のアジア予選最後の試合を見て確かめたのだから間違いない。
普通ならば監督やチームメイトに戦術まで自分の居たチームが原型を留めていないほど変化していたら、少しは寂しさを覚えるのかもしれない。だが、カルロスにとっては以前の代表チームはあまり良い思い出がなかったためにまったくそんなものは感じずに、新日本チームに対する興味だけが胸に宿った。
カルロスがまだ小学生で日本にいたころは、チームメイトどころか代表の監督までもが認める「王様」だった。そんなカルロスに与えられた役割は、日本代表の攻撃のほぼ全てを一手に任されるというオフェンスでの全権委任だったのである。
それまでに所属していたユースチームではそれが当たり前だったが、仮にも一国の代表が無条件で攻撃のタクトを少年一人に全てを任せきるとは思わなかった。ほとんど監督やコーチは仕事を放棄しているんじゃないかと彼が疑っても仕方がないだろう。
そして彼の素質が開花していくにしたがい、カルロスを過大なまでに尊重する傾向は次第に選手選考にまで及んでいった。彼自身は何もいっていないのにチームメイトもカルロスに合う者ばかりが選ばれるようになったのだ。
当時の監督やスタッフが彼と合わないと考えたタイプの選手は、能力があっても多少なりとも癖があるために代表には必要がないと排除されていったのである。その結果試合で隣に立つのは仲間と言うよりも「臣下」ばかりであった。
そこまでされれば試合結果もまたカルロス次第となり、当然責任も全て彼にのしかかってきた。
他国との試合ならば敵の中には歯ごたえのある相手もいて楽しむこともできたが、段々と味方と監督やスタッフに対しては期待などしないようになっていたのだ。
そして彼頼りでアジア予選を突破したアンダー十二のチームだが、世界相手でもその作戦は変更されなかった。そのまま突入した世界大会の本戦では、彼の代役がいないチーム状況の中ではカルロスが一試合でも休むわけにもいかなくなってしまったのである。
結果は彼が疲労でコンディションを維持できなくなった時点で、あの時の日本代表はもう終わったも同然だったのだ。
――今のブラジル代表と比べると凄い差だな。
現在のブラジルが誇る、宝石箱の中身のようにきらめいているチームメイトと比べてカルロスは苦笑した。もともと国としてのサッカー人口が違うのだ、裾野が広ければ当然頂も高くなる。その頂上である代表のレベルが富士山とエベレストぐらい違っていても仕方ないのだろう。そして、混血が進みスポーツに向いた人種の多いブラジルでもカルロスクラスの身体能力はそういないが、迫るぐらいのアスリート能力を持った選手もいるのだ。
カルロスにしてみれば、一回ドリブルで抜いた相手に後ろから追いつかれるのはここに来てから初めて経験する出来事だった。これまでは突破した相手はいつも視界から後ろへさっさと消え去っていく石ころでしかなく、意識する必要はなかったのだ。
日本では彼がドリブルをしていてもただ走って追ってくるだけの敵とさえ比べてそれほどスピード差があったのである。だがここにはカルロスでも「ジョアンだ」と無視しえないレベルのDFが存在している。
「よ、おはようカルロス。毎朝早いな」
人懐っこく挨拶をしてくるのは長身のカルロスを越えるこの大柄なクラウディオという名のDFだ。そしてこの彼が先ほど述べたドリブルするカルロスに追いついてきた選手の一人なのだ。すでにイングランドのプレミアリーグでのデビューが秒読み段階の屈強なセンターバックである。
これだけ身長が高くて十五歳とは思えないほどの分厚い完成された体躯をしているのに、パワーだけでなくスピードまで兼ね備えたブラジルが誇る期待の選手だ。出身地から付けられたあだ名の「サンパウロの壁」としてハードなディフェンスと冷静な読みで知られ、カルロス同様にもうしばらく成長を待ってからのフル代表にも選出を確実視されている。
「二人ともおはよー」
もう一人あくび混じりに挨拶してきたのはクラウディオとは対照的に童顔で小柄なFWのエミリオだ。
こいつは半分寝ぼけた風情だが、なぜだか今も彼の頭の上にはボールが乗っている。そのままあくびや挨拶をしても頭上のボールはぴくりともしないのだから、とんでもないバランス感覚とテクニックを併せもっている少年だ。まさにボールが体の一部と化していると言っても過言ではない。
現在のブラジル代表のスタメンでは唯一のFWというだけで、エミリオのその外見に似つかわしくない凄さが判るかもしれない。いくらカルロスがいるからとはいえ、このエミリオが一人最前線にいれば得点力には何も問題ないと攻撃大好きのはずのブラジルの国民ですら納得しているのだ。それを裏付けるだけの実績と実力を兼ね備えた南米予選の得点王である。
MVPこそアシスト王と得点二位になったカルロスに譲ったものの、その決定力と技術の高さはすでに国内のみならず海外クラブからも注目を集めている。
「ああ、おはよう。お前は眠そうだな」
「うん、カルロスが見たっていうから、僕も日本の試合のビデオを見てたら眠るのが遅くなっちゃった」
「へえ、ねぼすけのエミリオが睡眠より優先するとは珍しいな。俺も見ておくべきかもしれない、それほど興味を引かれるビデオだったのか?」
いつものエミリオなら夜すぐに寝る。そして昼でも寝る。酷いときにはウォーミングアップが終わってから試合が始まるまでの僅かな隙をついて寝る。しまいには興味がなくなった試合中でも寝てるんじゃないかというほど睡眠大好きなストライカーだ。その彼が夜更かししてまでチェックしたチームというのにクラウディオも興味を引かれたようだ。
「うん、特にあのゲームメイカーの……アザラシって奴が」
「アシカだよな」
カルロスが珍しく突っ込みに回る。普段クールを気取っているはずの彼のペースを狂わせるぐらい、このブラジル代表のメンバーも濃いのだ。
「ああ、うん。そのアシカ君とFWの食い過ぎって奴が」
「たぶん、そいつは餓え過ぎ、じゃなくて上杉だな。というかお前もしかして日本語判ってるんじゃないか?」
あだ名はともかく名前はユニフォームに書かれたローマ字を読めば判るはずだが、と日本語を駆使しての高度なボケを繰り返すエミリオをうろんな物を見る目つきで見据えるカルロスだった。だがその対象はまた大口を開けてあくびを繰り返している。
あ、ぽろっと頭上からボールが落ちたが地面でバウンドする寸前に右の足首で挟んでキャッチした。この間、大あくびをしていたエミリオの目はおそらく閉じられていたにも関わらず、だ。
――どうにも読みにくい奴だな。
カルロスのような天性の才能を持った少年でも理解しがたい幼い無邪気さと、ゴール前で随所に覗かせる閃きがこの天衣無縫な小さなストライカーを形作っている。彼がいたころの日本のチームには存在しなかった生粋のストライカータイプだけにどうにも扱いに困り、ピッチ以外での息はあまりあっていない。
少々雰囲気が悪くなったのを察してキャプテンでもあるクラウディオが口を挟んだ。
「へえ、二人が同時に興味を示すとは珍しいな。カルロスがいなくなってからは注目はしていなかったが、そんなに日本のチームが強かったとはな」
「ああ、まあ知り合いは少なくなったが確かにエミリオが今言ったような奴らは面白かった。それにうちの攻め上がりっぱなしのサイドバックと同じぐらい上がりっぱなしのサイドバックもいたからな」
「……ウイングじゃなくてか? またなんでそんな奴を……」
「さあな、それを言うならうちの左サイドにまず文句を言わなきゃいけないだろう」
「まあそうだが……、しかしうちの左と言えばフランコだがあいつと同じぐらい攻撃的なサイドバックだと? ウイングと間違えたんじゃなければちょっと信じられんな、そんなDFがいるという事よりもそんな奴を試合に出す監督がいる方が、だが」
どう考えてもあいつより攻撃的なDFは想像がつかんぞ……と首を捻るクラウディオ。ブラジル代表の左サイドバックは「暴走特急」や「片道特急」の異名を持つフランコの指定席だ。
優秀なサイドバックはそのサイドでの試合中の激しい上下運動のスピードとスタミナを称えて「特急」という名を付けられることも多いが、フランコの場合はその異名が示すとおりのとんでもない攻撃特化型の選手である。
もちろん批判も多く「ブラジルの左サイドの特急は上りはあっても下りはない」とか「あいつの暴走は誰にも止められない。それが例えブラジルの代表監督でも」とまで評されている。それでも結果を出せば、そしてそれが攻撃に関する事であれば大らかに認めるのがブラジルの流儀だ。圧倒的な攻撃力を売りに南米予選で敵を粉砕した後は、ここまで超攻撃的なサイドバックを持てるのは自分達の国だけだろうという誇りも加わり、かなりの人気者としてスタメンに名を連ねている。
いつも冷静にディフェンスを指揮するブラジル代表のキャプテンだが、困惑した表情だけは年相応に幼さが覗く。この時点ではデータ分析が得意な彼も、日本の監督が胃を痛めながら守備に目をつぶって件の選手を使い続けている事まで判る筈もない。
「それにアシカや上杉って言ったっけ? あいつらならこっちでも代表候補にぐらいはなれそうなぐらいだったよ」
「ほう、そこまで評価は高いか」
「うん、まあ僕らみたいなスタメン組と比べちゃかわいそうだけどねー」
あははとエミリオが無邪気な残酷さで脳天気に笑って「僕ならあのぐらいの予選なら全試合ハットトリックしてるからね」と付け加える。その傍らでは難しそうな顔をした心配性なクラウディオが「こいつらが興味を持つレベルだと? 日本なんてまるでノーマークだったな」とぶつぶつ言っている。
これまでブラジルでは全くノーマークだった日本がブラジルの僚友に注目されると、もう日本とは関係がないと割り切ったはずのカルロスにもなぜかむず痒いような気がしてきてぽりぽりと頭をかく。
確かにかの国への国籍は無くなったが、サッカーに国境は関係ないからな。そのチームが強いかどうかが問題だ。そしてカルロスは新しくなった日本代表を「面白い」チームと感じたのだ。自分のいるこのブラジルには通用しないだろうが、少しは対戦が楽しめそうなチームになって来たと胸が躍る。
「カルロスもなんで笑ってるの?」
問われて確かめると確かに自分の口角はつり上がっているなとカルロスも納得する。自分を切り捨てた祖国に対してはいろいろ思うことがあるが、昨日見た試合の中には「一緒に戦おう」という約束を果たせなかった小柄な少年もいたのだ。
カルロスの国籍がブラジルになるといった想定外の事情もあったのだが、アシカが代表へたどり着くまで待っていられなかったのも事実だ。だから約束を破った事についてはユニフォームの色は違って敵となっても一緒のピッチで戦うってことで、勘弁してもらうしかないか。
――戦い甲斐があるのではなく、まだ今の日本は叩き潰し甲斐があるぐらいの相手でしかないとカルロスの笑みが深くなる。
そうだな、今の戦力で単純に考えると……。カルロスは顎に指を当てて簡単にシミュレーションすると五対一ぐらいでブラジルが完勝するとの結果が出た。
まあ実際にやればどうなるか判らないし、もう少し楽しませてくれるといいんだが。
遙かに離れた自分のもう一つの祖国を思って、日本と戦える日を待つのだった。――その対決する日は彼が想像したよりかなり早くやってくる事となる。