外伝 納豆少女のサッカー少年観察記
北条 真からすれば引っ越した先で隣に住んでいた足利 速輝という少年は、初対面の時から何だかよく判らないが気にかかる存在だった。
それも仕方がないだろう。何しろ真はサッカーというスポーツそのものをテレビと体育の時ぐらいでしか見たことがないのに、そのスポーツでいきなり「俺は将来世界一になる!」と断言する相手をどう判断しろというのか。せいぜいが「あ、うん、そうなんだ。頑張ってね」としか言えないだろう。それ以上の世慣れた対応は当時小学四年になったばかりの彼女にはちょっとばかり難しすぎる問題だった。
次に真が彼を意識したのは、お昼の給食の時間に転校したばかりの自分を元気付けようと納豆をプレゼントしてくれた時になる。この時点では納豆を嫌いな日本人が――いや納豆を嫌いな地球に住んでいる人間が――いるとは彼女は少しも思っていなかったのだ。真は納豆は地球で一番美味しい食べ物だと心の底から信じ込んでいた。まあ、この半ば信仰にも似た納豆への偏愛は彼女が成長してからも変わらずに続いていくのだが。
だから納豆をプレゼントされただけでそれを一生かかっても返すべき凄い恩義のように感じてしまったのだ。それでとりあえずはお返しにと、真はちょうどその時に偶然持ち歩いていた彼女の父からもらったばかりの新開発された珍しい素材で作られたミサンガを渡したのである。
実はこの交換から数年後にミサンガが後の足利少年の身代わりとなって彼の身を守る事になるのだが、もちろんそんな事は知らない足利少年は「なんだこれ?」といったちょっと引きつった顔だったがお礼を言って受け取ってくれた。
この価値からするとかなり不均衡なプレゼントのやり取りの末に二人はお互いに「真」と「アシカ」と呼び合うようになり、親しい本当の友達になれた気がしたものだ。真にとってはここに引っ越してからの性別を超えて作られた友達の第一号であった。
その後、彼の発言が大言壮語ではなく本気で最もメジャーなスポーツで世界一になると言っていたのを知って「ホントなの!?」と驚いた。またアシカが全国大会でも注目されるクラスの選手と知らされた時は再び「ホントなの!?」と叫んでしまった。その後練習試合を観戦してアシカがシュートをバーに五連続で当てた時なんか、頭を抱えては悩む素振りのアシカをよそに「コントなの!?」と笑っちゃったりして危うく派手な喧嘩になりかけた事もあった。
なんにせよ彼女にとってはアシカという少年は何とも驚かされることの多い幼馴染みである。それでも彼によって一番驚かされたのが、実はアシカが納豆を嫌っていると知らされた時だが……。
しかし真は彼によってそれまではよく知らなかったサッカーというスポーツに興味を引かれたのは確かだった。その興味の矛先が向かったのが「自分も女子サッカーをやってみよう」とか「アシカのやってるクラブのマネージャーになろう」でも「Jリーグへサッカーの観戦をしにいこう」でもなく「サッカーゲームをやり込んでみよう」という物だったのが、女の子としては普通とはいささか感性がズレていたかもしれない。
そのゲームをやり込んだ事が後の真をちょっと変わった道へ迷い込ませた一因ではあった。さらに少し困った事にこの小学生の時期からゲームにのめり込み過ぎたおかげで、かけていた彼女の眼鏡の度がまた進んでしまってレンズが厚くなってしまったのだ。コンタクトが苦手な思春期の少女からすれば、次第に厚くなっていく眼鏡の度数は絶対に周りの人達には伏せておきたい秘密の一つである。
そんな真とアシカの日常は順調に進み、やがて二人とも地元の中学へ進学する事となった。
大きく変化したのはアシカは中学に入学してからなぜかそれまで疎外されていた年代別の代表チームに選出されて、急に外国での試合が多くなりまた注目度も格段にアップした点だ。それはようやく厳しかったアジア予選が終わって試合から解放されてからも変わらず、いや真の目に見える範囲では予選中よりもなぜかもっと忙しそうになってしまったようなのだ。
まずは全校集会で校長先生から激励される事に始まり、休み時間にはクラスメイトやサッカー部などから練習試合に参加してくれとの申し入れはともかく、世界大会へ持って行く物の買い物や祝賀カラオケ会などの招待なども盛り沢山だ。
真からすれば「そりゃサッカー関係ないよね!」と突っ込みたくなるようないろんなお誘いをする人達にアシカはひっきりなしに取り囲まれていたのである。
その人の渦の中心地から何度かすがるような視線を感じたけれど、アシカの顔がどうも女子生徒に囲まれて鼻の下が伸びていたようだったから真は心を鬼にして助け舟は出さなかった。それどころか赤いフレームの眼鏡の下から指を入れて目尻を下に引っ張り幼馴染みに「あっかんべー」を突きつけたのだ。
アシカなんてきっと見かけだけは困った風だが本当は嬉しがっているに違いない。ふんと真は可愛らしく小さな鼻を鳴らして、無言でSOSを発信している幼馴染みを無視することに決めた。
アシカはサッカーで忙しいからとクラスの女の子はもちろん最近は真とさえも遊びに行ったりしないのに、なんでこんな時だけはいつもみたいにぴしゃりと断わらないんだろう。真の偏見のフィルターを通した映像ではどうしても彼がデレデレしているとしか思えない。
でも本人に尋ねると「将来はプロになるんだから、ファンサービスと周囲の評判は大切にしないと」って無意味にきりっとした表情で答えるのだ。囲まれてる最中のどこか浮かれた顔つきに反したその隙のない答えがまた真の機嫌を損ねるのである。
そんな周囲が勝手にバタバタしているアシカだが、自ら積極的に動いていた用件が一つだけあった。それは世界大会があるので、夏休みの課題を減らしてはもらえないかという先生方との交渉である。
でもやっぱりどの教科でも反応はあまり芳しくないようだ。
「うんうん、足利は今度の世界大会は日本のためにも頑張ってこいよ。でも宿題はそれとは別でうちは公立の中学なんだから減らすのは無理だね。という訳で宿題もちゃんと頑張ってくれ」
という理屈でどの先生からも特別扱いはできないと却下されたのだ。「うう、もっと代表戦に理解がある学校にすれば良かった。進学先を間違えたかな……」とうなだれるアシカだが、学業で困難にぶつかるアシカを真は初めて見た気がした。
アシカは英会話以外を勉強している素振りはないのに、なぜだか成績はトップクラスを維持している。小学校時代に比べれば徐々に順位を落としているようだけど、それでも代表に選ばれる生徒がこのレベルの成績なのは珍しいのか文武両道で大したものだと評判だった。
でも一度真が勉強のコツを聞いてみても「復習をしっかりすること」だと当たり前のことしか言ってくれなかった。「アシカは復習してないじゃない」と口を尖らせても「俺はまあ毎日の授業自体が復習みたいなもんだからな」と彼女を煙に巻く答えを返すだけだったのだ。サッカーについて質問するとなんでも饒舌に解説してくれるのに、勉強に関しては意外にケチな少年である。
だから彼が宿題について困っているのは学力ではなく純粋に時間がかかるのが問題らしい。うん、部活をしている生徒よりも代表とユースの掛け持ちしているアシカの方が拘束される時間は長いもんねと真も納得した。
「なら自由研究ぐらいは共同研究って事にして手伝ってあげようか?」
真の垂らした蜘蛛の糸に、立て続けに教師からつれない態度をとられてうなだれていたアシカはすぐに飛びついた。
「本当か? あれが一番時間を食うんだが」
「うん、だけどその代わりに今度暇になったら一日付き合ってよね」
「それぐらいなら問題ない。いや、持つべき物は話の分かる幼馴染みだな」
彼女の差し出した小さな手を握ってぶんぶんと上下に振っては素直に感謝を表すアシカに対し、ふふふと真は含み笑いをする。これで世界大会が終わった後の夏休みは、共同で自由研究をしていればなにかとアシカと自然に一緒にいる機会が多くなる。
こんな絡め手を使える点は幼馴染みの真だけの特権である。
これで今年の夏休みの終盤は大会が終わったアシカと一緒に遊べそうだと思うと、勝手に真の頬は緩んで大きな目が線のようになってしまう。友達からは「猫が陽だまりで目を細めているみたい」と褒められたのか貶されたのか曖昧だが実に嬉しそうに他人からは見えるらしい表情だ。
アシカが「助かったぜ、真!」とスキップして他の教師に対して宿題減の交渉に行った後も、真のにんまりとした笑みは薄れない。それどころかますます緩みっぱなしのその口からは夏休みの自由研究の予定がこぼれだしていた。
「ふふふ、家庭でできる美味しい納豆の作り方の研究をアシカと一緒にやれるなんて楽しみだなぁ」
――アシカが頭を抱えて「なぜ自由研究の内容を確認しておかなかった……」とうめくのはこれから一ヶ月後の話である。
夏休みが始まり外の熱気に対抗してエコは関係ないとばかりにきんきんに冷房を利かせた自室で、真はその童顔でできるかぎりの真剣な表情でページをめくっていた。
長い髪はポニーテールのように上でくくっているが、これは暑さに弱い彼女のおしゃれではなく少しでも首を涼しくしようと涙ぐましい努力である。
しばらくしてから真はばたんと図書館で借りてきた本を閉じると、イスに深く腰掛け直し「んー」と背筋を伸ばす。それから「ん!」と反動で勢いをつけて上体を起こすとパソコンの電源を入れる。自由研究の下調べはこんな物でいいだろう。後はアシカと実際に大豆を使ってやってみるだけだ。
なかなか立ち上がらないパソコンに少し苛立ちながら、今日はネット上でどんな議論をするか想像した。よし、やはりアシカを中心とした日本代表のフォーメーションとコンビネーションについてだろうな。
この辺の話題になると、サッカー選手はアスリートとしての才能がまずありきだとする、あのハンドルネーム「サッカーは爆発だ」君を中心とするフィジカル論者の人達と真達の「サッカーはテクニックだよ」派の結論の出ない仁義なき論争をまた覚悟しなければならないだろう。
でも、彼女は応援している幼馴染みのポリシーからも決してこの論争で退くことはできない。どうしてもアシカをずっと見てきた立場からすると、アスリートタイプよりもテクニシャンを贔屓してしまうのだ。
まだブラインドタッチを修得していないために、ややたどたどしくぽちぽちと書き込みを行っていく。
「現代表への反対派が何て言っても、現実にはアシカと明智を中心にしたテクニシャン達がゲームを作ってアジア予選を突破しているんだよっと。ついでにプロテインを主食とするマッスル教など滅びてしまえ、人類の健康食の頂点は納豆なんだよ! っと、ふう」
どこかサッカーとは関係ない私怨も入っているようだが、真はネット上において現代表とアシカの擁護を行っているのだ。
すでにただの女子中学生からハンドルネーム「納豆少女」としての論客の精神状態になっていた真は、アシカや日本代表のために夏休みの間も休まずにネット上で戦っていた。……一体それが何の役に立っているのかは定かではなかったが。