外伝 ボクサーになりたかった少年
さすがにそろそろ顔を出さなあかんやろな。
前へ進もうとするのを躊躇う足を叱咤し、十五歳以下のサッカー代表選手に選ばれている上杉はすっかり最近は縁遠くなってしまったプレハブのような造りの小屋へと歩を進める。
上杉は「邪魔するで」と言葉遣いはともかく少々彼らしくない丁寧な響きのする挨拶の後、簡単な造りの見た目とは裏腹に結構な重量感のある抵抗をみせるスライドさせるドアを開けた。
風が吹けば飛んでいくような安っぽい外見を裏切って、ドアの内部はしっかりとした造りで意外に密閉性は高い。そのせいで開けたドアからサウナのような気温と湿度が汗臭さを伴いつつむわっと外へ洩れだした。湯気がたっていそうな室内のそこら辺の床には、トレーニングするための品が乱雑に転がっている。
その中で最も目を引くのは室内の中央にデンと安置されているリングだろう、ロープが四本であることからこれはボクシングのリングだという事が判る。もしプロレスなどならリングに選手が乱入したり場外乱闘などで出入りをしやすいように、ボクシングよりもロープの数が少ない三本のはずだからだ。
それを裏付けるように天井からは幾つものサンドバックが吊り下げられている。
ジムではまだ朝が早いせいかリングの上を使った実戦的な練習をしている人間はいない。二・三人がトレーニングウェアの姿で縄跳びや柔軟運動をして汗を流しているが、彼らにしてもまだウォーミング・アップの途中で本格的な練習の前段階だろう。
その練習生の中には残念ながら彼の顔見知りはいなかったので、面倒やなとは思いつつ上杉は軽く頭だけは下げておく。このジムの会長がおそろしく礼儀に厳しいのは、文字通り上杉の頭へと会長自身のげんこつによって叩き込まれているからだ。
朝早くから始動している熱心な練習生から放たれる訝しげな「誰だこいつ」といった気配を上杉が感じとったちょうどその時、奥の扉が開いて年を取ってはいるが眼光の鋭い老人が現れた。じろりとジム内を一瞥すると上杉の姿を確認して、前は灰色だったのが会わない内に真っ白くなっていた眉を跳ね上げる。
「おう、上杉の小僧やないか。久しぶりやな」
「会長も元気そうやな」
「ワシが元気っちゅーより、最近の若いもんがヘタレすぎるさかいにワシみたいな老いぼれが元気に見えるんや。お前ぐらいのイキのええ悪ガキはそうはおらんさかいな」
舌鋒鋭く若者と上杉を斬って捨てたが、以前よりしわが深くなり目立つようになった頬を少し緩ませる。
「お前の方は頑張ってるみたいやな。サッカーなんてよう知らんワシでもテレビや新聞で名前見るぐらい活躍しとるやないか」
「まあな。ワイがその気になれば、ボクシングでもサッカーでもチャンピオンになれるっちゅーこっちゃな」
「ふん、大口叩くのは前と変わらんな」
機嫌良くぽんぽんとテンポ良く掛け合いができたのに上杉は内心で安堵する。自分が事故で拳を壊した後、このジムに顔を出したのは今日が初めてだったのだ。小さい頃からずっと世話になってきたこの会長と、以前に彼がボクシングで世界チャンピオンを目指していた時同様に気安く会話ができるのはありがたい。
そんな上杉の考えを読んだのか、会長は彼を手招きして自分が今出てきたドアへと戻るとくたびれたソファで茶を勧める。
「……ほんまにお前の事はよう点を取るサッカー選手やとうちのジムでも話題になっとる」
「当然やな」
ソファに腰かけた上杉は胸を張った。自分がこのボクシング狂の老人に元気でやっていると伝えるには、サッカーでゴールするのが一番だと気がついたのはサッカーを始めてからすぐのことだった。
上杉がハットトリックを連発していると小さく記事になったのを、スポーツと言えばこれまでボクシング一筋だった会長がわざわざスクラップにしてまで保存してくれているとジムの先輩から伝え聞いたのが彼が何よりゴールに拘るストライカーになったきっかけの一つだ。
それ以来上杉にとってはゴールを決めることが「自分はここにいるぞ」と周りに知らしめるアイデンティティの一つになっているのである。
「だがお前さんは、点を取る以外には他に何もせんそうやな。前の代表の監督さんいう人がそうテレビでグチっておったで」
「……そないな奴は知らんし、シュートの他はワイの仕事やない」
少し雲行きが変わったようだ。いつもは厳しく口をへの字に曲げてじろりと睨むのが様になっている会長が、眉根を寄せて心配げな表情を見せている。会長のこんな顔は教え子のボクサーがKO寸前に追い込まれた場面でしか上杉は見たことがない。
「少しは周りを見るんやで。ボクシングでも一発でKO狙いばかりしてたらカウンターをくってまう。パンチをぶんぶん振り回すだけでなく視野を広く持つのがチャンピオンになるボクサーの条件の一つや」
「……」
黙った上杉のつんつんと突っ立った髪をつぶさない程度に、軽くしわの刻まれてはいるが未だ逞しさを残した手が撫でる。
「お前さんは優しい子じゃ」
そんなことあらへんと答えようにも、頭に感じる柔らかな感触のせいで舌が凍り付いたように動かない。
「ワシらに心配をかけまいと誰からも注目される点取り屋になったんやろう? だが無理にそんな事せぇへんでも、お前の事は勝手にワシらにまで伝わるぐらい有名になっとるよ。ワシはサッカーの事はよう判らん。だが、無理せぇへんようにお前さんがチームに求められている仕事を手を抜かずに頑張りや」
◇ ◇ ◇
上杉は二人のDFに挟まれながらもボールをキープしていた。すでにここはもうペナルティエリアの中だ、倒せば即PKのためあまり強引なディフェンスはしてこれない。これぐらいならばアジア予選でもっとハードな反則上等なレベルの修羅場をくぐった自分であれば無理矢理にでもゴールを狙える!
そう強引にシュート体勢に入ろうとした刹那、ゴール前に飛び込んでくる小柄なMFの足利の姿が目に入った。歯を喰いしばってストライカーとしての本能と躊躇いを押し殺すと体を捌き、ボールをより得点する確率の高い足利に預ける。
ここまでゴールと至近距離にいる上杉がパスをしたのは初めてなので、DF達の虚を突いたのかマークを外して走り込む足利に簡単に通せた。
パスを貰った足利でさえ驚きの表情を作ったが、それでもサッカー選手としての習性か反射的に来たボールへと足を振り抜く。こいつも代表に参加した当初は目を覆うような決定率だったが、今では上杉ほどではないがかなり枠内を捉えるようになっている。ノーマークでこの位置からなら外さへんやろという上杉の予想通り、足利のシュートはキーパーにも邪魔されずにゴールへと叩き込まれた。
だがそこからの展開は上杉の予想を大きく越えていた。
「上杉さん、何やってるんですか!?」
練習試合の最中――しかも今彼自身がゴールしたにも関わらず、喜ぶどころか噛みつきそうな表情で上杉に向かって足取り荒く近付いて来たのは足利だ。上杉にしてみれば、今こいつに自分を囮とした絶好のパスを出して得点をアシストしてやったのだからなぜ文句を言われるのか見当がつかない。
「な、なんや。今のはええパスやったやろう?」
「あんなパスなんか欲しくありません!」
自分より頭半分は小さな少年にぴしゃりと言いきられる。
「いや、ワイがパス苦手なんは知っとるやろ? 段々上手くなるよって、もうちょい優しい目でみてくれんと」
今のパスに何かミスでもあったんか? でもゴールしたからええやないかと弁解する上杉も自分がパスを出すのはまだまだ下手だという自覚があるので、この小柄な日本代表でもゲームメイクを担当するほどのパスの専門家には強く言えない。
「上手い下手だなんてレベルの問題じゃないんです!」
足利は上杉の襟首を掴むとそれを引きつけるようにして、まるで裏切り者を睨むような目つきで上杉の瞳をのぞき込んだ。足利よりもずっと喧嘩っ早い上杉だが、ここは勢いに飲まれてされるがままだ。
「上杉さんが今よりパスが十倍上手くても、このチームには入れませんでしたよ。でも今上杉さんは代表のスタメンを張っている。なんでか判りますか?」
「な、なんでや?」
世界大会までに少しでもパスを上手くしようと考えていた上杉にとって、彼のパスが十倍上手くても無駄だと言われる意味は全く理解できない。
「上杉さんってFWが「パスで逃げずにシュートするストライカー」だからここにいるんですよ。今更誰もあんたにアシストをしろだなんて期待はしていません。上杉さんは最前線で常にシュートを狙ってくれていればそれでいいんです。下手にパスなんか覚えられたら並以下のFWになってしまいます。
もう一度繰り返しますよ。うちが求めてるのは点取り屋の上杉さんで、シュートを撃たないあんたに用はありません。味方にパスを回すFWが良ければ他の人をスタメンにしますよ。その方が上杉さんのパス技術を鍛えるより早いですしね。でもうちの監督は――いや日本はあんたを代表のFWに選んだんです。だからあんたはシュートを撃つことだけを考えるエゴイストのままでいてください」
足利の「上杉のシュート以外には何の期待もしていない」発言に上杉の気分が少し落ち込む。何しろボクシングジムの会長に会ってから、彼はサッカーをやり始めてから初めて真剣にパスやディフェンスの練習をやりだしたのだ。それが全て無駄となれば時間を浪費した気になるのも仕方がないだろう。
それを察したのか足利がフォローしようと声をかける。
「上杉さんはチームの事とかパスの事なんか考えずに本能に従ってプレイしてください。それが結果的に一番チームの為になりますから」
「パスやディフェンスは忘れろってことかいな」
「その通りです」
無慈悲に断定されたにも関わらず、会話していく内に段々と上杉の表情からなぜか曇りが拭われていくようだった。
「そか。ワイはシュートに拘る方がチームの、そして日本の為になるんやな」
何度も頷いては「くっくっく、それだけがワイのやるべき事でチームから求められている事なんやな」と呟いた。
苦言を呈したにもかかわらずあまりに嬉しそうな上杉の姿にちょっと距離を取った足利が、言い過ぎたかとおそるおそるご機嫌取りを試みる。
「あ、でも世界大会に行けば守備が凄く堅いチームもあるでしょう。そんなシュートが撃てない時やパスした方がいいと思った時にだけ限定でパスをしたり、守り切る時間帯だと感じたらディフェンスするのも悪くないですよ」
「なるほどな、そやけど……」
答える上杉の表情はまた優れなくなってしまった。いや、これは珍しく彼が困惑しているのだ。
「何か問題が?」
「ワイは今までシュートが撃てないとかパスした方がいいとか守らなアカンなんて、どんな試合でも一遍も思った事がないんやけど、どないしたらええと思う?」
「……もう世界大会が終わるまでは、上杉さんの好きにしたらいいんじゃないですかね」
完全にさじを投げた格好の足利だったが、この会話が原因となって数日後に「頼むからキックオフシュートを毎回狙うのは止めましょうよ」「はあ? お前が常にゴールを狙えって言うたやんか」「物には限度があるんですよ!」という会話を上杉とする事になるのだった。