第六十一話 みんなで胴上げをしよう
万雷の拍手の中、ピッチから戻って来たアシカとアンカーの両名を山形は笑顔で出迎える。「よくやってくれたな」と軽く肩を抱いて背中をポンと叩く。さすがに初夏の気候の中、ずっとプレイしていたために二人とも汗でぐっしょり濡れているのは仕方ない。
「すぐに水分補給をしておけよ」
そんな言わずもがなの注意に対しても素直に二人とも頷く。うんうん、このぐらいいつも俺の指示を聞いてくれれば監督業も楽なんだが……そう山形は苦笑する。どうにもうちの代表のメンバーは能力と扱いづらさが比例して、スタメンクラスには問題児ばかりいるような気がしてしまう。
「ん? なんですか監督?」
胡散臭そうな視線に気がついたのか、スポーツドリンクを飲む手を休めて不思議そうに首を傾げるアシカが尋ねてくる。いかん、試合中だったな、何を油断しているんだ。問題児達への対策は後回しにしてまずはこのサウジアラビア戦をしっかりと終わらせなければ。
とは言っても時計を見れば、もう残った時間はロスタイムの三分のみ。もう監督が指示すべき場面ではないし、どう考えても日本の勝利は動かない。
ピッチに視線を戻すと躍動する日本の選手達と体の重そうなサウジの選手達。おそらく運動量そのものはよく攻める為のアクションを起こしている日本の方が多いはずだが、メンタル面での疲労度の差が動きに如実に表れている。
うん、審判さん勝負はついたんだ、もういいだろ? 早く終われって。
普段はする事もない山形の貧乏揺すりがベンチを微かに振動させて、前のめりな姿勢のままその時を待つ。同じくベンチで待っている他の代表メンバーも、息を詰めて審判が試合終了の笛を吹くのをじりじりしながら待ちわびているようだ。
そして上杉がかなりゴールから離れた場所から強引に撃ったロングシュートがサウジのゴールキーパーにしっかりとキャッチされると、そこで審判が長い笛を吹いた。
この試合終了とアジア予選の終わりも告げるホイッスルである。
山形は真っ先にベンチから立ち上がりピッチの選手へと駆け出そうとするが、その時にはもうすでにベンチに残っている者はいない。全員がピッチになだれ込んでいる。ふう、さすがに元気な子供の選手達だな。山形は嘆息する。瞬発力が何年も前に現役を引退した自分なんかとは全然違う。
なんだか取り残された気分で抱き合って喜びを分かち合っている選手達を見ていると、混ざれなかった自分が老けたって気がしてくる。いや、監督としては山形はまだまだ若造扱いされる年代なのではあるが。
彼が勝利したチームの監督に似つかわしくない少しブルーの入った気持ちを振り払おうとしていると、急に選手達が全員でこっちに突進してきた。
その先頭にいるのが日本代表で一・二を争う武闘派の上杉と武田の二人だ。思わず山形は反射的にファイティング・ポーズをとって覚悟を決めてしまう。座しては死なぬぞ、せめて相打ちに……。あれ、なんでこんな展開に?
とまどう山形を尻目に上杉と武田が彼を担ぎ上げる。さらに常識的だと信じていた他のメンバーまでもが参加しては彼を宙へと投げ飛ばし、受け止めるとさらに宙へ浮かす……これ胴上げじゃないか?
慌てていたため身を硬くして頭部をブロックしているという不格好な姿ではあったが、無重力状態に身を委ねていると彼の胸の奥から熱い物が込み上げてきた。喉からほとばしるのは少しいつもの厳つい山形らしくはない高い笑い声だ。
サポーターからの拍手の中で選手達に胴上げされ宙を舞いながら笑い続ける。
たぶん山形が監督になってから最高に幸せな瞬間だろう。
時間にして数十秒にも満たない僅かな間だったが、これは麻薬だな。降ろされた山形の笑いが止まらずに、またすぐにでも胴上げをしてもらいたくなるほどだ。
次の機会はこのチームでの世界大会か……今度はその決勝で異国の空をまた飛んでみたいものだ。彼は監督としてのキャリアや協会とのパイプを作るためとかだけでなく、またこの最高の瞬間を味わう為にも頑張ろうと心を決めた。
◇ ◇ ◇
審判の笛が鳴るとピッチ上の日本代表の全員が飛び跳ねる。こういう時ってなんだか体の方がジャンプしたり、叫んだりと勝手に動くんだよな。
俺達は誰彼構わずにチームメイトの全員で抱き合い「やりましたね山下先輩!」「お前のおかげだよアシカ! でも今日俺にアシストせんかった事は許せん」などや「くそ、アシカが残っていてくれたらワイはハットトリックできたはずやのに!」「やっぱ狙ってたんですか? 最後のシュートはさすがに無茶でしたよ」といったように和やかな会話で背中をバシバシと叩き合った後、俺は山形監督がその輪の中にいなかったのに気がついた。少し俺達の輪から離れた場所から強面には似合わない穏やかな視線を投げかけている。
その姿を目にした上杉と武田の力の強い二人組が監督を目指してダッシュする。慌てて追随すると監督はなぜか「おい、止せよ」と制止しながらも、「首だけは取らせぬぞ」というような防御姿勢をとっている。そんな用心深い監督を皆でかつぎ上げて胴上げする。
慣れてないせいか最初のうちは監督の姿勢が定まらなかったが、最後には大声で笑い出すぐらい上機嫌になったんだからやった甲斐はあったな。
落としたりして怪我をしないように慎重に下ろすと、改めて皆でサポーター達に挨拶に行く。
代表のメンバー全員が一列に整列すると、一際声と拍手が大きくなった。真田キャプテンが「礼!」と一言だけ大声を出すと揃って頭を下げるが、すぐに顔を上げる。
かしこまった一礼からすぐに砕けた雰囲気に戻り、選手の皆がサポーターに応えている。俺にしても、これですべてが終わったという解放感から安堵の笑みがこぼれる。ピッチ上でボールを持った時の「にやり」という牙を剥いた表情ではなく、もっと柔らかく緩んだ笑みだ。
どこにいるのかまでは判らないが真も母もそしてクラスメイトもたぶん拍手をしてくれているだろう。その誰に見られても恥ずかしくない試合ができたはずだ。
序盤はちょっとばかりしくじったが、それでもメンタルの問題をゲーム中にきっちりと修正して一回り成長したのだ。
俺はアジア予選が始まる前と比べるとずいぶんとサッカー選手として進歩している。
これまでも俺は「上手い」プレイヤーだという自負はあったが、今回の予選を通じ「強い」プレイヤーへと一皮剥けた。一つ一つの要素を見れば、別段スピードが上がった訳でもなく急に技術が磨かれたはずもない。だが、今の俺と予選前の俺が一対一の勝負をすれば間違いなく今の俺が圧勝するだろう。
俺はこの予選を経て自分の選手としての格が一つ上がったと実感している。
過酷なアウェーの戦いと日本中からのプレッシャーを受けるなんていう苦しくて貴重な体験は、肉体面に比べて弱かった精神面を無理矢理鍛えてくれたのだ。
そしてまた世界大会へ行けることに心底ほっとしている。
俺はサウジアラビアで怪我をしたのは痛かったし、異国の真夏の太陽の下でずっと走るのは苦しかった。クラスやネットで悪く言われるのは辛かったし、サッカー部の奴らがよそよそしかったのは寂しかった。
でもそれらの全てを踏まえて、なお代表にいる個性豊かなメンバーとサッカーをするのが楽しかったのだ。
だからこいつらとまだ同じチームで戦えるのが嬉しくて仕方がない。
自分の為だけでなく、日本の為だけでもなく、このチームの為にもまた世界大会で勝ち続けたいと強く思う。
そして、二回目のサッカー人生にしても自分がどこまで行けるのかはまだ全然判らないのだ。前回のようにまた途中で倒れてしまうのかもしれない。だが、それでも世界へ行くためのチケットをようやく手に入れたのだ。
ぐっと、拳を握りしめる。
――俺の目標は世界一のサッカープレイヤーになる事だったよな。ならばこの世界大会はいい機会じゃないか。とりあえず――
「まずはこの世界大会で同年代最高のプレイヤーになってこようか」
その道の先にはブラジルに行ったあの少年や、まだ見ぬ凄い選手がたくさんいるのだろう。だが今の俺は壊れた右足を抱えて羨ましそうにテレビ画面の向こう側で観戦しているだけじゃない。
彼らと同じピッチで戦える立場にまでやってきたんだ。
体がぶるりと夏の日差しの中で震えた。
ああ今試合が終了したばかりなのに、またサッカーがやりたくてたまらない。
待っていろよ、かつては見ているだけだった世界の舞台よ。俺が日本から自慢のチームメイトを引き連れて参戦するからな。