第六十話 立ち上がって拍手をしよう
武田によるゴールで後半は凍り付いていたスコアがようやく四対一へと動いた。
同時にこの得点でほぼ間違いなく日本の勝利と予選突破が決定されたのだ。もちろんピッチ上にいる日本のイレブンの誰もが「もうもらった」とか「九十九パーセント俺達の勝ちっすね」などといったフラグめいた台詞は吐かない。むしろ「油断するなよ!」といった気を引き締める言葉か「ワイによこせ、もう一点取りに行くで!」といった気合いを入れるための会話ばかりだ。
すでに紙吹雪が舞い、踊り始めている気の早い観客席のサポーター達とは対照的に、俺達選手はまだまだサッカーがやり足りないとばかりにサウジよりも先にポジションに戻っては試合再開を待っている。
そして日本のベンチからはなぜだか腹に手を当てて、厳めしい顔をいつもよりさらにしかめた山形監督の怒鳴り声が響いてくる。
「これぐらいで満足するなよ! 攻め続けろ!」
はいはい、判っていますって。じろりと力を入れてベンチを見返すと、気圧されたかのように後ずさる監督の姿があった。どうしたんだと周囲を見回すと、俺を含めたピッチ上の日本代表全員が闘志に満ちた瞳で監督を睨みつけたらしい。
ああもう、山形監督は選手を自由に伸び伸びとプレイさせる放任型の監督なんだから、ここまで試合に入り込んだ状態ならばもう何も言わずに俺達に任せてくださいよ。
今の集中しているチームにとってはメンバー以外の声はほとんど雑音にしか聞こえていないぞ。
これ以上は何も声をかけなくても、お望み通りサウジアラビアを粉砕してみせますって。
そして俺達はほぼ戦意を失ったサウジアラビア相手に蹂躙戦を開始した。
後になって考えると敵としては代表としての面子を抜きにすれば内心では白旗を上げたかったのではないかと思う。向こうとしては打てる手がほぼ残っていないのだ。交代要員も後半の開始の時点ですでに二人使って残りのカードは一枚。
審判にしても、アウェーでの判定が酷過ぎるとFIFAに抗議までされた後での日本のホームゲームである。今日にしても毒蛇に対する俺の外見上はフェアな行為に観客や審判への心証もいいだろう、サウジにとって有利な判定などはあり得ない。
おそらくベンチで立ち上がって異国語で泡を吹くほど叫び続けている向こうの監督は「諦めるな」と敵チームを鼓舞しているのだろうが、ここまで来てしまっては効果が薄い。何より監督自身がまだ追いつけると信じ切れてないのだろう、声は大きいがどうにも重みがない。
まあ士気を低下させたのはサウジ側の都合であって俺達には関係ないよな。
日本代表チームはホームでのサポーターからの大歓声に押されるように攻勢をかける。観客にしても自国の代表が大差をつけてリードして、しかも勝てば世界大会へ出場が決まるという展開だ。安心してお祭り騒ぎに興じられるだろう。
半ば腰の引けたサウジの攻撃から日本DF陣は簡単にボールを奪うと、アンカーを経由してまたもや俺へとボールが回ってくる。
さて、どうするか。
俺の目にはもうサウジ代表は敵ではなく獲物としか映っていない。ならば自分で行ってみよう。
ぐっと俺が力を溜めた前傾姿勢になると、危険を察知してか目の前にマークしにやってきた相手が顔を歪め口の中で何か呟く。言葉は判らないが意味なら推測できる。こんな場面で口にするのは間違いなく罵倒でしかない。
そんな彼の目の前にボールを差し出す。ほら、こんなに取りやすそうな所にあるよ。ちょっと足を出せば奪えそうだろう? あ、我慢するの? じゃあ、先に進んじゃうよ。
わざとらしいプレイ内容で挑発した俺が相手の右へと抜きかける。ここまで必死に反応するのを自重してマーカーが待った甲斐があったと飛びついてきた瞬間、足首でボールを切り返して股の間を通して抜き去った。変形エラシコによる股抜きである。
相手はチャンスとばかりに飛びかかろうとした寸前、自分の真下をボールが通過していったのに気がついたのだろう、どうにかしてボールを止めようとしては完全にバランスを崩して転倒する。
ボールを持ってにやけていた俺の口元がさらに歪む。性格が悪いとは判っているが、相手に指一本も触れずにフェイントだけで尻餅をつかせるとつい「見たか俺のテクニックを!」と嬉しくなってしまうのだ。
まあ強引な抜き方をしたりして敵を力尽くで倒したりした訳じゃないから、笑うぐらいは勘弁してくれよ。
笑みを留めながら俺はドリブルでミドルシュートの射程圏内にまで深く敵陣へと侵入した。そのまま俺が躊躇わずにシュートモーションに入ると、慌てたように最終ラインを構成していた敵のDFが止めにくる。
そんなディフェンスなど目に入らなかったように俺は右足を振り切った。
俺の目前にまでシュートを体で止めようと身を曝していたDFが体を硬くして歯を食いしばっている。だが、俺の蹴った――いや爪先で跳ね上げたボールは彼の頭上をふわりと越える。
これは普通のキックに見せかけたフェイントのチップキックだが、もちろんループシュートではない。キーパーが前へ出てない状況ではループなんて撃てるもんか。
これはDFの壁とキーパーの間にボールを落としたパスである。
そこに走り込むのはいつものうちのエースストライカーじゃない。上杉の奴は今回はまだ密着マークしているサウジのDF相手に肉弾戦を交わしているからだ。
俺からの緩いボールに反応したのは、代表FWの中で一番影の薄い少年だった。今も敵の影から気がついたらゴール前に現れていたという、いかにも彼らしい存在感の無さを利用したマークの外し方で左サイドから長距離をダッシュしてきた馬場にパスを出したのである。
まさにこの瞬間の馬場はシャドーストライカーと言うのにふさわしい存在だった。
俺が浮かしたダイレクトで撃つのには難易度が高いボールをボレーで地面に向けて叩きつける。
丁度キーパーのいる辺りでバウンドしたシュートは、彼を一歩も動かさずにゴールネットを中から上面へと突き上げた。
得点を決めた馬場は信じられないといった表情を見せた後、ゴール前へ走り込んだ勢いそのままにメインスタンド前へ飛び出すとどこかぎこちなく両手を掲げたガッツポーズをとった。
――こいつあんまり久しぶり過ぎて、ゴールを決めた時にどうすればいいか喜び方を忘れてるんじゃないか? 俺がそう思ってしまうほど、先ほど得点を挙げたDFの武田よりも様になっていないガッツポーズだった。
予選で二点目となるゴールに普段は温厚な彼も喜びの色を隠せない。
だがそれに応じるべきサポーター席からの反応は結構酷い。「あいつ誰だっけ?」といったとまどった空気の後、俺の「さすが馬場さんですね。馬場さんならやってくれると思ってパスを出したんですよ! よ、日本代表の不動の左ウイング背番号十一番の馬場さん!」というまるで何かを宣伝しているように名前を連呼する説明臭い声が響いた。
その後何かを誤魔化すような勢いでサポーターの席から馬場コールと手拍子が起こった。若干不自然な感じもするが、まあこの状況なら笑い話ですむからいいか。
実際馬場さんも苦笑いしながら「僕の事を忘れないでくれよー」と上げていた手をスタンドに向けて振っていた。
日本側はもう試合を完全に決定付けるゴールにどこかチーム全体の雰囲気が軽くなっていたが、逆にサウジアラビアの空気は重い。
自陣のゴールマウスからボールをセンターサークルへと蹴ってよこすキーパーの態度もどこか投げやりだ。
彼らももう勝敗が動かない事を理解しているのだろう。これまでは心の中で押さえつけていた敗北の実感がまだ未熟な精神を蝕んでいる。子供っぽいのは年齢的に仕方がないが、少しマナーが悪いぞ。
それにまだ試合は終わっていない。
もうしばらくの間――といってももう残りはロスタイムぐらいしかないが――俺達の世界へ向けた戦いのスパーリングパートナーになってくれ。
ん? なんだここで俺とアンカー役が交代? ああ、仕方ないか。まあ怪我明けだし試合も勝敗が決まっているしな。後の事はチームのみんなに任せるぞ。
得点した馬場への拍手が鳴りやまぬ中、引き上げる俺達を送る声援も加わりまた大きく会場を包んでいった。
◇ ◇ ◇
実況席でもリードを広げる盤石の日本の試合展開に、アナウンサーさえも興奮を隠せずに絶好調の日本代表を盛り上げている。最初に失点こそしたが、そこから同点・逆転・追加点に駄目押し弾と見どころに事欠かない。これほど実況のやりがいがある試合はめったにないだろう。
一人でマシンガンのように話しを進めていたアナウンサーは咳払いをして、この部屋の中で唯一なぜか表情を曇らせている解説者にコメントを求める。
「松永さん! このままなら勝利は間違いないようですが、どうでしょうか?」
「ええ、やりましたね。やってくれましたねぇ」
顎の下に組んでいた手どころか今では彼の体全体が小刻みに震えている。
「そうですね、若き代表チームとそれを率いる山形監督がやってくれました!」
「もう、おしまいだぁ」
いきなりそのうめき声と共に頭を抱える松永。だがこの実況席では彼の奇行に突っ込むほど面倒見のいい人間はいなかった。もう松永がどんな行動をしようとアナウンサーは絶対に彼と目を合わせないようにピッチだけを見つめながら実況を続ける。
「はい。そうですね残り時間はロスタイムのみです! 試合はもう終わりに、そして厳しかったアジア予選ももうおしまいに近付いています」
「アシカがいなければ……」
アナウンサーの明るい実況をよそに、松永は頭を抱えて影になっているために表情は判らないが、そこから暗い声が呟かれる。
「あ、確かに足利選手がここでいなくなりますね。どうやら疲労の著しいアンカーと一緒に交代でピッチを後にするようです! 小さな体で大活躍した今日の殊勲者が今スタンディングオベーションで送られます」
頭を抱えて丸まっていた松永はがばっと体を起こすと、どこか空元気めいた声を張り上げる。
「いや、まだだ! まだ世界大会が残っている。その結果いかんによってはまだこの代表の評価を百八十度変えられる可能性も……」
「そうです、これで終わりではなく、まだアンダー十五の世界大会が残っています! ご覧のチャンネルで世界大会の中継もいたしますので、このヤングジャパンの世界への挑戦を一緒に見守ろうではありませんか! この年代の選手を松永さんが率いていた前回のアンダー十二の世界大会では、早々にグループリーグを突破しました。しかしカルロスを体調不良で欠いた途端に、次のベスト八で惨敗し「結局この年代の代表はカルロス頼みだった」と心無い悪評を被りました。ですが、この代表チームであれば見事にその悪評を払拭してくれることでしょう!」
アナウンサーの勝利に浮かれた脳天気な声に舌打ちしそうな表情を見せた松永は、心底忌々しそうな声で告げた。
「そうですね。世界大会に期待しましょうか」
「まったくです、大いに期待しましょう!」
なぜか両者の声のトーンが正反対の実況と解説者のコンビだった。