第五十七話 ボールを外に蹴り出そう
俺が観客席へ手を振り終わってもスタンドから伝わる熱気は収まらない。
自然発生的な「ア・シ・カ!」というコールの後には「ニッポン!」という叫びと手拍子が代表チームの後押しをしてくれている。ただ一つ不満なのは、なぜ俺のコールがアシカなのだ? 足利か速輝のどっちかでいいじゃないか。どちらとも語呂は悪くないはずなのだが。
どうにも「アシカ」と大人数で合唱されると、水族館で「芸をしろー」と要求されている哺乳類扱いみたいで頬が引きつる。
まあそんな些細な不満は試合後のインタビューまで取っておこう。勝利の後で、しかもそれが予選突破決定後のインタビューで呼び名について少しだけ不満を漏らせばみんな判ってくれるはずだ。おっといけない、その為にもまずはこの試合に集中して勝利を確定しなくては。
またもサウジ側からのボールで試合が再開される。
逆転されてしまったサウジアラビア代表としては、これまでのような引きこもってのカウンター一辺倒ではどうしようもない。自ら攻めなければならないのを覚悟しているのだろう、特にセンターサークルにいるFW達は悲壮感すら漂わせて立っている。
だが、俺からすればなぜかあまり怖く感じられない。山下先輩と一緒に倒れていた毒蛇がどんどんと体が縮んでいったような錯覚を覚えたのと一緒で、今のサウジアラビアのチーム全体からは何の脅威も迫力も感じられないのだ。
別に油断している訳でもない。だが、何と言うかすでに――そう「格付け」が終わってしまったかのようだ。
だからほら、ちょっと足を引きずって寄って来たこの毒蛇にしても、なんだかこの前の体育の授業で相手をした生徒達と大差ない程度の警戒感しか湧かない。
俺は少なくとも今日の試合において、これからこいつには一対一ではもう絶対に負けないと断言できる。後は死角からのファールにさえ注意すればいいだけである。冷静になれば俺はなんでこんなラフプレイしかできない奴にビビってたんだろう。
他の日本代表の面々も最低目標である勝ち越しに成功して、無駄にテンションを上げて燃えているだけではない。逆転したおかげで気合が入ったくせに頭は冷えているという良好な状態のようだ。サウジが人数をかけて攻めてきても、落ち着いた対処でしっかりとした防御をしている。
元々がサウジは堅守速攻のリアクション型のカウンターチームだ。自分達がボールを回して攻めるのは決して得意ではない。速攻ならともかくパスをつないでいこうとすると所々に粗が見えるのだ。
だからほら、今もまた明智が向こうの焦ったパスをカットする。
よし、日本の逆襲だ。まだ敵が上がり切る前のボール奪取だから、サウジのDFラインが浮いていない為に完全なカウンターチャンスにはならないのが残念だ。もしもう少し敵の攻撃時間が長くてDFラインが上がってくれれば、最終ラインの裏へ走り込む上杉にスルーパス一閃でほぼ片がついた。短い時間と手間の割に高確率で得点に結びつくコストパフォーマンスの高いダイレクトパスでつなぐハイスピードカウンターが試せたのだが。
だがこれは贅沢な文句でしかないな、速攻でも遅攻でも関係なくうちはサウジと対照的にボールを持っての攻撃で本領発揮するのだから。
明智がボールを確保したと見るや、俺はやや右サイドの位置からピッチの中央へと斜めに流れるようにダッシュする。前方で待っている毒蛇の奴を避けるような形だが、これまでの相手が怖いから逃げるという後ろ向きな理由ではなく、単に邪魔だからいない動きやすくスペースのある方へと場所を変えただけにすぎない。
だがこの程度の動きにさえ傷ついた相手はついてこれなかった。
俺を追おうと走り出した瞬間に毒蛇はつんのめったように倒れると、足を抱えてうめき声を上げたのである。馬鹿が! 衝突のダメージが残っている体で無理にダッシュをしようとするからだ。あの部位だとたぶん太腿の裏辺りの筋肉をやってしまったな。
それを尻目に明智から俺へのパスが通る。毒蛇が倒れているのは気がついているのは多くないようだ。ボールとは関係ない場所で、しかも俺が離れた後自分一人で勝手に転んだ格好なのだから反則が介在する余地もない。
審判はもしかしたら気がついているかもしれないが、倒れたのはボールを持ってないピンチに陥りかけたチームのこれまでラフなプレイをしかけていた選手だ。ワンプレイが終わるまでは日本のアドバンテージとして見逃してくれているのかもしれない。
どうする? 今なら完全にフリーで動けるが……。あああ、くそ。
俺は立ち止まると右手で倒れている毒蛇を指し示すとボールをタッチラインの外に蹴り出す。
別に格好をつけたつもりはない。倒れた相手をアピールしてからでなければボールを出しても単なるミスキックと思われそうで嫌だったからにすぎないしな。倒れた毒蛇を見て見ぬふりをしなかったのも、これだけ日本代表がフェアプレイに徹すれば相手も反則がし辛くなるはずだと計算をしたからである。全部審判と観客からの好意を得るためにした計算づくの行動で、別に敵の体を気遣っての事ではない。
その計算が正しかった証拠に観客席から拍手が沸き起こっているじゃないか。会場のほとんどを占めている青く染まった席だけでなくサウジサポーターの一角からも拍手が起こり、試合が開始されて初めての会場中が一体となった拍手だ。
思惑通りの結果になったのに、何だかサポーターをだましているようで居心地が悪い。担架によって運び出されようとしている毒蛇の奴も苦痛に顔を歪めながら、俺の方を向いてどこか物問いたげな瞳で見つめてくる。
ああ、もう! ピッチで誰かが倒れている状況を俺が見ているのが嫌だからボールを出しただけだ。たとえその対象がどんなに嫌な奴でも、無視してプレイを続けるのは我慢できなかったんだ。
そんな自己満足に過ぎない行為なんだから、お前は気にするなって。もし次にまた試合で会った時に俺にはラフプレイを止めてくれればいいだけだ。後、ついでに気恥ずかしくてたまらないからこの拍手も止めてくれないかな。
担架によって毒蛇が運び出されると、サウジ側からのスローインとなった。
向こうもこの雰囲気の中では自分達から攻撃はしにくいのか、ポンとうちのキーパーへとロングキックでボールを返してきた。カウンターではないですよと証明するようにその間はサウジの選手は誰も動こうとはしない。
日本のキーパーがボールをしっかりとキャッチして二・三回バウンドさせる。そしてロングキックで一気に中盤へとボールを送った。ここで儀礼的なプレイは終わり、再び世界への挑戦を賭けた戦いが始まる。
次にボールが外へ出てプレイが途切れるとサウジに新しい選手が入ってきた。どうやらさっき運び出された毒蛇との交代要員らしい。これで毒蛇はもうこの試合ではプレイできない。そこまで狙って同士討ちのトリックプレイをやったわけではないが、怪我の程度がひどくないといいな。そして反省して俺以外にも試合でのラフプレイを止めてくれるともっといい。特にこれから先またサウジと国際戦で当たる事になった場合悪質なプレイヤーがいると面倒だからな。
新しく入ってきた大柄な選手も中盤での守備的なプレイヤーらしい。つまりはほとんど毒蛇と役割は変わらないって事だ。
俺はサウジが開き直って大胆な戦術を変更しなかったのに胸を撫で下ろす。いきなりギアを変えられるとこっちもその対応を迫られるからな。今のいいリズムに乗ったチームをできればあまりいじりたくない。
そして、この新しく俺についたマーカーが毒蛇以上の選手である可能性はほぼないとも見切っていた。もしそうであるならば、最初からこの選手をスタメンにしているはずだからだ。ならばこいつより格上のはずの毒蛇でさえ止められなかった今の俺を止められるつもりか? 舐めるなよ。
早速ボールを要求しての一対一の舞台をお膳立てする。
ボールを持って正面から向き合い、俺が右肩を落とすと相手はピクンとそれに反応しかける。軽くボールを跨ぐと今度はそっちの方向へと重心を移そうとする。こいつはどうやら毒蛇よりもこらえ性がない積極的なボール狩りをするタイプだな。しかも途中出場とあれば少しでも結果を残したいと、少なからず焦りもある筈だ。
ならばと目の前で小刻みにボールを動かして相手を誘う。猫じゃらしで子猫と遊んでいるみたいだが、この手のタイプは必ず我慢しきれなくなって足が出る。
ほらやっぱり。
一際大きく動かしたボールにマークしている敵が奪い取ろうと足を出してきた。それをお待ちしてましたとばかりに逆をついて抜き去る。こういったディフェンスのくせに自分から動いてくれる奴は、俺みたいにテクニックとタイミングで抜くドリブラーにとってはいいカモでしかない。
邪魔者のいなくなった広大な中盤のスペースを一気に駆け抜ける。と、ここで残っていたサウジ側の中盤の底の番人に足を止められた。さすがにシュートを撃てるエリアにまでは簡単には侵入させてはくれないか。
ゴール前はと見ると、うちのシューティングマシンである上杉には二人のマークが以前よりさらに密着してへばりついている。両サイドの山下先輩と馬場も前にマーカーがいるな、パス一発で即座に得点のチャンスとはいかないようだ。
では後ろから上がってくる者に託すしかないか。
俺が右に目をやるとそこには予想通り島津が右のタッチライン沿いを猛然とダッシュして、今にもウイングの山下先輩を追い越そうとする所だった。
俺の視線に気がついたのかサウジのディフェンスが慌てて右のケアに動く。
遅いよ。
俺は自分が笑顔になっているのを自覚しながら、右サイドを走る島津へと顔を向けたままヒールキックで後ろのピッチ中央やや左へとパスを出した。
そこに走り込むのはこっちもオーバーラップしてきた明智だ。今回のアジア予選では俺と同じように中盤のゲームメイカー役、しかも俺の影になってくれている印象が強い彼だが、元々トップ下でも通用するだけの得点力も備えている。
明智のパワーと能力ならばこの位置からでも充分に射程圏内だろう。
サウジのディフェンスが落ち着く前に明智がミドルシュートを放つ。
伸びのある鋭いシュートがサウジのゴールに襲いかかる。枠内のいい所に飛んだシュートに、入ったかと俺も錯覚するほどの豪快なミドルだった。
だが忘れていたが相手のサウジのキーパーも、砂漠のアリジゴクとの異名をもつほどの選手だったのだ。ここまではどんなキーパーでも止められないようなシュートでの失点が多かったが、このミドルシュートには素晴らしい反応を持って叩き返した。
ここでサウジと敵キーパーにとって不幸なのは、うちには一人ゴール前でのこぼれ球を押し込むスペシャリストが居た事だろう。
二人のマークに囲まれていたはずの上杉が、なぜか誰よりも早くルーズボールへ飛び込んでそのまま無人のゴールへ押し込んだのだ。
いわゆるごっつぁんゴールだがなんで上杉が一番先にボールに触れるのか、遠くから鳥の目で見ている俺でさえ良く判らない。
あいつは絶対に味方のシュートも全て自分へのパスだと思い込んで行動しているに違いない。俺からのスルーパスを受けるアクションと味方がシュートを撃った後のアクションが、ゴール前に飛び込むという点ではほぼ同一なのだ。味方のシュートに対しては見守るんじゃなくて「これはこぼれ球をワイに入れろって合図やな」という解釈をしているようだ。
だからたまにゴールした仲間に向かって「何でワイじゃなくてお前が点取ってるんや!」という理不尽な怒りを振りまいているのだろう。
とにかく得点そのものは上杉に持っていかれたが中盤の相棒とのコンビネーションも上手くつながり、うちのエースは「二点目だぞ、コラァ!」と誰に向かってか判らないがキレた状態で虚空に向けてシャドーボクシングをしている。
あ、俺の目には見えない相手をKOしたのか上杉がそのまま両手を掲げたな。ガッツポーズを取った上杉に対して観客席からまた盛大な拍手が打ち鳴らされた。
かなり騒々しいが、これ以上ない状態で前半を終える事ができそうだ。