第五十四話 試合の入りは慎重にしよう
ピッチに入ると柔らかな芝を踏みしめて大きく息を吸っては吐き出す。海外の試合会場を経験して一層感じるのは、日本のピッチは芝も空気も雰囲気までもが全部柔らかいという事だ。
そのままぐるりと首を巡らすと、ほとんど青一色に染まった観客席が目に入った。フル代表ならともかく、この十五歳以下という年代別の代表が会場にこれだけサポーターを呼ぶのは珍しい。さらに言えば、これまでのアジア予選の試合もテレビ中継での視聴率は好評のようだ。
なぜかというとこの山形監督率いる若い日本代表チームは得点も失点も多いために、ニュースで取り上げる場合はハイライトシーンを編集すると盛り上がる場面が多く、スポーツコーナーでも繰り返しの映像ではなく沢山の新鮮で良いゴールシーン提供してくれると人気らしいのだ。
さらに攻撃的に傾きがちなチーム編成が会場に来たサポーターやテレビを見たファンから言わせると「危なっかしくて自分達が応援してあげなくちゃって気になるチーム」って評判のようだ。
おかげでサッカー協会からはともかくマスコミからは数字が取れるかもしれないチームとして注目され始めて、取材やインタビューでも段々と態度が柔らかくなっているそうだ。まあここまでの情報は全部明智からの受け売りであるが。
なんにせよ俺たちを応援してくれる人が多いのはありがたいし、その期待に応えたいと思う。この会場まで足を運んで応援してくれているサポーターの中に、クラスメイトや真に母までもいるならば尚更だ。
静かに血をたぎらせているとお互いのチームが集められて、メインスタンド側に向けて整列させられた後で国歌が演奏される。こんな風に代表の奴らと一列に並ぶと俺と島津が特に背が低く見えて少しだけ嫌なんだよな。俺が低いんじゃなくて、他のチームメイトや相手チームが年上で大きすぎるだけなんだが、客席やテレビの前の方は判ってくれているだろうか?
さて、ゆったりとしたテンポの君が代は他国のマーチのような国歌と違って、戦う前に流されるとテンションが下がると言う人もいる。しかし、俺はかえって落ち着ける分いいと思っている。これ以上精神状態が高揚したら勝手に暴走しそうだからな。
気を静めるためにそっと瞳を閉じる。うん、目をつぶっていてもピッチ上の隅々まで手に取れるように脳裏にイメージが描かれている。鳥の目にしてもアップ中に確かめた体のキレにしても、中国戦での良い感覚を引き継いでいるみたいだ。
国歌を聞きながらも、次第に鼓動が高まり自然に筋肉が踊り出したくなっている。もう少しだ、もうちょっとだけ待て。審判が開始の笛を吹けば――。
審判が試合開始の笛を吹き、日本ボールでキックオフされた。
開始してすぐに相手チームのどのポジションの人間がどのように動くか見極めるのは、敵の戦術を見破るのに非常に役に立つ。ましてや俺はピッチを上から眺めたように相手の動きが把握できるため、多分誰よりも早く敵の行動に気がつけるのだ。そして一番最初に敵チームがオーソドックスではない変わった動きをすれば、それが敵にとっての戦術的な最優先事項だと判断できる。
そういう意味ではサウジアラビアの最初の動きは俺にとって最悪の物だったと言える。
敵の中から飛び出した毒蛇がまっしぐらに俺へと突進してきたのだ。
――つまりは俺を潰すのがサウジにとっての真っ先にするべきことなのかよ!
舌打ちするが、今は手の打ちようがない。敵がマークを張り付けてきただけであってまだ反則も何もされていないのだ、即座に排除する手段は見つからない。
明智に視線だけで「嫌な奴にマークされた」と伝えて前へ出ようとする。前回の対戦時と違いここはホームコートである。日本に有利な笛、とまでは言わないが公平なジャッジが期待できる。同じファールされる危険があるならば、前へ行ってフリーキックでゴールを狙えるチャンスをもらえるゴール前のポジションの方がいい。
俺がポジションを上げようとすると毒蛇の奴が前へ立ちはだかる。まるで「ここから先は通行止めですよ」とでも言いたげな薄い笑みが俺を苛立たせる。
いきなり前へ出るとこいつが過敏に反応して余計な反則をしてきそうだ。序盤でつまらない怪我で退場したり余計なダメージを負うのは不本意である。パスを交えて明智とのコンビネーションも利用しつつじっくりと居場所を上げていくしかないか。
そこで俺は中盤の底でボールを回しながら攻撃のスイッチを入れる瞬間を見定めていた。サウジアラビアは引き分けでも予選突破が決まるために無理に攻めようとはせず、自分達の陣型を崩さない程度にしかプレスをかけてこない。唯一の例外が俺にべったりと張り付いたこの毒蛇だけだ。
しかし、こうしてお見合いを続ける贅沢は今の日本代表には許されていない。
マークしている相手も迂闊にファールできないほどボール離れを速くした何度目かの明智とのダイレクトでのパス交換から、いきなり右のタッチラインを元気よく上下している島津へとロングを蹴ってアクセントをつける。
島津の場合はサイドバックでありながら上下するのは攻撃と守備に走り回っているのではなく、攻撃しようとオーバーラップしてはその後にくっつかれたマークを剥がそうと下がっていくというウイングの動きとしか思えないアップダウンだ。だがその積極性がここでの彼へのパスコースを生んだ。
俺からのロングキックで一瞬毒蛇の視線がそちらに動く。よし! 機を逃さずに俺もギアチェンジしてぐいっと前進する。慌てて毒蛇も防ごうとするが、一拍動きが遅れた分と先に俺がいいコース取りをしたせいで、もう俺の背中を見ながら追うぐらいしか手はない。俺の体は今日もキレている、これならば活躍できそうだ。
ハンドサインで「上がれ」と後ろの連中にもオーバーラップを促す。
俺のダッシュに気がついた島津がすぐに中央へと折り返す。いつもはサイドを深く抉るか、ゴール前への突破かの二択のしかないドリブラーであったはずの島津のあっさりとしたリターンパスにサイドへ開きかけたサウジ側のディフェンスが僅かに混乱する。
いける! 島津からのパスを左足でトラップしようとした俺は、その時に右足にこつんとした軽い衝撃を受けた。
毒蛇の奴が後ろからちょっかいをかけてきたのだ。アタックそのものは強い物ではなく、体感的にも接触したと感じ取れる程度の痛みも伴わない、いくら日本のホームでも反則には取ってくれないちょっとしたものでしかない。
だが俺の体は総毛立ち筋肉が硬直した。
無意識の内に呼吸が止まり、背中から冷や汗が滲む――あれ? 今どうなったんだ俺の体は?
はっと気がつくとトラップし損ねたボールが自分の体から転々と離れていく。うわ、あんなイージーパスを受け損なうのって二回目の人生になってからは初めてじゃないか。思わぬミスに呆然としている暇もない、追いかけようとする俺より早く毒蛇はルーズボールへとスタートを切っていた。
彼はボールを奪取した途端に大きく前線へとパスを送る。
まずい! 俺がボールを持って前へ行くとなると日本の陣形は前掛かりになるのだ。前戦の中国以来、トップ下近い位置で俺がボールを持つのが日本の攻撃へのスイッチになっている。
俺のボールキープ能力を信頼してくれた結果、チーム内での約束事の一つになったのである。だが、今回に限ってそれが裏目に出てしまった。この俺がトップ下にいる状態でボールを奪われるなんてアジア予選においてはほとんど初めての事態だ。これまではゴールか悪くてもフィニッシュまで持っていけたのに、だ。
その為に中盤の明智やDFまでもラインを上げて前線にオーバーラップしようと突撃体勢に移行しかけた日本代表の陣形が、想定外のサウジの一本のロングパスからのカウンターに崩壊していく。
毒蛇からのハイボールを、武田と競り合ったポスト役が頭で守備の薄い場所へリターンパスする。
敵のエースであるモハメド・ジャバーがそのパスを受け取るが彼をマークしている日本のDFがいない。武田は最後尾でヘディング争いをしている最中だし、もう一人のマーク役である日本の中盤の底を守るアンカーは俺と明智に島津まで上がったせいで広大なスペースを埋めようとマンマークから移動を開始したまさにその時だった。
結果、サウジで最も警戒すべき男がこの瞬間にフリーで動けるようになってしまったのだ。
千載一遇のチャンスを逃すほど砂漠の鷹のモハメド・ジャバーはお人よしではなかった。日本にとって危険な地域でボールを持たれたとみるや、真田キャプテンをはじめ他のDFが殺到する。
だがサウジのエースストライカーは落ち着いて二・三歩ステップを踏むと、自分の得意の角度とシュートコースを確保してその左足を一閃させる。
――前半六分、日本失点。
大勢が詰めかけているとも思えないぐらい静まり返る会場の中、観客席の一角のみで歓声とサウジの旗を振りまわされているのを見て「ああサウジのサポーターも来てたんだ」とどこかぼんやりとした感想が浮かぶ。
今のは言い訳のしようもない俺のミスからの失点だ。後ろに毒蛇がついたのは鳥の目でもはっきりと確認して危険なファールをされないか用心もしていたのだ、なのになぜかあいつに反則とも言えない程度の強さで右足を触られた瞬間に体が急に硬直してしまった。
そして気がついたら相手のカウンターが始まっていて、毒蛇のロングパスから始まる高速の敵の攻撃には敵陣まで攻め上がっていた俺にはもう手の施しようがなかったのだ。
日本のゴール前の守備が甘かったと言われれば反論のしようがないが、俺があの位置でボールを持ったらリスクがあっても攻撃参加のゴーサインだと判断しているうちの守備陣では今のタイミングでのカウンターは防ぎきれない。
一体どうしちまったんだ俺の体は?
「どうしたんだ? アシカのあんなミスは初めて見たぞ」
「確かに珍しいっすね。トリッキィなプレイスタイルの割に安定度が高いのがアシカの売りなんすけど、どうかしたっすか?」
「あ、いや……」
真田キャプテンと明智の問いについ口ごもってしまう。自分でも今のミスの原因は良く判っていないのだ。技術的な失敗ならば鳥の目を使って自分のプレイを客観視できる俺ならば自覚できる。だが今のは頭が真っ白になって体が硬直し、気がついたらボールを奪われていたのだ。もしかしたら……。
「アシカ、お前毒蛇の奴にビビってるんやないやろーな」
ずばりと上杉が切り込んできた。
「そ、そんなはずないじゃないですか!」
反射的に虚勢を張ってしまったが、なぜか声が裏返ってしまった。ま、まさかそんなはずない……よな?
まるでタイタニック号が氷山への衝突で航海が終焉したように、俺が毒蛇相手にビビったせいで日本がアジア予選で敗退するなんて、そんなことがあるはずないよな!?