第四十八話 ピッチに虹をかけよう
敵ゴール前になぜか日本のDFである武田を発見してから、島津がセンタリングを上げるまでの短期間に俺の頭は猛烈に回転する。
戦況、フォーメーション、現在の選手配置。それらを平行して考えて出した結論は結局「とにかくこのセンタリングをゴールに結びつけろ」というごく普通の答えでしかなかった。
もしもこのボールを相手に確保されれば、楊対策の長身DFである武田を抜きにして中国のカウンターを喰らうことになる。例え真田キャプテンが最後の砦として最終ラインに控えていてくれたとしても、空中戦ではあの巨人を絶対に止められるかと言うと疑問符が付いてしまう。
ここでゴール――もしくは最悪でもシュートで終わらなければ、中国のカウンター攻撃によって逆に日本のゴールが引いては日本の予選突破が危うい。
背筋に冷たい物が走り、恐怖で身が竦みそうになる。ええい、そのぐらいは覚悟の上で青いユニフォームを着ているんだろうが。今更びびるんじゃない。
自分を叱咤すると、俺は身を翻しニアサイドから後ろへ下がる。これは腰が引けたのではなく、センタリングの軌道が自分の上を通過すると確信したからだ。俺と中国のDFとの身長差を考えるとゴール前での空中戦には加われない。むしろ下がってこぼれ球を狙うのがセオリーだ。
島津が放ったセンタリングは普段シュートばかりで滅多にクロスを上げないサイドバックとは思えないぐらいに正確なボールだった。ゴール正面のやや遠目、ペナルティエリアぎりぎりの地点で待っている武田にピタリと照準が合っている。そこならばキーパーも飛び出すのに躊躇する厄介なポイントである。
日本のFWであるポストプレイヤーもゴール前にはいるのだが、こちらは敵のDFが密着マークしてより良いポジションを取ろうと互いが体を寄せあっていた。どう考えてもフリーの武田に撃たせた方が得点になる確率は高い。
だがそんな難しい地点へのセンタリングにも関わらず中国のキーパーは勇敢にも飛び出した。もしくは楊みたいなヘディングの得意なFWと練習しているのでDFを頼りにせず、ハイボールには自分が出るのが癖になっているのかもしれない。
武田がジャンプしたその頭上にキーパーの拳が伸ばされる。さすがにヘディングには自信があって楊とも渡り合える武田でも、最高到達点では手を使えるキーパーには敵わない。キーパーのパンチングによってセンタリングは弾き返された。
この場合におけるこぼれ球のコースを予想するのは俺には容易だった。キーパーと競り合う武田、それにセンタリングの軌道を読めば答えも弾き出される。
武田の頭を狙ったボールはゴール正面、それに飛び込むキーパーにも時間的余裕がなく一直線に武田へと向かっている。そしてボールと接触する際、キーパーはパンチングで弾く拳を反射角度まで考えて動かすのは不可能だ。
敵の頭の上に手を伸ばしてでもクリアしようとしているのだ、下手に動かして空振りなどすれば相手の頭に当たりヘディングシュートをされてしまう。安全第一だと手首までしっかりと固定してパンチングするに違いない。
野球でいうならバットを振り回すのとバントのように止めて微調整するのと、どちらがボールに当てやすいのかといった問題だ。万が一にも空振りできないキーパーはリスクを最小限にしようと拳をできるだけ動かさずにセンタリングのボールにぶつけるはずだ。となると跳ね返るボールはほぼ直角、やや勢いに押されて左に流れるといった所だろう。
俺は島津のキックを見た瞬間に鳥の目から一番ありそうな未来を予測した。出た答えは現実とどんぴしゃりに符合し、想定通りにゴール正面の武田とキーパーからさらに数メートルピッチ中央に戻った場所にキーパーが弾いたボールが落ちてくるはずだ。
つまりは、ここである。
ニアサイドから全力で戻った俺が一番最初にたどり着く。そりゃそうだ、俺は他の奴みたいにキーパーのクリアしたボールを見てから駆け付けたんじゃない。センタリングが上がった瞬間「ここに来る」と勝手に決めて迷わず一直線に走って来たんだ。もちろん外れる可能性も相応にあったが今回は見事に山が当たったな。
ピッチ上の選手から見れば「なんでクリアされる場所が判った?」と驚いているかもしれないが、むしろ観客席やテレビの視聴者がゲームのようにコントローラーで選手を動かせるなら、俺がダッシュしたように動かすのではないだろうか。それぐらい客観的にピッチ上での出来事を眺めて効率的な行動を選択できていた。
それでも時間の余裕はない。俺はボールに追いついたとはいえゴールに背を向けたままで、ここは敵の集まりやすい場所だ。周りからは不可解な動きでマークを引き剥がしたとはいえ敵のDFが寄ってくるのは時間の問題、それどころかもう数メートルのところまで接近している。これでは立ち止まってトラップした後にターンしてからシュートを撃つなどできはしない。
だが、中国のキーパーは今現在、ペナルティエリアを出るかどうかという所まで前へ出過ぎているんだ。このチャンスを逃すのは惜しすぎる。
ならばパスを出すか? 残念ながら味方の攻撃的選手は全てセンタリングに備えてゴール前の空中戦に参戦してしまっていた。あんなに混雑した中へはさすがに俺でも振り向かずにヒールでは通す自信がない。なにより、もしそのパスをカットされれば日本の守備は楊のマーカーがいない状態でカウンターを喰らってしまう。
バックパスであればどうだ? これ以上守備の人間を攻撃参加させるのは不可能だ。
ではこれしかない。
俺はルーズボールが目の前に落ちて来てもスピードを殺さずに、むしろ加速してその下をくぐるようにスライディングをする。
高速で尻を芝の上で滑らせながら、自分の頭上に落ちてくるボールを背後に向けて力よりも繊細なコントロールを優先したキックを撃った。
今日は一度も俺の期待を裏切らない右足が軽く空を切り裂いてボールの中心を捉えると、ふわりとボールが山なりの軌跡を描いて俺が脳内でイメージしたコース通りに飛んでいく。
仰向けになった視界が青空に包まれて、その中をボールだけが柔らかな曲線で動いていった。
スライディングしながらのオーバーヘッド染みた背後のゴールへの特大ループシュート。
鳥の目によって振り返らずとも脳内にゴールのイメージ映像がある俺だから正確に狙えた。
キーパーがペナルティエリアから飛び出しそうなほど前で武田が空中戦をしてくれたからループシュートでも良かった。
こぼれたボールをダイレクトで撃ったからこそ他の中国DFが手出しする暇がなかった。
これだけの距離でもコントロールできるボールの芯を撃ち抜く技を手にしていたからこそ自分でシュートを撃つ選択肢を選べた。
俺の今持っている技術と経験を全て乗せたシュートだ。
後はもう、祈るぐらいしか出来る事はない。
――行け。
青い空を飛ぶボールに向かって拳を突き出した。
◇ ◇ ◇
DFである武田の突然のオーバーラップに最も驚いたのは、日本代表ベンチに座っていた山形監督だろう。サイドバックの島津が上がるのは許可していた。そうでなければあの少年は役に立たないのだから。そして勝つためには賭の要素も必要とされているのも理解していた。だからこそまだ万全とは言い難いアシカを投入したのだ。
だが、残り時間が少ないとはいえ相手チームのエースをマークするべきDFまでもが敵ゴールに迫るのは想定外だった。
しかし、今となってはもうベンチを立ち上がり大声で怒鳴っても間に合わない。島津の上げたクロスを何とか得点に結びつけてくれと願うだけだ。だが、その願いは勇気を持って飛び出した敵キーパーの拳で破られてしまう。
嘘だろう? このままではカウンターの餌食になってしまう! そう悲鳴を上げかけた山形の目に小柄なゲームメイカーの姿が映った。
あれ? アシカはさっきまで中国のゴール前にいなかったか? 寸前の記憶が怪しくなるような不思議なルーズボールへの追いつき方だ。
しかもそのまま敵DFに囲まれるかと思いきや、滑りながら真後ろへと変形のジャンプしないオーバーヘッドキックのような格好で真後ろにボールを蹴ったのだ。
アシカの蹴った真後ろには何があった? そうだ、キーパーが前へ飛び出して無人の中国ゴールがぽっかりと口を開けているのだ。
――入れ!
気がつくと山形のみならず日本のベンチにいる全員が立ち上がり叫んでいた。
こちらがじりじりとするほどゆっくりと落下するループシュート。慌てたようにゴールへ向けて走り出す中国選手。
ピッチの中で二つの異なる時間が流れているようだったが、あれだけ緩やかに見えたボールの方が先にゴールへとたどり着くとゴールネットを優しく揺らした。
審判もボールの行方をじっと見守っていたのか、ゴールラインを超えるとすぐに得点のホイッスルを鳴らす。
呼吸を止めて拳を痛いほど握りしめてループシュートの行方を確認していた山形は、叫ぼうとして咳こんだ。ずっと息を詰めていたのを忘れていたのだ。それほど真剣に空中を漂うボールを見つめ、ゴールすることを願っていた。
ゴールマウスに吸い込まれたボールに間に合わなかった中国のDFが、自分もゴールの内側からゴールネットを掴み顔を俯かせている。
その下を向いた顔と時計で残り時間確認した山形監督は握りしめていた拳を解いて肩からは力を抜いた。残り時間は三分、長めのロスタイムを入れても逆転はされないだろう。そして中国にとって引き分けでは意味がないこの試合に対して、逆転がないと悟ってしまった彼らにはもう自分達を奮い立たせる材料はないはずだ。
これで決まったな。
油断するつもりはないし、チームの他の奴に聞かせるつもりもない。だが山形監督は試合の勝敗がこの時にすでに決定され、覆ることはないだろうと確信していた。
ピッチ上で横たわったまま、姿が確認できなくなるほどチームメイトに抱きつかれて覆い被されたアシカのおかげだな。
今はまるで人間ピラミッドで崩れた土台のように埋まっているようだが、あいつを後半投入したギャンブルは最高のリターンをもたらしてくれたのだ。
さてと、では試合が止まっている今の内に、手早く最後の交代の準備をしよう。疲れの見える明智と山下の代わりに守備的なボランチと右サイドのサイドバックを入れるのだ。そして島津には位置を縦にスライドさせて山下のポジションである右のウイングを任せればいいだろう。
選手を入れ替える事で時間を消費し、さらにフレッシュな守備的選手に残り時間を目一杯走り回らせる。これで中国の得点チャンスが激減したはずだ。後は武田に「楊からもう離れるな」と命令すれば万全だろう。
交代の手続きを終えると山形監督はようやくさっきのアシカの特大ループシュートを思い返す。「俺の左足でピッチに虹をかける」と言った名選手が過去にいたが、アシカのシュートは本当に虹のようだったな。
そう言えば中国では虹は不吉とされていたっけ。髭面を少しだけ綻ばせる。確かに中国チームにとってはあのループはさぞ不吉だったろう。
――そして試合は山形監督の予想通りに、そのままのスコアで幕を閉じたのだった。