第四十六話 DFの意味を考えよう
同点ゴールを上げた俺はチームメイトからの祝福を受ける。その嬉しさと手形で頬と背中を赤くしながらも、笑顔で観客席の日の丸と青で染められた場所へ手を振った。すると、その一角だけがまるでスタンドが生きているように旗やタオルを振ってくれて反応するのが楽しい。ま、今の俺ならば大抵の物を見ても楽しいんだけどな。
山下先輩からシュートを決めた後の台詞に「格好付けすぎだ!」としっかり紅葉を背中につけられたが、せめて得点した時ぐらいは見得を切らせてほしいぞ。そうじゃないと格好を付ける場面がないじゃないか。
そんなにやけた顔を隠せない状況だったが、ベンチと観客席に一通りガッツポーズをするとさすがに落ち着いてきた。もちろん胸の奥にはまだ歓喜の残り火があるが、とりあえずは過度の叫びたくなるほどの興奮は治まったのだ。
ああ、やっぱり試合に出るのは楽しいなぁ。
まだ頬が緩むのを抑えきれていない俺だったが、それでも敵チームと観客席からの刺々しい雰囲気を感じて頭が冷えてくる。
センターサークルにまたボールがセットされて中国からのキックオフで始めようとするが、彼らから殺気染みたものが発せられているのだ。
彼らもこの試合と最終戦に勝ってその上で日本がサウジに大差で負ければ、グループ二位になれる可能性がまだ僅かとはいえ残っている。さらに穿った見方をすれば地元の試合で中国が日本に負けるなど許されていないのだろう。スポーツではなく格闘技の試合のような雰囲気だ。
まさかサウジ戦の時のような肉弾戦が行われるのかと、完治したはずの右足がぴくりと疼く。
中国ボールで開始された途端、これまでとは別のチームに変化したような勢いで相手が襲い掛かってくる。
具体的にはロングボールを日本のゴール前で張っている楊の頭へ集め、それが防がれたらこぼれたボールの確保に動く。首尾よく中国選手がボールを持てればまたゴール前に放り込み、もし日本選手がこぼれ球を拾えば全力でプレスをかけて奪いにくるというシンプルな作戦だ。
当然島津が上がりっぱなしの日本の右サイドも攻撃をかけるターゲットになっているが、俺と明智にアンカーの三人がローテーションでそのスペースを見張っている。全員が甘いボールはパスカットしようと狙っているので、かえって敵としてはそこからばかりではタイミングを読まれそうで使い辛いみたいだ。
むしろ中国はお得意の、どこからでもボールを持った敵にプレッシャーをかけるハイプレスで日本の陣地内のボールを奪いたがっているようだ。
この試合はどちらも「勝たなければならない」試合であって引き分けでは意味がない。これは意外と国際試合では珍しいのだ。よく「絶対に負けられない戦い」というのは聞くが、「両チームとも時間内に絶対に勝たなければならない」のは少ない。これは引き分けが狙えない、つまりトーナメントのようにも思えるが少し違う。トーナメントのように力の劣るチームがPK戦に持ち込むために守りきるという手が使えない事を意味しているのだ。
こんな風に引き分けでもいいと考えずにお互いが全力で勝ち点三を奪い合うのは両チーム共にリスクが高い。だからこそ、普通とは少し違う戦術も使われる。
中国がロングボールを放り込むのはただFWである楊の制空権を闇雲に信じているだけではない。例え彼がフィニッシュまで持っていけなくても、そのこぼれたボールを持った日本人選手に対してのプレスを敢行し、高い位置から反撃するショートカウンターを狙ってくるのだ。
下手に自分達でボールを運ぶより、こっちにボール渡して日本陣地内でパスを回させてからそれを奪った方が日本のDFが崩れている分カウンターでより決定的なチャンスになると計算しているのだろう。
この「相手にボールを渡す」という作戦は前提条件が幾つかある。
まずは相手がパスをつないで攻撃するチームである事。そうでなければ互いにロングボールの蹴り合いになって、非常に低いレベルでのカウンター合戦になってしまいメリットがないのだ。
そしてもう一つは相手が絶対に攻めてくる事だ。もし相手がリードしてこれ以上攻める必要がなかったり、引き分けでもいいというチームならば向こうも守備を崩さないのだからカウンターが成立しない。
だが日本は引き分けが許されずにまだ同点という状況だ。この相手が誘っている作戦だと判ってはいても攻撃しないわけにはいかない。パスサッカーを標榜するチームがこの荒れたピッチの上をパスでつないで、だ。
その上どんどん敵チームの俺へのプレッシャーが厳しくなってきた。一点目を決めてから常に動向をチェックされている。
でもホームでの中国戦を考えると、俺が出てきたらすぐにマンマークがつけられても仕方がないと覚悟していたからゴールをするまではマークが甘かったのは嬉しい誤算だった。やはりサウジ戦での俺の退場シーンを見てアジア予選期間中に復帰は無理と判断して指示が遅れていたのかもしれない。
まあそんな訳で俺は相手がカウンターをかける気満々のどこからでもプレッシャーをかけてくる戦術をかいくぐり、慣れない荒れた芝の上でエースストライカー抜きの攻撃陣を操って、マンマークを引き連れた状態で最低でも後一点を取らねばならなくなったのだ。
全くもうこれだけ厳しいと、逆に楽しくなってくるぜ。さっきまでの緩んだ笑みではなく緊張で唇が吊り上る。
そう思っている間にもまた中国が中盤の底からロングボールを最前線の楊に託そうとする。しかしこのボールはちょっと狙いが甘すぎた。ゴール前に届く前にうちのアンカーがヘディングで跳ね返す。
その日本陣地内でのルーズになったボールを求めて敵味方がわっと集まる。
もちろん俺もその一員であり、マークしている相手よりも一歩だけ早くボールの落下地点へ入れた。
俺がマーカーの先を行けたのは鳥の目による空間把握だけではなく、相手側の事情もある。マークしている相手はボールのみならずついている相手を警戒しなければならないからだ。俺は別にくっつかれているこいつに注意を払ってやる義理はない。毒蛇からの苦い教訓で悪質なファールは受けない様にだけはしているが、それ以外の動きは無視しても構わない。
だが、マークをしている相手は俺を見てさらにボールの行方も確認しなければならないのだ。反応が一歩遅れるのも道理だろう。
俺がボールを拾って前を向く、その瞬間に敵マーカーがぶつかってきた。くそ、今は警戒をしていたがターンする最中にはどうしてもプレイ速度が落ちる。そこにショルダーチャージされた上にその後に手で押されてしまっては立て直しようがない。不覚だがバランスを崩して芝に手を突いてしまう。
そこに甲高い笛が響き審判が走りよってくると、俺を倒した相手に身振り手振りを交えた注意をして日本のフリーキックだとセットする場所を指さす。
おお、今のファールを取ってくれるか。なんだかごく普通の真っ当なジャッジに少し感動してしまう。前半からそう感じていたのだが、この審判はホームの中国を露骨には贔屓していないぞ。
この審判はどうやら信頼できそうである。この場合の「信頼できる」というのは日本に有利な判定を下すと言うことではない。公正でぶれのない判定を下すというのが信じられると言う意味だ。
日本側からの抗議で審判の質が上がったのか、それともサウジ戦の映像を見たFIFAからの警告がきたのかは判らないが納得できる範疇のジャッジをこれまで続けてくれている。そのせいでホームにも関わらず中国チームは強引に攻めてはこないのだ。
これならいける。
俺は少々下品だが舌を出してぺろりと上唇を舐める。これならレベルアップした俺の試運転には最適である。
立ち上がると軽く屈伸した。よし、痛みも違和感もミサンガに異常も何もない。強いて言えばピッチに突いた掌をすりむいたぐらいだが、こんな物は怪我のうちに入らない。体調はまだまだ万全だ。
だが、俺は少しだけ屈伸をする際に右足をかばう素振りをしておいた。フリーキックがセットされてその場から前へ上がる時もわざとゆっくりとしたスピードで歩いていく。
え? 肩をぶつけたなら足なんか怪我してないだろうって? まあいいじゃないか。
さてこの程度の小細工に引っかかってくれるだろうか? 日本チームには俺の小細工好きがばれて、まるで心配していない人間もいるようだが、俺についての情報の少ない中国ならどうだ?
――引っかかってくれた。
俺は明智がフリーキックで前線にパスを上げる瞬間に全力でダッシュする。マークは俺が足を痛めたと思っていたのか完全に油断して目はフリーキックのボールを追っていた。視線を戻した時に俺が消えていてさぞ驚いただろう。
ちょっとせこいが、こいつは倒した後に足を痛めた演技をしたら心配するどころか一瞬喜びを表しやがった。こんな奴を騙してもかまわないはずだ。
まあ今はそんな些細な罪悪感などを気にしている暇はない。
俺が目指しているスペースはさっき得点を決めた地点よりはやや手前だ。そこは本来二人の中国人ボランチが埋めるべきスペースだが、その二人の内一人はフリーキックを蹴った明智につき、もう一人はマークしていた俺から振りきられている。
明智からのキックはゴールからやや離れたポストプレイヤーの頭に正確に合わせられていた。
ゴール前ではないからか敵DFのマークはやや緩く、ぎちぎちに張り付いているというよりシュートを撃たせないようにFWを振り向かせない事を優先している。その分リターンパスは出しやすい。
ジャンプの最高到達点でボールを捉えると、ヘッドで俺へと折り返してくる。このパスに対してのアクションに時間はかけられない。外したマークや他のDFの反応が鋭いため、俺がフリーになっていられるのは秒針が一回動く間ぐらいだ。
だからそのボールをアウトサイドでダイレクトで弾き返す。
もちろんシュートではない。ゴールを狙うには少し遠すぎる。さらに明智のアシストみたいに正確でスピンもかけていない素直なパスならともかく、空中からの折り返しを吹かさずこの距離をシュートするなら今の俺でもトラップが必要だ。
だからコントロールよりタイミングを重視したパスを送ったのだ。
精一杯跳躍して今ちょうど着地したポストプレイヤーとそのマーカーは、足元のすぐ横を通過するパスに反応できず見送るしかない。うん、その動けないタイミングだからダイレクトで出したんだもんな。
このパスに反応できるのは、俺が足を痛い振りをしていたのが三味線を弾いていたと判断できていた奴。つまりあんたぐらいしかいないんだよ山下先輩!
ペナルティエリアより少し前のポストプレイヤーの足元を通過したパスだ。当然受け取るのはエリアの中になる、シュートするには充分な位置だろう。
だが俺の予測よりほんの少しだけ中国のキーパーが速く前へ出た。体を投げ出すようにシュートを撃つ山下先輩に飛びかかったのだ。
キーパーが大きく広げた手に先輩のシュートがぶつかり、ボールはゴールマウスを逸れる角度で転々と転がる。そのままだと後少しでゴールラインを割ってしまう、コーナーキックかと俺でもそう思った瞬間、弾丸のような猛スピードでスライディングする少年がいた。
その突撃した島津が外にこぼれかけたボールを強引にゴールに押し込んだのだ。
いや、お前フリーキックの時は俺より後ろにいたよな? それなのにこの小さくてDFのはずの少年は、いつの間にか味方チームのFWどころか敵のキーパーでさえも追い越していたのだ。
まさにカミカゼ。日本一攻撃的なDFの面目躍如といったプレイである。
だが、スピードが乗りすぎていたのと角度がまずかったのか島津はスライディングのまま止まれずにゴールポストに衝突してしまう。
げ、かなりの速度でぶつかったが大丈夫か?
「おい島津、大丈夫か?」
「島津さん、怪我はないですか」
近くにいた山下先輩と俺が衝突したままポストにしがみついた格好になっている島津に駆け寄るが、彼は「大丈夫だ」と答えるより先に咳き込んで一つの質問をした。
「今のは俺の得点だな?」
俺達ははっと顔を合わせると、審判の方を向く。まさか理不尽な判定で――例えば山下先輩がキーパーチャージしたとか――でゴールを取り消されたりはしないよな?
俺達の願いが通じたのか、審判は高らかに笛を吹き、日本が勝ち越しのゴールを挙げた事を宣告する。
「ふふふ」
不気味な笑いが足元からして、ぎょっと見つめると島津が芝の上で寝転がったまま笑って拳を突き上げていた。
「ふふふ、超攻撃型のサイドバックの威力を見たか。批判している連中に目に物見せてやったぞ」
ああ、ゴールポストにぶつかった痛みは大した事はなさそうだ。島津はこんなに嬉しそうに笑えるのだから。
それに思ったより島津もマスコミなんかの批判を気にしていたようだ。しかし記事の中で彼が謗られていたのは守備力であって、攻撃力ではなかった。だから得点しても、たぶんその評価は覆らないんじゃないかなぁと俺が考えたのは秘密だ。
今ぐらいは純粋に祝福しなくちゃいけないよな。これは決してさっきの俺の得点後の意趣返しではない。
俺は彼を助け起こし、こっそりと背中に目標を定めて平手を振り上げる。
「ええ島津さん。貴方は最高の攻撃的サイドバックですよ。ふん!」
バチン。それはゴールを告げる笛と同じぐらい良い音がした。