第四十五話 挨拶はきちんとしよう
俺はピッチ上へ出ると大きく息を吸った。
うん、日本のピッチとはまたどこか一風変わった匂いがするな。日本の芝の香りはどこか柔らかな感じがするが、ここ中国では緑の芝の香りでさえもどこか尖っているような気がする。たぶんこれは実際に俺の鼻が嗅いでいると言うよりは、頭で作ったイメージの問題なんだろうが。
実際には中国のピッチはサウジアラビアの荒れた芝に比べると意外と整っている。まあこれについては砂漠に近い気候のサウジでは比べては可哀想だ。しかしこれは朗報だな、日本のような几帳面さで整備はされてないが、芝がはがれて地面が露出している部分がないだけでも安心できる。
そしてここにも、またたぶん世界中のどこのピッチの上でもサッカーの香りが漂っている。ただそこに立って呼吸しているだけで血の温度が上がりそうな俺の大好きな刺激的な香りである。
その芳香を胸に一杯吸い込んでは大きく吐き出すと、同時にまたアドレナリンもが吹き出して心臓の鼓動が大きくなる。よし、体の方はこれでもう準備が出来た。
それにしても山形監督は待たせすぎだろう。俺はてっきりスタメンで出場するものと思い込んで準備していたのに、こんなピンチになってから担ぎ出すなんて。まったく結局は俺がいなきゃ駄目なんだよなぁ、もう。
そう思い上がる俺の頬は絶対ににやけているはずだ。
「おい、アシカ。ぼけっとしてないで気合いを入れろよ」
「そうっすよ。僕達にはもう後がないんすから」
山下先輩と明智がやってきて声をかけた。ふむ、もしかしてこの二人が心配するほど顔が緩んでいたのかな。
さすがにへらへらした姿をテレビで中継されるのは恥ずかしい。気合いを入れ直そう。
両手の平で自分の頬を張る。軽い破裂音が響き、緩んでいた俺の頬が赤くひりひり風がしみる肌へと変化した。……久しぶりすぎてちょっと力が入りすぎたが、これでようやく精神的にも戦闘準備が整った。
さあ、楽しい時間の始まりだ。
後半は日本ボールからのキックオフになる。審判がボールをセンターサークルにセットしている間に、俺はルーチンワークを済ませておく。そのルーチンとは自身のコンディションの確認と鳥の目によるピッチ全体の把握だ。
体調については問題なし。先週のヨルダン戦を欠場したのがいい休暇になったようで疲労もない。一番心配していた右足の状態も怪我する前と変わらず――いやもしかしたらそれ以上に調子がいい。
懸念材料であった右足は大丈夫だと確信を持った俺は、最後に空からピッチ上を眺めるような鳥の目で中国の試合会場を見渡してその鮮明さに驚いた。
なんだかアナログからデジタル放送に変わったように解像度がアップしている。これは俺がボールをコントロールする新しいタッチの感覚をつかんで周りを見る時間が増えたから視野が広くはっきり見えるようになったのか、それとも別の感覚が磨かれたせいなのかよく判らない。
だけど、悪い事じゃあないよな。今日は調子がいいんだと俺に太鼓判を捺してくれているようだ。
後半開始の笛の音と共にセンターサークルからボールが下げられる。この審判は前半の間は目立って中国有利な笛は吹かなかった。できればこのまま真っ当に裁き続けてほしいものである。
そんな感慨をよそに、まずトップ下に陣取ってボールを受け取った明智は、ちらりと俺の姿を確認するとパスを回す。途中出場の俺にボールを触らせて落ち着かせようと考えたのだろう。
その明智からのパスを受ける時、またあのボールの中心を掴む感覚があった。まだ敵が周りにいないために柔らかく衝撃を殺すようにトラップしたのではなく、無造作に左足で止めただけなのにその突き出した足首にボールが吸い付いたように完全に停止している。
うわ、俺って絶好調じゃないか?
またも緩む口元を隠せずにボールを足元に確保したままピッチ上の動きを再確認する。
うん、中国はリードしているせいかあまり前へと出てこないな。もしかしたら、これからまた勝負所でどこからでも圧力をかけてくるハイプレスのために今はスタミナを温存しているのかもしれない。
自陣のゴール前に四人のDFとダブルボランチを置いて守備のブロックを構築した「待ち」で古典的なカウンター狙いの体勢に入っている。
そこまで見て取ると、一旦ボールをDFラインに戻す。
うん、想定していたけど俺がパスを出した時には日本の最終ラインにはもう三人しかいない。いや右のサイドバックである島津も一応最終ラインには存在しているんだ。ただそれが敵のDFの最終ラインであるのが、どこか間違っているぞとツッコミたい所だが。
うちのポストプレイヤーと島津が二人で中国の最終ライン付近を前後に動いて、敵のDFとオフサイドの駆け引きをしている。
――何をしているんだよ島津は。
俺は最終ラインからボールを受け直すと、マークがついた明智と入れ替わるようにボランチのポジションから少し上がる。
明智をマークしていた相手が一瞬こちらにスライドして俺につきそうな素振りをみせるが、俺がそっちに視線を向けると同時に明智も一歩だけ前へ移動すると、二兎を追う愚を犯しそうだと判断してか自分は明智についたままでヘルプを要請する。
だが、俺は呼ばれたマークが来る前にロングキックでボールを手放していた。そのターゲットはもちろん敵陣の左サイド、こっちから見たら右サイドの最先端で待ち構えている島津だ。
――あいつが何をしているかって? 決まっているじゃないか必死に攻撃をしているんだ。
先制されて劣勢の状況をひっくり返そうといつも以上に前へ出てやがる。あいつが敵陣のサイドの奥深くでパスを待っているだけで、中国のディフェンスはサイドに長く伸びた歪な形になり他の攻撃メンバーが攻めやすくなるのだ。
だがそれだけでなく、あいつが敵陣深くまで前へ出てる最大の利点は――当然島津が攻めやすい形になるって事だよ!
ほら、お待ちかねのパスだ。存分に攻めるがいい。
そんな気持ちを込めた俺のロングパスは綺麗な弧を描いて島津へと渡った。
うむ、狙い通り目標の足下にピタリと着弾した。ボールの中心を感じ取れるようになってからキックの精度が増したようにも感じられる。今までのコントロールでも短い距離ならまったく問題なかったが、パワー不足のために力を入れて蹴らねばならなかったロングキックが改善されたようだ。やや不得手でぶれのあった長距離でのキックが正確になったのは喜ばしい。
ボールを受け取る島津もどこか嬉しそうである。これまでは中国のプレスに苦しんでいたので、ここまで高い位置でボールを持てたのは久しぶりなせいだろう。
彼は綺麗にボールの勢いを殺したトラップをすると、キレのある動きでターンしてすぐにドリブルで最終ラインを突破しようと試みる。この辺の動きはDFじゃなく完全にウイングのアクションだよな。
だが相手も必死にマークして、縦への突破はともかくゴール方向へだけは行かせまいと中央への道だけは許さない。
ならばと島津はタッチライン沿いにぐいぐいと進み、コーナーフラッグ近くまで侵入してからセンタリングを上げる。
ゴール前の絶好のポイントに上がったボールに飛び込む日本人はポストプレイヤーと山下先輩の二人だ。俺も前線へと走るがまだそこまではたどり着かない。ゴール前に飛び込むのは諦めると、仕方なくセカンドボールを拾うための位置取りへと変更する。
日本のFWは二人ともポジション取りも高さも文句のつけられないレベルであったが、中国ゴールの前に壁を作っている屈強なDFを破れなかった。くそ、あいつらは練習で嫌と言うほどあの巨人の楊とヘディング争いをやっているのだろう。単純にクロスを放り込むだけじゃ得点は取れそうにない。
しかし、その跳ね返されたセカンドボールは明智が素早くゲットした。サイドの島津へボールが渡った際にするするとそこまで上がっていたらしい。こんな所があいつは抜け目がないよな、連戦で疲労しているはずなのに勝負所ではマークを外して急所にきちんと顔を出す。感嘆しつつもこぼれ玉をとり損ねた俺もまた新たなポイントへと動き直す。
それでも明智がボールを拾ったのはゴールから少し離れた地点だ。直接狙うには難しく、もうワンアクション起こさないとシュートは撃てない。
中国もただ傍観しているはずがない、マークしていた選手はもちろん最終ラインもすぐにDFラインをブレイクして明智へのチェックにいく。
自分でのシュートは難しいと見たか明智がすぐにパスへと切り替えた。
彼の顔がこっちに向いた時点ですでに俺の準備はできている。目の前のスペースはしっかりと空けていて自由に使えるポジションを用意して待っているぞ。
うん、さすがだな明智は。ぴたりとその空間に優しく素直な回転のボールが送られてきた。さあ、どうぞシュートを撃ってくださいと言わんばかりのパスだな。
横目で確認すると口だけをパクパク動かして何か伝えようとしている。察するところ「復帰祝いっすよ」ってところか。
よし、お祝いをちゃんと受け取りましたよ。
いつものように視線を落としボールだけを見て撃つシュートモーションに入る。ユースの先輩DFやキーパー曰く「目線が見えんから、どこを狙ってるのかさっぱり判らんフォーム」である。
もちろん俺の脳内には鳥の目によるイメージのゴールがはっきりと映し出されているのだが、それを知らない他人からは変わったフォームで守る側からすれば止めにくいことこの上ないだろう。
そのまま振り切る右足に心地よい抵抗があり、それが弾けて消える。
今までのジャストミートの感触と似て非なるボールの芯を撃ち抜く手応え――いや足応え――の鋭いシュートはゴールまでの間に僅かな弧を描きポストの内側を叩くと、反対側のサイドネットを揺らす。
「おおおー!」
俺は雄叫びを上げた、いつもはゴールしてもここまでは感情を露わにしない。だが怪我で試合に出られなかった不満、予選突破がかかった状況での同点弾、そして決定力が悪かった俺が今のシュートを決めた事で「何かを掴んだ感覚」が重なった俺は叫ばずにはいられなかったんだ。
なんて言うんだろう、戻ってきたというんじゃなくてレベルアップして帰ってきたような感じだ。
一回目の人生では怪我をした後はなす術もなかった。だが今の俺は違う。例え怪我をしたとしてもより一層の力を得て復活できたのだ。俺は過去の自分よりも確実に強くなっていた。
これまでの日々が頭を横切る。
毎日欠かさなかった柔軟体操が柔らかく強靱な関節を作ってくれた。嫌いだった筋トレがダメージを抑えてくれた。好き嫌いのない食事が体を頑丈にしてくれた。俺を形作っている物、俺が積み上げてきた物全てが怪我を乗り越えさせて、さらにここまで強くしてくれたのだ。
――これまでの俺は間違っていなかった。感情の高ぶるままにチームメイトが駆けつけてくるまでの少しの間だけ俺は空に向けて叫び続けた。
肺活量の続く限り叫んだ俺は、ようやく抱きついてきたチームメイトに顔を向けて、一言だけ告げた。
それは今のシュートは凄いだろうという自慢ではない、パスをありがとうという感謝の言葉ですらない。
「ただいま」
ようやく試合に帰ってこれたことを知らせる挨拶だった。