第四十話 こんな試合はこりごりっす
俺は荒れた芝の上でうずくまったまま、ファールを受けた右足に再度手を伸ばした。
やはりいつも感じているあの感触がないくせに、右足首の辺りからは鼓動に応じて脈打つ痛みだけが伝わってくる。
周りに集まってくれたチームメイトにもせめて「大丈夫だ」とだけでもこの試合中動揺しないように伝えたいが、それを言う間もなく担架でピッチの外に運ばれてしまった。
ベンチ横に降ろされると駆け寄るチームドクターより早く自分でソックスを引き下げて、毒蛇にタックルされた右足の負傷箇所を確認する。
蹴られた場所はすでに赤黒い痣となって触るとかなりの痛みが走るし、足を動かすだけでも鈍く重く響く。
だが、単純な蹴られた部分のダメージのみで腱や関節などに重大な異常はないようだな。前回の怪我から学習した俺の知識と経験がそう囁く。
何しろ前回は手術を受けるまで、自分の意志では右足がろくに動かせなかったからな。
もしかしたらこれが守ってくれたのかもしれない。
右足首に切れ端が垂れ下がっているミサンガを手に取る。あの千切れた音も、いつものこれを巻いてある感触が急に消えて違和感があったのも、小学生時代からずっとつけていた真からのプレゼントである特製のこのミサンガが切れたせいだ。
確かこれは、昔に俺が鋏で切ろうとしても切断するどころか傷一つつかなかったほど頑丈なミサンガのはずだよな。
それがすっぱり切れたって事は、もしかしたら俺の身代わりにさっきのファールの衝撃を全部受け止めてくれたのかもしれない。そんな非科学的な想像をしてしまうほど、あれだけのファールで与えられたショックと比較して体に与えられたダメージが少ない。
これなら、ちょっと我慢すればこのまま試合にも戻れそう……。
立ち上がろうと足に力を入れるとビリッと電流が走る。うむ、やはり今日ぐらいは無理しないようにしておこうか。
そんな風に自分の体の損傷と相談をしている内になにやらピッチの中では、一触即発の空気になっていた。
あ、上杉が退場してくるじゃないか。こいつ一体何をやらかしたんだ?
「アシカ……すまんかったなぁ、仇を討つつもりやったんやけど」
「え……何の事か判らないけれどそのお気持ちだけで充分です」
「いつか必ずワイが仕返ししたるから、ちょい待っといてや」
本当に悔しそうに、この唯我独尊な少年が俺に頭を下げている。
レッドカードで退場になったにもかかわらず、監督に謝る前に俺に仇を討てなくてすまんと言いに来るところが、何というか、こう……いかにも上杉らしい。
あ、それでもやっぱり監督に呼ばれて怒られていやがる。
とはいえそれでも少しの間だけだ。上杉にはこれから二試合の出場停止という長い罰が待っている。俺と違い怪我もないのに試合に出られない悔しさを覚えるのはこれからだろう。
試合に出られない焦燥は監督に怒鳴られるより何倍も身に染みるのだ。
その上杉との会話の、間ずっと俺の右足を診察していた若いドクターがほっとしたように大きく息を吐く。
「うん、確かに打撲の程度は重いが関節や筋肉・腱に特に重大な損傷はないようだ。もちろん日本へ帰国したらすぐに検査を受けた方がいいけれど、反則を受けたシーンを見てぞっとしていた立場からすれば信じられないぐらい軽い症状だよ」
そう落ち着いた口調で結果を告げながら、慣れた手つきで素早く右足をぎっちりとテーピングで固定していく。それが巻き終わると今度はアイスパックを使っての患部を冷やすアイシングだ。
あ、その冷たさが痛みと暑さにぐてっと脱力していた体をしゃんとさせるぐらい心地いい。
こちらもよく冷やされているスポーツドリンクをぐいっとばかりに飲み干すと、ようやく人心地がついた。
足やほかの部分の痛みも疲労も無視できる程度になり、汗で張り付くユニフォームがべたついて嫌だなと気になるぐらいにまで落ち着くと、改めて自分と上杉が退いた後のピッチ上へと目を移す。
――え? いつの間に同点に追いつかれてんの?
◇ ◇ ◇
アシカの負傷退場と上杉への厳しすぎるレッドカード。
不公平だと僕達日本代表は、皆が腹に熱く煮えたぎる物を飲み込んでプレイしてるっす。
不満を表面上抑え込んだだけなので、どうしても普段より集中が乱れ行動が雑になってしまうんだよな。
それはアシカの後を継いでゲームメイカーを託された僕も例外ではないっす。いや、同じタイプでポジションも被るだけに一つ間違えれば、アシカの代わりに僕があの毒蛇の標的にされていてもなんらおかしくはなかったはずだ。それだけに僕の感じる怒りと苛立ちは、まるで自分の事のように思えて人一倍っすよ。
それにしても、この状況になってからゲームの組み立てを任されるのもかなり辛いっすね。
アシカが倒れた後、上杉までレッドカードで一発退場して一人少ない状況になってしまった。それだけでもかなりの痛手っすよね?
それなのにこっちが審判に抗議しようとしている間にサウジはアシカがピッチから去ったと同時に、審判の笛を要求してさっさとリスタートするとまだ状況を把握していない日本のゴールを陥れているのだ。
その一連の流れもかなり酷かったっす。
顔を押さえて倒れていたはずの毒蛇がいつのまにか立ち上がり、セットされていたボールをいきなり日本のゴール前に放り込んだのだ。
え? 確か日本ボールからじゃなかったのか?
そんな油断とも言えない空気があった。こっちはまだジャッジが納得いかないと審判に食い下がっている奴、新しく入ってきたボランチからの指示を受けている奴、上杉が消えた攻撃をどうするか相談している奴らに、あれだけ痛がっていたにもかかわらずキックする段になると平然と立ち上がった毒蛇にあきれる奴とまるでバラバラだったっす。
そんな状況でいつリスタートしたか判らない内に、敵が急なロングパスからのカウンター攻撃を仕掛けてきたのだ。日本の守備が動揺で意思統一ができなくても、まあ仕方がなかったのかもしれないっす。
サウジのエースであるモハメド・ジャバーの本領発揮と言える、後方からのロングボールをポスト役からのリターンパスで落してもらってダイレクトで見事にゴールに叩き込む得意の得点パターン。これまでの予選で猛威を振るい、今日の試合でもずっと警戒してここまでは封じ込めてきたプレイっすよ。
それがこの場で炸裂してしまった。
確かに彼の動きは洗練されていて見事だったかもしれない。だがその前段階がおかしすぎるっすよ。
日本チームの全員で、ちょっと待ってくださいよ、今のゴールは無効でしょう? ファールされたのはこっちっすよ! と文句を言ってみたものの、最後に反則をとられたのは上杉になっているのでサウジボールから再開して問題ないという解釈らしいっす。確かルール上は日本ボールの再開じゃないとおかしいはずだが、抗議しようにも言語が判らないしピッチには通訳もいない。結局サウジの同点ゴールは取り消されなかったっす。
この審判、本気でサウジから幾らかもらってるんじゃないっすかね?
アウェーで同点、しかもこっちが一人少なく向こうのファールはほとんど取ってくれない。
ピッチは馴染まない荒れた芝で、気候は相手の生まれた砂漠周辺の乾いた焼けるような暑さっす。
日本は守備には向かないメンバーで環境に慣れたホーム側のサウジアラビア猛攻を受けているっていう、マイナス面しか残っていない最悪の状況だ。
しかも、俺にマークについたのが……五番をつけた通称「砂漠の毒蛇」って気取った二つ名を持った潰し屋っす。アシカみたいに怪我したくないからこいつのラフプレイには注意が必要だとすると、それをかいくぐるのにも幾重にも手間がかかる。やっぱりかなり厳しくなるっすねー。
ま、これからゲームを立て直して勝ち越すのはさすがに高望みが過ぎるから、ドローを狙って時間稼ぎをするしかないっすけど……。
スコアボードに表示された残り時間を確認する。
ロスタイムも入れると後十分以上っすか、試合前の予想以上に随分とハードになっちまったもんすね。
額からとめどなく流れる汗を拭いつつ、早く時間が過ぎないっすかねーと呟いた。
◇ ◇ ◇
「んーもー、同点になっちゃったよ!」
「速輝があんなに頑張ってリードしていたのに……」
日本のどこかではまた二人の女性がテレビを見ながら騒いでいた。年長の女性は頭に冷却シートを張ってぐったりと椅子に腰かけているが、どうやら具合は観戦できるぐらいには回復したようだ。手にしたカップから紅茶を一口飲んでは残念そうに呟いている。
自分の息子が試合から退場したせいか、物理的に頭が冷えたからか日本の逆境にも意外と冷静に観戦している。
むしろ眼鏡をかけた小柄な少女の方が不安気にそわそわしている。
「んーと、このままなんとか引き分けで終わってくれないですかねぇ」
「きっと大丈夫よ真ちゃん。もうロスタイムに入っているし、たぶんこれがサウジにとっても最後の攻撃のはずよ」
真と呼ばれた少女は童顔をさらに幼く見せるほっとした表情で眼鏡を拭う。それをちょこんとかけ直すと両手を握りしめて力強く頷いた。
「それなら安心ですね! いわゆる「負ける確率なんて計算上はゼロに等しい」っていう奴ですね!」
「……それはちょっと違うかも」
そんなまたもやフラグを立ててしまったような二人の会話をよそに、テレビ画面の中ではサウジチームが日本のゴールへ向かって襲いかかっていた。
この試合の日本の結果からすると彼女達の「大丈夫だ」という言葉はあまり当てにならないようだった。
サウジアラビア対日本戦は最終スコアが三対二とホームであるサウジアラビアが逆転勝利を飾り、この時初めてグループリーグの順位でもサウジアラビアが日本を抜いて首位に立ったのである。