第三十九話 審判はレッドカードを掲げる
アシカがサウジの毒蛇に後ろからタックルされた時、思わず山形監督は立ち上がった。
あのプレイは危険すぎる。明らかに狙って後ろから、しかもボールを持っていない人間の足に向けて硬いスパイクの裏で蹴りにいったのだ。
タックルとかボールを奪いにいったとかではなく、相手にダメージを与える事を目的とした悪質なラフプレイである。
「何やってるんだ!」
同様の怒りの叫びが一斉に日本のベンチから上がった。
うむ、当然審判が笛を吹きながらファールの現場に近付いていく。アウェーでもさすがにあれはレッドカードだろう、それよりもアシカの容体は……ああ、右足を抱えてうずくまっているな。あいつ大丈夫なのか?
いや、例え怪我が軽かったとしても、あれだけのラフプレイを受けた後ではもうプレイ続行は無理だ。まだ成長段階の少年を預かるチームの監督としてはすぐに引っ込めねばならない。
素早く頭の中で後半の作戦を修正し、ベンチを温めているボランチの選手を手招きする。
「準備はできているな? アシカの代わりに出てもらうぞ。いつも通りにアンカーと並ぶ位置で守備優先に頼む」
アシカを交代させる時はいつも投入している中盤の人材の背中をポンと叩く。こいつはこれまでの予選でも途中出場していたからアップはきちんとしている上、こんな交代には慣れているから他のベンチウォーマーよりすぐ試合に適応できるはずだ。
問題はこの少年はアシカと違って攻撃力より守備力が高いタイプなのだが、明智のポジションを一つ上げて攻撃的にすることでそれは解消できるはずはずだ。
そこまで思考を進めている間に、ピッチでは信じられない光景が進んでいた。
審判がアシカを倒した五番に対しレッドではなくイエローカードを示したのだ。
「嘘だろ……」
無意識に山形の口から信じられないと現実逃避の言葉がこぼれ落ちる。あれでイエローカードなら一発退場なんてこのピッチ上に存在しないじゃないか。もしかしてあの審判レッドカードを持ってくるの忘れたんじゃないのか?
いや、実はちゃんと審判はレッドカードを持ってきていた。
とても公平とは思えなかったが、それは今から一分後に示される事で判明するとなる。
審判のあまりに甘すぎる判定を呆然と眺めていると、その視線の先にファールしたサウジの毒蛇と上杉が映りだす。
敵のゴール前からここまで戻ってきた上杉は、髪を一層逆立てていつもより鋭くなった目を血走らせている。どこかで見た表情だと記憶を掘り返していた山形監督は、思い当たると喉も裂けよと叫ぶ。
「マズい! 上杉を止めろ!」
あれは代表初合宿の時に乱闘を始める寸前の顔だ。こんな所で暴れられたらたまったものじゃない。
だが山形監督の叫びに他の選手が反応するよりも早く、上杉がサウジの毒蛇の襟を鷲掴みにすると自分の顔面ぎりぎりまで引きつけて巻き舌で大喝する。
「うちのチビに何さらすんじゃ、ワレェ!」
仲間を思うその心意気は買うが、上杉、その行為はマズい。ただでさえ日本語では相手に言いたいことが伝わらない上、脅迫していると取られかねない。
慌てて真田キャプテンと武田が鬼の形相となった上杉とサウジ選手の間に入る。すると掴みかかられていた相手の選手はなぜかオーバーアクションで顔を押さえて後ろへ倒れた。
なんだ? あいつは襟を握られただけのはずだ。なんで倒れる? しかも触られてもいない顔を両手で覆って?
そんな山形監督の疑問はすぐに氷解する。
審判が上杉に対してレッドカードを突きつけたのだ。
「さっきの相手のタックルがレッドじゃなくて、こっちはちょっと襟を掴んだだけで一発退場だと!?」
レッドカードをもらってしまったらこの試合どころか、次からの二試合も出場できない。それも今日を含めこれまで出場した全試合で得点しているうちの得点王の上杉がだぞ!
あまりの理不尽さに頭に血が昇る。ベンチから立ち上がり、審判に詰め寄ろうとするがその俺の袖掴んで引き留める男がいた。サウジに出発する前夜に俺と荷造りしながら話しをした若手スタッフだ。
彼が「いけません、監督まで退場させられたらゲームが完全に壊れます」と必死の形相で言い募る。
その制止で冷水をかけられたように血の気が引く、悔しいが彼の言う通りだろう。いかに審判の判定が一方的とはいえそれが試合中に覆るとは思えない。それどころかここはアウェーの地だ、俺までおまけに退場させることさえ考えられる。
落ち着け、冷静になるんだ。そう自分に言い聞かせる。
まずは事実のみを確認しよう。アシカが負傷して上杉が退場か。
アシカとの交代要員は、さっき指示していたようにボランチでいいだろう。だが、上杉がいなくなるのが誤算だ。攻撃の柱となるあいつがいないとサウジを守備に忙殺させて、逆襲を押さえ込むという後半のコンセプトが完全に崩壊してしまう。
アシカの交代を入れて切った選手交代のカードは二枚。いっそここで最後に残ったもう一枚使って守備的にフォーメーションを変化させるかと悩む。
だがそれは危険すぎる。
ここでネックになるのがアウェーで相手の反則に甘いと言うことだ。具体的な例として今ピッチから担架で運び出されようとしているアシカがいる。もしも残り一回の交代を使った後で怪我をするほど乱暴なキーパーチャージをされてしまったら?
最悪の予想に酷暑にも関わらず背筋が冷たくなる。
こっちとしては交代枠が残っていないのだから、未経験のフィールドプレイヤーを急遽キーパーに仕立てなければならない。そうなってしまえばもうまともな試合は不可能だろう。
それにキーパーに限らずこれ以上に負傷者が増えることも考えられる。
やはり交代のカードは保険としてできれば最後までとっておくべきだ。
ぎりっと音がするほど奥歯を噛みしめた山形に若手スタッフも心配そうな表情をするが、そうでもしないと激情を抑えられない。
ゲームメイカーが負傷させられ、エースストライカーはアシカへのファールに対する報復行為としてレッドカードだ。アシカは治療するし上杉は判定に対する抗議はしてもどちらも次の試合には間に合わないだろう。
日本のサッカー協会は外国やFIFAとの交渉が下手すぎるんだ。もっと強気で対話してくれよと思うが、ずっと続いていた弱腰姿勢は国内での内弁慶と相まってもはや伝統とすらなっている。
いや上杉はともかく下手したらアシカなんて、怪我の状態によってはもっと長期間離脱する可能性も……。
くそ、これも俺の監督としてのマネジメント能力が低いせいなのか? ネット上で中傷される程度の指揮官でしかなかったのだろうか。
「監督!」
アシカと交代して入るMFの選手が「指示の続きをください」と訴える。その声に少し冷静さを取り戻す。うむ、自身の能力査定は後でもできる。まずはこの試合の残りをどう凌ぐかに全力を注がねば。
「とにかく試合が少し落ち着くまで無理な攻撃は控えるように皆に伝えてくれ。特に島津には悪いがこの試合に限り攻め上がりを控えて守備をしてくれるようにと」
山形監督の指示に強張った表情で頷く。アウェーでこんな雰囲気の中に出て行くのはまだ子供といっていい年代の少年には酷かもしれないが、今はそんな配慮をしていられない。ピッチ上の選手たちはそんな空気の中で戦っているんだ、こいつも自力で乗り越えてもらわねば。
◇ ◇ ◇
「速輝! 危ない!」
「アシカ! 避けるんだよ!」
ここ日本でもテレビで観戦している女性二人が悲鳴を上げていた。
その叫びも虚しく、画面には右足を抱えて芝の上に横たわる少年の姿が映し出される。
じっとその姿を見ていた年長の女性は、小さな吐息を洩らしてぐったりとソファにもたれ掛かる。その姿はいかにも弱々しく今にも気を失いそうにすら見えた。
「わ、わ、どうしよう。 おばさん? 水飲みます? 紅茶の方がいい? それともあ・た・し・? じゃなくてええと」
「……じゃあお水を」
かなり狼狽して何を口走っているか判らなかった少女はすぐに小柄な身を翻し、キッチンからコップを探すのももどかしく慌てて水を汲んでこようとする。
その時慌てすぎて注意が散漫になっていたのか、手に取ったコップと同じ棚にあったガラスのグラスを落としてしまう。
グラスの割れる音に青ざめた顔を向けた女性が、
「そ、その割れたのはあの子がいつも使っているグラス……」
「ええ!? それじゃあ」
眼鏡のレンズが瞳だけで一杯になるほど目を大きく見開いて少女が叫ぶ。
「アシカの気に入ったカップがなくなっちゃったんだね!」
「ええ、そうなるわね」
当たり前の事を叫ぶ真と頷く女性。このままアシカのカップをハーフタイム中に続いて割ってしまったという現象をスルーするかと思いきや、ようやく少女が何かに気がついたように体を震わせる。
「まさか、さっきのカップが割れたのも不吉な前兆だったんじゃ!」
「……さすがにそれはないでしょうね」
疲れた表情はしていても理性が残っているのか、少女のオカルト染みた危惧を否定する女性。
「もし、そんな事があるならまた不幸が訪れるってことになるじゃないの」
「ん、こほん、そうですよね。すいませんちょっとさっきのアシカのやられた衝撃映像が頭に残っていて」
少女もすぐに照れ笑いを浮かべるとテレビ画面を一瞥する。
「テレビもアシカの具合はどうなのか早く情報を――え? う、上杉選手が退場だって!?」
「その子ってこの前速輝が複雑な顔で褒めてた子じゃないの!」
「お、お払いをしましょう。なんなら清めた納豆とかをこの家の四方に撒いちゃいましょう!」
「清めた納豆って発酵してないならただの大豆じゃないの? とにかくそんな物撒かれたら速輝が帰ってこなくなりそうだから、駄目よそれは!」
……日本は結構なピンチに陥っているが、彼女達はどうにもシリアスが似合わないタイプのようであった。