第三十八話 自分の足を確かめよう
ちょっとだけ右足を気にしながら立ち上がった俺に、駆け寄って来た明智が心配げに眉をひそめて尋ねる。
「大丈夫っすか?」
「ええ、問題ありませんよ」
実際一瞬ピリッと来たぐらいで、屈伸をするとすぐに痛みも飛んでいった。「そうっすか」と明るく頷く明智も安堵の表情を見せる。
「じゃあアシカはまた前の攻撃的なポジションへ代わった方がいいっす」
「でも、マークについている奴が結構しぶとくて……」
毒蛇ってだけにしつこくて執念深そうなんだよな。マークを外すのは一筋縄ではいかなさそうだ。俺が攻撃しようとするとすぐ潰されるんじゃないかという懸念がある。
「だからこそっす。中盤の後ろでは相手が反則してきた場合、ファールをもらってもあまり意味がないっす。でももっと前の位置ならファールされればフリーキックでゴールが狙えるっす。それが判っていれば相手も無闇に反則でアシカを止められないっすよ」
「ああ、なるほど」
納得した俺は素直に「ありがとう」と明智に礼を言う。彼だって国際試合で攻撃の指揮をしてみたいに決まっているのに、そのエゴを捨ててチームと俺にとって役立つ方法を考えてくれたんだ。俺なら絶対に迷ってしまってこんなに早く決断はできない。彼のチームに対する献身にはどれだけ感謝しても足りないな。
その好意に甘えてさっそくポジションを押し上げる。
並行して明智はボランチの位置にまで下がっていく。
そんな移動をしている最中にも、五番はずっと俺の隣から離れようとしない。ファールしたというのに、こいつには罪悪感というのがないのかずっと笑みが顔に張り付いたままだ。だったらどこまで笑いながら密着マークできるか試させてもらおうか。
ゆったりとした歩調から急にギアをトップに入れ替えて前へ出る。それはちょうど俺がファールされたフリーキックのボールが前線の左ウイングの馬場へと渡った、リスタートのキックで皆の目がそっちに集中したタイミングだった。
その馬場の後方である左のサイドへと流れながら、再度自身と敵味方のポジションにチェックを入れる。敵が全体的に前がかりになっているのは予想通りだが、この俺に張り付いて離れない五番が邪魔だ。さっきのダッシュで振り切ったかと思えば、少しでも足を緩めると隣にいやがる。
そこに馬場からのバックパスが来た。やはり後半に入ってからディフェンスが厳しくなっているのか、彼でもゴール方面へ切れ込むのは無理だったようだ。
パスを受け取るトラップ際は最もボールを奪われやすいタイミングの一つである。俺は毒蛇にカットされない様にと馬場が配慮したであろうスピードのあるボールを、トラップせずにダイレクトでマークしている相手の足に向けて弾く。
俺から奪う気満々だった毒蛇はいきなり自分の足に当てられたボールにほんの一瞬硬直した。
自分から出ようとした瞬間に相手からボールをぶつけられると、ボクシングでのカウンターパンチをもらったようなもので痛くなくとも相手は予想外の展開に瞬間的に動きが止まるのだ。その間にぶつけたボールを取り返して俺は中央へとカットインを試みる。
敵DF陣は俺をマークしていた相手をよほど信用していたのか、俺の突進に反応が遅れている。
よし、これならシュートか上杉に合わせたパスを……とマズイ!
また後ろから五番に足を引っかけられてピッチの上を転がってしまう。俺だから足をかばい上手く重心をずらせたが、鳥の目を持っていなくて毒蛇の接近に気がつかなければ怪我をしていたかもしれない危険なファールだぞ。
それにしてもあれだけ綺麗に抜いたと思っても数秒の猶予しか与えられないのか。
そこで審判の笛が響く。うん、そりゃ今のは反則だよな。イエローカードでも出されればさすがにこいつも少しは大人しくなるだろう……。
え? なんで審判が俺に「早く立て」ってジェスチャーしてるの? そしてなんで相手のボールなんだ? また倒れた俺を起こす為に手を貸しに現れた明智が解説する。
「自分から転んだって判定されたみたいっすね」
「俺はあいつから反則されたのに!?」
「見えにくいようにファールしたようで、僕にもはっきり反則した瞬間は確認できなかったっす。それに審判はもうサウジ側のはあからさまな反則しかとってくれないようっす」
もし今のがペナルティエリア内だったら、PK狙いのダイビングと判断されて逆にこっちがカード出されたかもしれないっすと吐き捨てる。
卑怯者めと俺を倒した相手を探すと、毒蛇の奴もまたこっちを見つめて笑顔を浮かべた。さっきまでのように無邪気なものではなく、唇の端だけをつり上げた嘲笑という奴だ。
頭が沸騰しそうになるが、俺の体は明智によって抱き止められていた。おまけに審判までこっちを注視してやがる。ここで暴れたらファールされたはずの俺の方がカードを出されかねない。
ふうっと息をついて必死に気を静める。深呼吸だ、脳に酸素を取り込んでクールになれ。すーはーすーはー、よし。
「落ち着いたから放してください明智さん。さすがに暑い中抱き合う趣味はないんで」
「僕もそんな趣味はないっすよ」
俺の頭が冷えたと感じたのか、拘束を弛めて解放する。
明智から一歩離れると、自分の体の各部のコンディションを確かめる。うん、よし大丈夫だ。引っかけられた右足もピッチで打った箇所もダメージはもう抜けている。後は……精神的なダメージの回復だけ、いやもっとはっきり言えば五番に対する報復したいという欲求だけだな。
だがどちらかといえば接触プレイが苦手な俺が、ラフプレイの名人とアウェーの地でバチバチ肉弾戦をやるわけにはいかない。
毒蛇にはDFにとっては最も辛い、マークした相手に大活躍されるという刑にしてやろう。
◇ ◇ ◇
それからしばらくはサウジの猛攻に押される時間帯が続く。
こちらが島津を投入したとはいえ、パスの供給源である俺が窮屈にプレイしているのだ、チームが一丸となって攻めてくるサウジに対しては劣勢にならざる得ない。
だが、日本の守備陣の頑張りが少しずつ流れを変えつつあった。
やるじゃないか、うちのディフェンスも。俺の口からそう漏れるほど洗練された追い込み方で守っていた日本代表がボールを奪取した。
ポストプレイヤー役のサウジFWをマークしていたDFの武田がシュートを撃てない場所でわざとボールを持たせ、そこに真田キャプテンが参加しダブルチームで絶対にゴール方向へ振り向かせずにサイドへと押しやろうとプレッシャーをかける。
そこで敵FWが目にしたのはピッチの中央から駆け寄ってくるうちのアンカーの姿だ。こうなるともうバックパスするしかないと判断するだろう。そこに明智が気配を殺して罠を張っているとも知らずに。
ポストプレイヤーがサウジでは孤立気味だったからできた、狭いゾーンに思い切って人数をかけた「パスの出し所を一カ所だけ空けて、そこに一人忍ばせておく」方式のパスカットだ。
日本のディフェンスは枚数が減ったにも関わらずアグレッシブな守りをするなぁ。
と、そんな感想を抱いている場合じゃない。明智が視線でこっちに尋ねているじゃないか。「どこにパスが欲しいか」って。
今は五番にくっつかれている状況で、こいつを相手にして俺はスピードでは振り切れない。ならばスペースではなく足下に寄越してくれ。
俺が足下の芝を指差すと明智からのパスは寸分違わずに要求した地点へ送られてきた。
これからは一瞬の勝負だ、俺はサウジの五番を背後にしてそう感じた。こいつは俺がボールキープして前を向こうとすれば躊躇なく潰しに来る。ならばその前の僅かなタイミングを捉えるしかない。
明智からのボールが俺の想定した通りの場所に来る。あいつはやっぱり上手いな、コントロールが正確だから受け取る時にわざわざ自分の位置を調整する必要がない。
ボールを普通にトラップするより微妙に早い拍子で右足で迎えにいき、そのまま足首のスナップだけで背後へと蹴り上げる。
得意のチップキックの変形だが、これは真後ろに立っている者からすればボールと蹴り上げる動きが全く見えない。俺の体がブラインドとなってまさに「ボールが消えた」ように錯覚するだろう。
ボールを完全に見失った相手がまず疑うのは自分の下だ。股抜きされたのではないかと視線を落とす。
その後にようやく自分の背後の空中にボールが浮いているのを発見できるのだが、その時にはもうすでに遅い。ほら、この毒蛇も俺が今までにこの技で抜いた奴らと全く同じ反応をしやがった。
そしてボールの行方を目で追っている間に、俺の体はすでにスタートをきっているのだ。もう抜かれまいとしても間に合わない。
よし、上手く毒蛇を引き剥がした。
あとはゴールへの道を見つけるだけだ。だが、すぐにフォローのDFが出現する。サウジはよほど俺を警戒しているらしいな。
瞬時の迷いも見せず右へ抜きにかかる。完全に抜けなくてもいい、今の俺ならボール一個分のスペースが空いていればゴール前のFW達の誰かにアシストを通してみせる。左手を伸ばし相手を寄せ付けない様にしながらドリブルする。
体半分が通り抜けかかった時、左腕にしがみつかれる感触があった。
前半ラボーナで山下先輩にパスした時よりがっちりと両手で掴まれているじゃないか。ほとんど俺の左の肘関節を敵DFに極められているようだ。
この体勢は明らかにファールだが審判は笛は吹いてくれそうにない。では残念ではあるが作戦を変更するしかないか。さすがにこれでは抜くのは不可能だし、毒蛇も追いついてきた。
ここは一旦ボールを明智に戻そう。左腕を掴まれた不自由な状態だが敵に奪われないよう丁寧にパスを出す。
これでもう一度中盤から攻め方を組み立て直し……、ちょっと待て。
なんで毒蛇は後ろからスライディングしようとするんだ。俺は今ボールを手放したじゃないか。
なのになぜ俺の足だけを睨んで滑り込む?
くそ、なら避けなければ……。おい、DFお前左腕を離せよ。そうじゃないとタックルを避けられないじゃないか。
冷や汗を吹き出しながら振り払おうとしても、がっちりと鎖で固定されているかのように俺の左腕は動かせない。
このままじゃ避けるどころかダメージを逃がす事さえ……。
後ろからの殺気に鼻からは火薬の臭いと肌はナイフで切りつけられるような錯覚を感じた体が勝手に反応した。
少しでも衝突するタイミングと当たる場所をずらそうとジャンプするが、足がまだ上がり切れないうちに衝撃が襲ってきた。
左腕はサウジDFに掴まれているために吹き飛ぶことはなく、その場に半回転して背中から叩き付けられる。
空中での一瞬の浮遊感に「あ、これ今朝も夢の中で経験した感覚だ」と場違いでどこか呑気な感想を覚える。
そんな頭がぼんやりとなった状態で、受け身など取れるはずもない。思い切り背中を打ちつけた。
だがその落下の衝撃によって一気に意識がはっきりと覚醒した。
叩き付けられた背中の痛みより、悪夢でも体験した恐怖が先に立つ。タックルを受けた俺の足は大丈夫なのか?
慌てて自分の足を押さえると、夢の中と同じようにようやくその時になって神経が伝達したのか、俺に自分の右足からぶつっと何かが千切れる音と感触に痛みまでが遅れて届けられた。
伸ばした手からは、右足に今までずっと感じていたあるべき感触が伝わってこない。
俺はピッチで右足を抱えてうずくまる。
痛みに霞む視界の中、チームメイトが集まって来てくれている事だけをぼんやりと感じ取っていた。