第三十七話 毒蛇の牙には気をつけよう
さあ楽しい後半戦の始まりだ。
俺は湧き上がる熱に耐えかねてぶるりと身震いする。気温の上昇とテンションの高さが相まって体が熱くて仕方がない。
この気候で最初からアクセル全開で飛ばしているんだ、正直試合終了まで俺の体力がもつかは怪しい。だからこそ俺はまだスタミナに余裕のある今の内に得点差をつけておきたいのだ。
監督もここが勝負所と読んだのか、前半にオウンゴールをしてしまった右サイドバックの代わりに島津を投入し攻撃的な布陣へと変化させている。
サウジ代表は中央からの突破が多いからと中盤におけるダブルボランチの構成はそのままだったが、チーム単位で見れば前半よりもぐっと攻撃に重心を移している。
これは日本代表が「引き分けを視野に入れた作戦」から「絶対に勝ちに行く作戦」へと変更したことを意味しているのだ。
後半からのスタートとなる島津などはその日本人形のような顔には出していないが、気負いがあるのか落ち着かなげに何遍もスパイクを芝に向けてトントンと足先でつついている。これまでのスタメンで出場していた試合ではそんな仕草はしなかったはずだよな。
これは少し緊張をほぐした方がいいか。
「島津さん」
「む?」
いつもよりさらに引き締まった表情をこちらに向ける島津に「頼りにしてますよ」と告げる。
「前半休んでいたんですから後半は走ってもらいますからね」
「うむ、了承した」
俺の冗談めかした口調に少しだけ雰囲気を柔らかくして彼が頷く。そこに二人のFWも乱入してきた、
「おう、ワイの代わりにようけ働いてもらおうか」
「なんだと、右サイドのポジション的に俺の分まで守備を頑張ってもらう予定なんだぞ!」
「アホか、そいつが守備するわけないやろ」
「上杉が言うんじゃない」
お前らは黙れ。
ともかく右サイドにもう一つ武器ができたのは攻撃陣にとっては朗報だ。これによって後半攻めてくるだろうサウジを逆に押し込んで、逆襲する芽を先に摘んでしまおうというのが監督の思惑なんだろう。
日本代表の攻撃を預かる者としては、その構想を実現しなくちゃな。
後半開始の笛の音が響く。
サウジはその余韻が残っている間にも、どっと日本陣内へと突入してきた。
向こうのボールからだから前へ出るのは当然なのだが、全員が一つポジションを上げたんじゃないかと思うような、前がかりのフォーメーションだ。
やはりサウジアラビアも勝負をかけてきたな。まあホームで首位を争っているライバルチームと戦って一点負けているんだ、これぐらいは当然だろう。
だがこのサウジの攻勢は逆に俺にとっても好機でもある。全員が上がっているっていうことは、相手のDFラインの裏に得意のスルーパスが通しやすくなるということを意味するからだ。
くくく、そっちの攻撃で一つでもミスしたら俺達のカウンターでバッサリと斬って捨てるぞ。日本代表の攻撃力は日本刀級の切れ味だ、なめるんじゃねえ。
そこまで思考を進めてふと気がつく。いつの間にか傍らにちょっとだけ俺より背の高いサウジの選手が立っている。鳥の目でも気がつかなかったくらい自然に接近していたのだ。
なんだこいつと見つめると、褐色のまだ幼さが残る顔に人懐っこい笑みが浮かぶ。
思わずこっちもにへらと笑みを返してしまう俺は、間違いなく日本人気質だな。
とにかくこのままじゃ動きにくいかとポジションをずらしても、ぴたりと俺の隣から離れようとはしない。
このサウジの五番のプレイヤーが俺のマークを任されたのかな? それにしては、引き締まってはいるが細身の外見からは、マンマーカーによくいる圧力で封殺するパワータイプではなさそうだが……。
ちらりと目を走らせサウジの攻撃を観察するがその攻めを日本のディフェンスがよくしのいでいる。その間もこの五番の選手は俺から目を離さない。どうやら完全にマンマークの対象になったようだ。
では少し揺さぶろうか。向きを変えてすたすたと日本の陣地へと戻っていく。
もしこのマークしているのが敵陣の危険なエリアだけだと決められていれば、ここで俺についてくるのは自重するはずだ。
だが何事もなかったかのようなにこにこ顔で、俺と二人三脚のように接近しては離れようとしない。
俺が戻った事により、今度は明智がじりじりとポジションを上げて攻撃的なポジションへ移動するが、それに対してもノーリアクションだ。
攻撃的な位置にいるMFをマークしてるんではなく、完全に俺をターゲットとしてロックオンしているな。
どうやってこいつのマークをかわそうかと脳の一部分で考えながら、現在攻め込まれている日本チームの守備陣形を確認する。
こっちのDFラインは前半と変わらずフォーバックのままのはずだが、その内の右サイドバックは上がりっぱなしの島津へと交代している。つまり実質はスリーバックになっているのだ。
だがこれが意外と安定している。
これまでの予選では島津が先発出場していたから、否応なくスリーバックに適応する事を強いられていた。だから後半から急に変わったとはいえ、三人でディフェンスする状況がとっくに彼らには染みついて慣れているのだ。
しかも、ダブルボランチのおかげで中盤の守備は落ち着いている。そのおかげで最終ラインもいつもよりは余裕を持って守れているようだった。
だとしたら俺も今は下がって明智と入れ替わりでボランチの位置にいるんだ、守備のタスクをこなさなければ……痛て。
右足に何かぶつけられたような痛みが走り、傍らにいるサウジの五番を睨みつける。視線の先の相手はきょとんとした表情で「どうしたんだ?」とでもいいたげに首をかしげる。
いや……位置関係からしてこいつだよな? 俺の右足を多分蹴ってダメージを与えたのは。
でもここまで無邪気な態度を見せられると、もしかして人違いかとも考えてしまう。
なんにしろこいつのそばにいるのはマズイ気がするな。
少しずつ位置をずらしこの五番から離れようとしても、ぴたりとくっついたままで俺から距離を空けるつもりは全くなさそうだ。
くそ、邪魔だがあんまりこいつを気にしすぎて普段のプレイができなくなったら本末転倒だな。
できるだけ、マークする相手から離れようと動きつつ、気にしないようにと難しい精神状態を強いられる。
だがここで俺にとって役立ったのは鳥の目による客観的な視点だ。感情的にならずに自分と相手を脳内で記号化しつつできるだけ距離をとるように、なおかつチームにとって役立つルートをシミュレートするのだ。
俺の脳内のコンピュータは自分の位置をもう少し右に移動した方がいいと答えを出した。
右サイドの島津が上がっているために日本の右サイドはどうしても手薄になっているのだ。サウジは特にサイド攻撃をしてくるチームではないが、攻め込んでゴールを固まられているとパスを回している内にそこが攻撃の狙いどころとなっている。
だが向こうはドリブルはあまりしてこない傾向にある。ならばこのタイミングで日本の右サイドへのパスが……ほら、今だ。
サウジの中盤からのロングパスが蹴られる寸前に俺はダッシュをかける。出してからでは間に合わないが、その前にタイミングとコースを予測してパスがくるのを待っていれば綺麗にボールが奪えるのだ。
パスの糸をすぱっと切り裂くようなカットの仕方は、敵と密着してボールを取り合うよりも俺好みのボール奪取法である。
よし、読みはドンピシャだ。サウジのウイングに通る前にカットできる。
ボールを持てば、すぐに右サイドの島津へ送ってカウンターのスタートだ。
俺が速いボールをカットしようとした途端またも足にさっきと似た衝撃を受けて、今度は走っている最中という事もあり体勢を立て直せずに倒れて芝の上に転がる。くそ、なんだよ。
痛みはさほどないが、邪魔されたのに腹が立つ。
ピッチに横たわったままで足を引っかけてきた相手をじろりと睨みつける。そこにいたのはやはりずっとくっついてくる俺のマーカーであるサウジの五番だ。スタートダッシュで引き離せたかと思ったのだが、すぐに追い付いてくるとは瞬発力は俺以上って事か。
そこでようやく審判の笛が響き、五番に注意が与えられる。その最中にも「え、僕なんですか?」とでも言いたげなきょとんとした表情をしてやがる。これじゃ審判もなんだか厳しく注意しにくいのかもしれない。
こいつは役者だなと思いつつ立ち上がる。
痛てて、右足にピリッと軽い痛みが走った。まるで蛇に噛まれたような……。
ああ、そうかやっと思い出したぞ。サウジの五番。俺のマーカーであるこいつが二つ名を与えられたエースキラーの「砂漠の毒蛇」なのか。