第三十六話 ハーフタイムに手を打とう
帰ってきたメンバーを山形監督は「お、おう。よくやったな」と頬の辺りをひくつかせた笑顔で迎えた。
彼の指示とはだいぶ違う試合の運びになったという点で言いたいことは多々あるのだが、結果的に強敵とのアウェー戦で一点リードして前半を終えたのである。結果を重視する放任主義に近い山形ではあまり文句もいえない、だが素直にも喜べない。それが表情となって強面の髭面をさらにむさ苦しくしているのだ。
「ま、とにかくご苦労だったな」
戻って来たメンバーの一人一人の肩を叩いて激励する。守備的なプランを崩した元凶だろうアシカに対しては少し力が籠り過ぎたような気がするが、それは些細な事だと山形は気にしていない。
終わった前半よりも後半をどうするかが問題だ。
まずは日本の攻撃している本人達に、監督として一番気になっていた前半のサウジのディフェンスに対する印象を確認しておこう。
「どうだったサウジの守備は」
「大した事あらへんワイにパスを集中してもろたらハットトリックしたるで」
「キーパーがちょっと厄介な以外は、それほど怖くなかったな」
「マークは厳しいですが汚いファールはありませんでしたし、守備の組織も整っていました。今日のアシカ君は絶好調みたいですし、彼のプレイリズムが独特なせいかその対応には苦慮してましたが間違いなくレベルは高いです。ただ、攻撃している際に唯一気になった点は僕へのパスが少なかった事ぐらいでしょうか」
脳天気で強気な二人のFWに対し、意外と饒舌で正確な情報を届ける左ウイングの馬場だった。ごめん、と手を合わせるアシカに「後半は頼みますよ」と苦笑いで答えるこいつも苦労人のようだな。
だが、話の内容は山形が把握しているのと一致している。つまりここまではサウジのディフェンスはちょっと大人しくしていたようだな。おそらく後半はホームの利を生かしてもっと厳しくなるのは間違いないだろう。
ふむ、だとすれば今のままのこの代表チームとしてはディフェンス寄りの構成で、前半同様に攻め続けられるかは疑問だな。
ベンチから観察する限り、前半の日本の守備には問題なかった。一点失ったとはいえあれは不運だったにすぎない。
一方攻撃の方といえば……、
「今日はアシカの日っすね。僕はサポートに徹するっすからアシカは存分に暴れて欲しいっす」
「ありがとう、でもフォローと後ろのスペースは明智に頼みますね」
とゲームメイカーが交わす会話から判るように中盤から前はアシカを中心として機能しているのだ。
監督としてはちょっと複雑だが、この二人の関係が上手くいっているのに横から口出しするべきじゃない。
アシカも明智もこの年代とは思えないほど精神的には成熟している。チームにとって最善と思われる行動をとってくれているんだ、それが間違っていたり不利になるのなら無論止めるが、今日の所はいいリズムを刻んでいるようである。その二人で作ったリズムを乱すのは止めておこう。
ここで山形監督の中に迷いが出た。この試合展開ならば後半はもっと攻撃的にいっていいんじゃないか? という甘い誘惑である。もともとリードされた場合のオプションとして攻撃的な選手交代は考えていたが、今そのカードを切ってもいいのではないかと考えたのだ。
こっちがリードしているこの状態からならば、例えサウジアラビアに一点奪われたとしてもドローで終わるだけだ。だがこの試合を大量得点で勝利すれば、ほぼ確実に日本のアジア予選の勝ち抜けを決められる。
幸いなことにサウジは今日も、そしてこれまでの予選の試合でもサイドからの攻撃をほとんどしてこなかった。ここで島津を投入しても、守備におけるリスクはサイド攻撃が得意なチームより格段に下がる。
さらにあの不運なオウンゴール以降、うちの右のサイドバックが精彩を欠いているのも事実だ。
育成するのならば自信をつけさせるために我慢して使い続けるべきかもしれないが、これは国家の面子がかかった代表戦だ。自信を回復するまで待っているべきなのだろうか。それよりベンチでくすぶっている島津を入れて攻撃を活性化するべきじゃないのだろうか。
山形監督の頭の中を幾つもの選択肢が浮かんでは消える。
作戦を変更するメリットとデメリット。ここまでうまく運んでいる試合展開に手を入れる躊躇いと、おそらく後半の体力勝負になるとアウェーの日本が不利になるだろうという予想。協会内からの批判とマスコミなどによるマイナス面を強調した末に生まれた、ネット上での自分の手腕への疑問視。
最終的に決断したのは本来山形は攻撃的チームを志向していた事と、一刻も早くこの厳しいアジア予選を突破して周りを見返してやりたいという欲望だった。
山形は今日はずっとベンチを温めている小柄な少年に声をかける。
「島津、後半から出場してもらうぞ」
――日本代表がまずカードを先にきった。
◇ ◇ ◇
サウジの監督は前半の内容を吟味し、後半どうするのが最善手か考える。
ホームで劣勢なサウジチームには、このロッカールームにまでいろんな雑音が響いてくる。
その騒々しい中にあって、意外かもしれないが彼は前半の出来について機嫌を損ねてはいなかった。日本代表が強いのは予想の内であるし、サイドを守備的で無難なプレイヤーに変更したりダブルボランチにしたりと対サウジ用に色々趣向を凝らしてきているのだ。こっちの予想通りに試合が上手く行くと考える方が楽天家すぎるだろう。
だが、敵の抱える問題点と突くべきポイントも発見できた。
日本の選手のほとんどは荒れたピッチに適応できていないし、これから更に暑くなる後半になると運動量はどんどん落ちていくだろう。後半勝負になると読んで前半は抑えていたが、それに間違いはなかった。ただ二点取られたのが誤算だっただけである。
ならばやはり問題となるのはあの小柄なゲームメイカーだな。あいつさえいなくなれば作戦通り試合が進みそうなのだ。
正直あの七番の子供のような少年の力量を見誤っていたのは認めざるえない。それが偶々今日調子が良かっただけなのか、それとも急成長したのかは不明だがこれからのアジア予選でも邪魔になるのは間違いない。
そこでサウジで最も潰し屋として名を馳せている、監督が信頼する五番の背番号の少年にだけ聞こえるように呟いた。
「ふむ、あの七番の小僧は目障りだな。できれば後半の早い段階でピッチから消えてもらえれば我が国は助かるのだが」
監督の言葉を吟味したように目を瞑っていた童顔の少年は、濃い茶色の瞳を開ける。
「実は俺もそう思っていました」
――砂漠の毒蛇と呼ばれている少年は、異名にふさわしくないぐらい幼く人懐っこい笑みを浮かべてそう答えた。
◇ ◇ ◇
リビングで手が白くなるほど握りしめていた二人の女性はハーフタイムの笛にほっと息をついた。
お互いが深い息をついたのを目撃したのか控えめな笑みを交わし合う。
そして机の上にあるティーカップに手を伸ばして、中身の紅茶がすでに冷え切っているのに気づく。それもそのはずである、彼女たちは試合前に紅茶を注いでから一口も飲まずにじっとテレビを応援していたのだ。
「真ちゃんの分も紅茶入れ替えてくるわね」
年長の優しげな女性が二つのティーカップを持ってキッチンへ向かう。「ありがとうございます」とお礼を言うのは小学生のように小柄で可愛らしい女の子だ。顔立ちはまだ幼くて大きく赤いフレームの眼鏡が特徴的なぐらいだが、長く艶のある黒髪と座っていてもすっと背筋を伸ばした姿勢の良さが目立つ。
「はい、どうぞ。あら?」
少女に比べると背の高い女性が少し驚いた声をあげる。「速輝のカップまで出しちゃってるわね」と大ぶりのカップを手に取ると、その取っ手がポロリと外れカップが落下する。
テーブルの上で真っ二つになったカップは不幸中の幸いか破片が飛び散る事はなかったが、目を丸くしている女性に真と呼ばれた少女がてきぱきとカップを片づけながら声をかける。
「これってアシカのカップだったんですか?」
「ええ……あの子の誕生祝いにもらったんだけど、速輝が気に入ったらしくて昔からずっと使ってるのよ」
「じゃあ……もしかして」
「ええ、間違いないわ」
二人の女性はお互いが理解したと頷きあった。
「使い過ぎですね」
「古くなったんでしょうね」
……この女性二人は女の勘というものが、あまり発達していないようだった。