第三十五話 生意気な後輩に胸を張ろう
ここはアウェーで監督からは前半は抑え目で守備的に行けと指示されていた。
そんな事は百も承知だ。俺のプレイスタイルはゲームメイカーとして監督の意図を汲み取って、それをピッチ上で実現する事なのだから。
でもとりあえず、そんな頭の良い事は忘れてしまおう。
今日の俺には頭ではなく体が勝手に攻めろと叫んで、そしてチームメイトがそれをフォローしてくれているのだ。
前線のFWは「自分にもっとパスを寄越せ」と要求するし、後ろのDFは「ここは僕達に任せてアシカは前に行け」とまるで敗軍の殿兵みたいな妙なフラグを建設しようとしてくる。
そこまで言われたら、点を取りにいかなければ攻撃的な位置にまでポジションを上げた意味がないよな。
同点に追い付かれてのリスタートをしながらそう強く思う。前半の残りあと五分プラスロスタイムで絶対に一点を取ってやる。
だがここで少しだけネックになるのが、いつもと違って超攻撃的サイドバックである島津がいない事だ。あの少年がいればほとんど常に右サイドを駆け上がっているから、攻撃側が右サイドに限っては数的有利になるという普通ではありえないメリットがあったのだが、今回に限ってはそれが消滅している。
さらに俺よりも後ろは「上がるな」と断言されているから、基本的には前線の三人と俺だけで攻撃しなければならない。
この自分が置かれた状況に無意識に唇がつり上がる。やっぱ楽しいよなあサッカーって。
レベルが高くなればなるほど、プレッシャーがかかればかかるほど、勝たなくてはいけなくなればなるほど加速度的に厳しくなってくるのだが、それらを乗り越える達成感もまた跳ね上がる。
さあ、もっと楽しもうか。
◇ ◇ ◇
アシカの奴がまた唇を歪めて牙の様な犬歯を見せた。いつものボールを持った時のにへらという笑みではない、小学生のころから変わらないあいつが覚悟を決めた時の表情だ。上杉風に言うならば「KOを狙うボクサーの表情」という顔である。
やれやれ、何だか判らんがあいつがやらかすようなら先輩として付き合ってやらんといけないよな。
特にこの試合のアシカはなんだか一皮剥けたようで、変なオーラというか貫録染みた物を漂わせるようになってきやがった。昨日のうなされていた夜に何かあったんじゃないかと思わせる、好調というだけでは説明がつかないような成長ぶりだ。
「山下先輩、ほら、さぼってないで前線からプレスかけてください」
「お、おう」
ちょっと他の事考えていたら目ざとく指摘してきやがる、こういう年上にも遠慮しない部分が微妙に生意気だと言われる所なんだろう。だが先輩を先輩扱いしないとかそういう次元ではなく、こいつがただのサッカー馬鹿でしかないと理解している俺は別に腹は立たない。
だが文句はあるぞ。
「上杉にもプレスかけろって言えよ!」
「……あの人守備になると「大阪弁じゃないと指示は判らん」って言って拒否して、大阪弁で指示すると今度はイントネーションがおかしいって駄目だしするんです」
「そ、そうか」
上杉は攻撃以外にはとことん手を抜くようだな。それに俺までプレスをさぼればバランスが悪くなりすぎるか。
ただ守備だけでなく、アシカのプレイに合わせられるよう集中しなければならないのが難しい所だ。
一点目の上杉のゴールにしてもギリギリのアシストで、もし上杉が反応できなければキーパーの正面に蹴ったミスキックとなっていた。パスが鋭くなっている分味方に対する要求のレベルも上がっている。
もしのんびりしていれば俺でもついていけなくなってしまいかねない、それほど今日のアシカはキレていやがるのだ。
サウジの観客もそれを理解しているのか日本のボールがアシカに回る度に、一瞬ブーイングが静まりそれから慌てたように一層大きく鳴り響く。たぶんピッチ上にいなくても判るのだろう、アシカが一握りの選手しか手に入れられないオーラを纏い始めているのが。
俺も実際にそんなオーラを持った奴にはカルロス以外には会った事がない。だから無意識に「カルロスが特別なんだ」と思い込んでいたが、こんなにすぐそばに同じようになる可能性を持つ奴がもう一人いたとは。
でも……そうあっさりアシカが自分より先に行ったと認める訳にはいかない。先輩としての意地があるからよ。
歯を食いしばり胸の奥から溢れそうな炎を収めようとするが、つい口から滑り出る。
「アシカァ、パス寄越せ!」
俺の声に驚いたように顔を上げると、その表情のまま後ろの明智にバックパスする。
確かに今はアシカにマークがついていたし、俺のポジションも良くなかった。だからって俺にパスしようとする仕草ぐらい見せてもいいじゃないか。
前の好意的感想は破棄だ、やっぱりこいつは生意気だな。
舌打ちしてマークを引き剥がそうとサイドに流れる。アシカも明智にボールを預けると中盤の後方へと下がったようだ。
だがサウジの中盤のプレスも厳しい。すぐに明智へとアシカへついていた密着マークが移動してへばりつく。
明智も諦めたようにもう一度アシカへとパスを返した。
その瞬間にアシカがダッシュを始める。
自分へのパスをカウンターで迎え撃つように全力で疾走しながらドリブルへと移行したのだ。単純そうだがボールを受け取りながらトップスピードを落とさないでコントロールするのは高等技術である。それをあの小僧は何気なくこなしている。
だからそういう所がそつがなさ過ぎるんだって。
後輩の成長が嬉しさと妬ましさが等分に含まれた感情を持ちつつ、さらにサイドへと流れてマークを引き寄せる。俺を担当しているDFもこれ以上サイドに広がっていいのか迷いが見えた。中央をドリブルで突破しつつある敵のゲームメイカーがいるのだ、守備が一枚サイドで足止めされるのは痛いだろう。
そのためかある程度まで俺が広がったら、それ以上は中へのコースを切るだけでサイドまではついてはこない。
少しマーカーから距離をとってアシカの方を見ると、バイタルエリア付近まで敵に囲まれそうになりつつドリブルしている。これだけ荒れたピッチでボールが足下から離れないのは正直凄い。前からボール扱いは上手かったが、今日はなんか本気で足に吸い突いているみたいだ。
とにかくアシカの突破にDFラインはさらに中央に絞られ、その前方の最終ラインのギリギリでは上杉が小刻みにダッシュとストップそして走る振りだけのフェイントでマーカーと熾烈な駆け引きを繰り返している。
俺も負けていられない、そう決心して俺は一層ゴールから遠ざかった。俺をマークしているDFの視線から僅かに険しさが消え、視線を中央の攻防へ移す。
そこで俺は全力でダッシュをしてサイドからゴール前へのカットインを試みた。相手DFとの距離が開いている分加速度がついて敵は止めにくい、さらに注意を逸らしていた分後手にも回っている。そんな状況で振り切れないなら俺は日本代表に選ばれてないぜ。
ゴール前へ走り込む俺が顔を上げるとアシカと視線が合い、すぐに逸らされた。
そしてすでに中央の危険なエリアへいる上杉へと顔の向きを固定した。
俺は、そうかアシカはそういう奴だよなと納得し減速する。慌てて俺に追いすがろうとしていたDFもつんのめりそうになりながら足を止めた。
アシカが上杉を見つめたまま右足を振り抜こうとし――敵のDFに腕をぐいっと引っ張られて空振りした。その瞬間に俺はまた猛ダッシュ、上杉にマークを集中していてしかもアシカの空振りにあっけにとられている敵DFをかいくぐり最終ラインを越える。
するとちょうど目の前には「シュートを撃て」と言わんばかりにボールが届く。俺の直前でバウンドし軽く逆スピンがかかっていたのかこっちへ返ってくる感覚のボールだ。これなら例え芝のギャップがあっても関係なくシュートできるはずだ。
そう、アシカはあのタイミングで俺から視線を外したって事はノールックで、その後の敵の邪魔も計算した上ラボーナでこんなパスをするような生意気な後輩なんだよ!
ならその後輩からのアシストを外すわけにはいかないだろ。そんなミスしたら、もう先輩だってアシカに威張れなくなってしまうじゃないか。
パスは絶妙といっていい位置とタイミングで送られたが、それでも猶予はほんのコンマ数秒しかない。
アシカの奴、俺を上杉と同じワンタッチゴーラーと勘違いしてるんじゃないか?
その短時間に頭がフル回転し、飛び込んでくるキーパーに触れられないようなコースへと軽くタッチする。ここまでゴールやキーパーと接近していると蹴るというよりボールをちょんと押す感覚で正確さを重視したキックだ。
蟻地獄と呼ばれるキーパーにふさわしい長い手の先を通り抜け、ボールはゴールに吸い込まれる。
「おおおー! 見たかアシカ、この先輩を尊敬しやがれ!」
握り拳を天に突き上げ、そのまま人差し指を突き出すとアシカに向かって叫ぶ。
近くまで来ていた上杉が「何言うとんじゃ?」と不思議そうな顔をしているが、こっちはスルーだ。「外せばこぼれ球ワイが拾うたのに……」とぶつぶつ言う奴に用はない。
そして雄叫びの対象であるアシカは「はいはい、ずっと前から尊敬してますって」といいながら親指を立てて、俺が突きつけた人差し指にちょこんと触れる。
「お、おう、そうか。それならいいんだ」
なんか毒気を抜かれてしまい勢いがなくなるが、相手は許してくれなかった。純粋な祝福の笑みをにんまりとしたイタズラっぽい表情に変化させたのだ。
「じゃあ、山下先輩の得点を祝って特大の紅葉を背中にお贈りしたいと思います」
バカ、それはもう止めろって。ほら他の奴まで寄って来たじゃないか、アシカも「もう逃げられませんね、どこまでも追いつめて赤い手形をつけられます。これがホントの紅葉狩りですね」ってなんでこんな所でそう上手いことを言うんだ。
くそ、ゴールしたのに背中がひりひり痛む。やっぱりアシカは生意気な後輩だ。
いつもよりは少ない歓声に手を上げて応えながら思う。サッカーの技術と頼りがいは充分なのだが可愛げのある後輩の育成という点では失敗したのかな、と。