第三十四話 誰も悪くないなら忘れよう
当然ながら日本の先制点を機に、試合は大きく動いた。
お互いがグループの首位を狙うに当たっての最大のライバルなのである、特にホームのサウジにとっては絶対に負けられない試合だ。
そんなホームチームが敵に先に得点されてしまった場合はどうなるのか――答えは簡単、サウジは猛攻を仕掛けてきた。
「武田、前へ出すぎるなモハメド・ジャバーのケアはボランチに任せるんだ。そしてサイドはもう少し中へ絞れ、島津がいないと攻めにくいと判断したのかサイドからの攻撃は思ったより少ない。サイドを警戒しつつ中央へのフォローを頼む」
忙しく守備の指示を下しているのは真田キャプテンだ。オフサイドラインを形成していないために、最後尾からDFの最後の砦としてスイーパーのような役割を果たしつつディフェンスを奮起させている。
だがサウジもホームとしてのの利点を生かし、大歓声を背に次々と多少強引にでもアタックをかけてきた。
荒れたピッチでの戦いはこっちの十八番だと、まるで苦にせず普段通りであろうスピードのあるプレイをしている。逆に日本の方はいつもの細かいパス回しに最も向かないピッチの状況に、やや困惑ぎみでどうしても受け身になってしまう。
日本代表で芝の状態を気にしていないのは、絶好調でハイテンションになりボールを完全にコントロールできている俺以外では、まともなキックはダイレクトシュートぐらいで普通のパスなどしていない上杉ぐらいだろう。
サウジ側の作戦としては中央からの突破にこだわっているようだった。それが日本代表が島津をスタメンから外した事による試合開始後の作戦変更か、それとも当初からの予定だったのかは判らない。だが、現実的に敵の攻撃の八割近くがピッチの真ん中からの攻め方である。
特に後方からのロングボールを長身のFWがポスト役となってヘディングでモハメド・ジャバーへ落とし、そこでエースが決めるというのが向こうのチームの一つの約束事になっているようで狙われる頻度が高い。
一旦最前線のターゲットに当ててそこからのパスでゴールを狙うといったポストプレイは、むしろサイドを抉るより後方からのボールの方がやりやすい。FWが後ろから出るボールを確認しようと見ると、自然に敵ゴールに背を向ける格好になりリターンパスが出しやすくなるからだ。これがサイドからのセンタリングだとどうしても半身か体が前を向くので、直接ヘディングシュートを撃つほうへと意識がいってしまう。
結果として最前線で体を張るポスト役よりも、その少し後方でセカンドストライカーとして控えているモハメド・ジャバーの決定力を信じているために、サウジはサイドからではなく中盤からのロングボールをポストに放り込む攻撃手段に選択しているのだろう。
だが、ここで日本代表が中盤のゲーム構成力を下げてまで守備的なMF役を二人にした効果が出た。明智がいつもより下がっているためにアンカー役がさらに通常より一段深い位置で守れるようになったのだ。
それが危険な日本のバイタルエリアをも守備範囲に含んでカバーしてくれている。
敵のエース格であるジャバーも、アンカーのしつこいマークと最終ラインの息が合った守備網になかなか自分のプレイをさせてもらえない。いや時折見せるドリブルやボールコントロールの個人技術はさすがと唸らせる物を持っているのだが、それを上手く日本のディフェンス陣が抑え込んでいると味方のディフェンスを褒めるべきなのだろう。
サウジ代表も中央突破ばかりではらちが明かないと判ってはいても、それ以外に有効な手はないようだ。ここで日本がサイドバックを守備重視の人選にして、オーバーラップを前半は禁止した布石が生きている。守りに関してだけは選手と中盤の構成を変えたのが吉と出ているな。
これで報われない中央からの攻撃だけに拘ってくれればDFは楽なのだが。
そんな訳はない。同じような展開が続けばサウジ代表も苛立ってくるはずだ。
ほらまた焦ったのか、前線からボールをもらいに真ん中まで下がってサウジの鷹と呼ばれる少年がパスを受け取った。でもそこでもらったとして何ができる? アンカーから離れられてもその位置から前にはパスの出し所が……。
あ、マズイ。あいつならできる事はまだある。ポジションを中盤に下げたからってエースを相手にマークが緩んでやがる。
ゴールから遠い位置だろうと鷹とまで呼ばれる少年が躊躇するとは思えない。エースストライカーの称号はどこからでもゴールを狙う人間にのみ与えられる物だからだ。
危険だと直感した俺の背中から冷や汗が吹き出す。
「そいつ狙っているぞ!」
俺の怒鳴り声とほぼ同時にモハメド・ジャバーがロングシュートを撃つ。
かなり距離はあったとはいえ充分に体重の乗ったズドンと鈍いインパクトの音を立ててシュートが日本のゴールを襲う。
だがマークは緩くても無警戒だった訳ではない。彼の前方にいたうちのキャプテンである真田が体で止めようとするが、敵のシュートは絶妙のコースを通り惜しくも真田キャプテンの頭は届かない。
だがそのコーナーポストぎりぎりのシュートもこの試合まで存在感があやふやだったキーパーがパンチングで防ぐ。
凄いぞキーパー! 試合が終わったらチーム名簿でちゃんと名前を覚えてやろう。
キーパーが弾いたボールがゴール前に転がると、それを目掛けて敵味方が入り乱れて結集してくる。
オフサイドラインで格闘技レベルの押し合いをしていた連中がどっと突っ込んできたのだ。
俺からは戦場が離れすぎているので祈るしかない。頼んだぞDF、なんとかクリアしてくれよ!
さっきから守備陣に叫んでばかりだがその願いが届いたのか、一番早くルーズボールへたどり着いたのは日本のDFである武田だった。
ポストプレイ役のサウジのFWを押し退けながら、ゴールの正面の五十センチ前方に転々としているという危険すぎるこぼれ球へと必死にスライディングして掻き出すようにクリアする。
いや正確にはクリアしようとした。
敵と競り合いながらトップスピードのまま滑り込んでの反転しながらするクリアである。武田が後ろの確認が疎かだったと文句を言ってはいけないのだろう。
武田がクリアしようとキックしたボールはまるで狙ったかのような一直線の軌道で、フォローしようと駆け寄って来た日本代表の右サイドバックの顔面に至近距離から直撃した。
「あ、痛そ」
俺が呟いた瞬間、ネットが擦れる音に重なりホイッスルが響く。慌ててゴールに目をやるとボールが入っている。
どうやらチームメイトの顔面にジャストミートしたボールはそのまま反射してゴールへ飛び込んだらしい。
わっとばかりに盛り上がるサウジアラビアのイレブン。会場の大多数をしめるサウジの観客からの声援に鳴り物も大騒ぎでボリュームを上げて鼓膜に突き刺さる。
対する日本代表チームの空気は落胆というわけではなく、微妙の一言に尽きる。
誰もが悪くないプレイだったが失点してしまった。だが、その原因となった武田やサイドバックもチームのために全力で動いたのが裏目に出てしまっただけなのだ。
それでも同点に追いつかれたのも確かだし……と全員が何と言っていいか判らなかったのだ。
ええい、こんな時にこそ俺の空気の読めなさを役に立てるべきだ。手を叩いて注目を集めると「今のは仕方ありません。まだ同点なんですから切り替えましょう」と声をかける。
「ほらほら、先輩方もオウンゴールぐらいで責任感じて泣いたりしなくても」
「これはボールが顔に当たって痛かっただけだよ」
「あ、すまんかったな」
「い、いや別に武田を責めた訳じゃないからね」
そんなやり取りを見る限りでは、失点の元となった二人の仲もぎこちないながら修復できたようだ。助かったぜ、これで気まずくなって守備の連係が乱れるなんて最悪だからな。
守備を傍観していただけの俺に言われたくないかもしれないが、今のはもう運が悪かったとしか言えないオウンゴールだ。気にしても仕方がない。
それより早く俺に攻撃をさせてくれないか。
前半の二十分を過ぎたがここまで自己診断では、自分のプレイだけに関しては単純なミスだと感じるものは全くなかったのだ。ピッチの荒さや相手が強敵のサウジだとか今日の俺には関係ない。ここまで調子が良いのはたぶん中学に入ってから初めてだ。
「大丈夫ですよ。前半の内にまた一点取ってきますから」
思わず口から出た言葉は我ながら偉そうではあるが、それでもただの大言壮語とは思えない。それが出来ると信じられるだけの自信が今日の俺にはあるのだ。
その言葉に口笛を吹いたのは上杉だ。今日すでにワンゴールを挙げている生粋の点取り屋は「そうやな取り返せばええだけのこっちゃ」と強気な笑みを浮かべる。
他のFWの二人も「今度は俺にアシストする番だよな?」とプレッシャーをかけてくる山下先輩に「あの……僕の事忘れてないよね?」と念を押してくる馬場もすっかり攻撃モードに切り替わっている。
うん、守備重視の布陣だけどやっぱりこっちの攻撃的な作戦の方が俺の性には合ってるな。
監督の指示でそれ以外のメンバーは上がってくれないけれど、これだけの面子が揃っていれば残り十分でも得点ができそうだ。いや、できる。
まだ騒いでいるサウジの応援席に目を走らせる。まあ随分と騒々しかったからあれを力尽くで黙らせるのも気持ち良さそうだよな。
「アシカ、ええ顔になってきたなぁ」
と上杉が声をかけてきた。思わず手で顔を拭うが、そこにはもちろん汗しかついてはいない。どういう意味だと見返すと、彼が面白そうに答えた。
「それはボクサーがKO狙いに行く時の表情やで」
そいつはどうもありがとうございます。