第三十三話 最初からアクセルを全開にしよう
キックオフの笛と同時に歓声と騒音が鳴り響く。
いやサウジアラビアの民族由来である楽器などをきちんと演奏しているのかもしれないが、馴染みのない耳には騒音としか認識できないんだ。
最初は日本のボールからだったので、センターサークルから上杉がちょっと頬を膨らませて俺へとパスを出す。おいおい、こんな最初のボール回しでまで自分のプレイがシュートじゃなくパスだからって不服そうな顔をするなよ。
荒れた芝の上で初めて受け取るパスなのだ、イレギュラーしても対応できるように慎重にボールから目を離さずにいるが脳裏にはピッチの全景を映し出している。
うん、いつも通り――いや鳥の目ではいつも以上にはっきりとした映像でピッチ上のプレイヤーが把握できる。
ふわりとトラップして顔を上げると、実際の視界が広がると同時に頭の中の上からピッチを眺めるイメージ映像もさらに鮮明になっていく。
気持ちはいいがいつまでもボールを持ちながら笑っていても仕方がないと、山下先輩に軽くパスを捌いた。
――あ、ボールを蹴る足の感触がいつもより鋭くダイレクトに伝わってくる。サッカー選手は試合の最初のボールタッチでその日の調子が判る。それを踏まえて判断すると、今のパスに加えて、さっきのトラップでの足首の柔らかさといい鳥の目の精度といい間違いない、今日の俺は絶好調だ。
自分の調子に満足すると、その調子の良さを攻撃に生かすため少しだけピッチ上でのポジションを上げる。それに応じて何も言わないですっと下がって、監督の指示通り中盤のバランスを取ってくれる明智は実にプレイしやすい相棒だ。
その好意に甘えてトップ下に近い位置まで居場所を押し上げる。うん、ここまで敵のゴールに近くなれば攻撃的なプレイはしやすいな。
そこでまた俺にボールが回ってくる。序盤で相手もまだ様子見なのか、それとも俺と明智がいきなりポジションチェンジしたせいでマークがずれたのかプレッシャーはあまり感じられない。
あ、これ狙えるんじゃね?
マークがつくよりも早くシュートを撃つために、後ろからのパスを体を反転させながらノートラップでゴールへ蹴る。
ちぃ、荒れた芝のギャップで蹴る直前にボールが小さく跳ねてシュートコースが少し逸れたな。
だがキックのタイミングが良かったのかシュートは唸りをあげてサウジゴールへ襲いかかった。
ゆったりとした流れからのいきなりのミドルシュートにサウジのキーパーは一瞬だけ反応が遅れたが、すぐに飛びついて両手で弾く。くそ、ジャストミートできていればもっとゴールの隅に行っていたはずなのに。
そのこぼれ球に素早く上杉がダイビングするが、DFもボールより上杉に向かって体を張るような勢いでぶつかり合ってゴールを守る。DFの圧力に押された上杉のヘッドはゴールポストをかすめて外れてしまった。
いまのはファールなんじゃ? ピッチ上どころか会場内の目が審判に注がれるが、審判は笛を吹いてゴールキックを宣言した。
途端に湧き上がるサウジサポーターからの大歓声と小さな日本サポーターからのうめき声。
むう、今のは微妙な判定ながら日本にPKを与えてもおかしくはなかったぞ。開始直後にホーム側の反則でPKは取りにくいとはいえ、やはり審判の笛は相手よりと考えた方がいいだろう。
だから上杉よ口を尖らせて審判を睨むな、お前の印象が悪くなるだけだって。
そしてぶつぶつ文句を言うのも止めるんだ、なにしろその審判は風貌から察するとアラブ系でたぶん日本語を理解してないぞ。抗議しても無駄な努力どころか次の判定で不利になりそうなマイナスの行動だ。
「ドンマイ上杉さん、次は入りますよ!」
せっかくの得点チャンスが一回潰されたにも関わらず、俺の中には悔しがる感情は希薄だった。それよりも自身のコンディションの良さへの嬉しさが勝っている。今のシュートにしても荒れたピッチじゃなければゴールになっていても不思議じゃなかった。うん、今日の俺の体はキレているな。
少し下がっていた明智を呼んで「このまましばらく前でプレイさせてください」と頼む。
「そりゃ構わないっすけど、もうこの荒れたピッチに慣れたんすか?」
「いや、そっちはまだ慣れてないんだけど、体の調子がいいからなるべく早く先制点を狙いたいんで」
「……了解っす。ただマークを惑わすため何回か僕も上がってポジションチェンジをした方が効果的かもしれないっす」
ふむ、と顎に手を当てて一秒間だけ思考する。
「判かりました、俺から明智さんへのパスをそのスイッチにしましょう。明智さんにパスを出したら俺はボランチの位置にまで下がります。そうでなければ中盤の底で待機していてください」
「了解っす、しばらく攻撃は任せたっすよ」
あっさりと俺に攻撃のタクトを委ねる明智もいい奴だよな。俺だったら「俺が司令塔になるから、お前は下がれ」と言われたら少なからずむっとするが。まあ、ここまで短いながらも信頼関係を築いてきた恩恵と考えるべきだ。
そして同時に責任も肩にのし掛かってくる。ここまで「攻撃は俺に任せろ」と宣言したんだ、後で「一点も取れず御免なさい」じゃすまない。なんとしても先制点を取らねば。
よし、と気合いを入れ直している隙にもサウジは反撃を開始していた。
ゴールキックからボールがDFに渡されるや、ロングパス一発で日本ゴールに迫る高速アタックだ。
向こうは荒れたピッチに慣れているだけにその戦い方にも長けている。だからサウジが採用している芝の有無など関係のないロングパスでの攻撃が有効なのは理解できる。だがそれは繊細なサッカーを目指している日本の流儀とはちょっと違うんだよな。
とにかく今はトップ下の位置にいる俺は、味方ゴール前での攻防において守備ではあまり役に立たない。むしろDF陣がボールを取り戻した時のカウンターに備えてどう攻撃するかを想定するべきだ。
サウジはロングボールを長身のFWに当てて味方に戻すポストプレイをしようとする。だが、日本のDFもゴール前にいるのは真田キャプテンに武田といった体格には恵まれたDFばかりだ。中国の楊みたいな規格外の空中戦の王者でもなければ抑え込める。
ヘディングが先に届いたのは武田だ。だが彼の頭に当たったボールは安全な所までは飛ばせずに、まだシュートを撃てる危険なエリアに留まっている。
その中途半端なクリアにいち早く反応したのは「砂漠の鷹」であるモハメド・ジャバーだ。DFがゴール前に引き付けられていると見るや先ほどの俺と同様にそこからミドルシュートを放つ。
俊敏なその動きにポスト役に引き付けられていた日本の守備陣は誰もついていけない。
いや、ついていける者が一人いた。その一人であるキーパーだけが抜群の読みでモハメド・ジャバーのシュートを止めた。しかも横っ飛びしての胸でしっかりとキャッチまでする文句のつけようがない満点のプレイだ。
ごめんキーパー。今まであんまり存在感がなかったから「いなくてもいいんじゃ?」とか「名前を覚える必要ないな」とか思っていたけど、よく考えれば俺達の年代では日本一のキーパーなんだよな。
その日本チームの守護神と目が合った。キーパーは素早く立ち上がると、俺へ向けてのパントキックを放つ。
おし、受け取った! 日本のピンチにも関わらず助けようともせずに自由に動けるスペースを探していた俺は、ノーマークでキーパーからのロングキックを大切に受け止めた。
サウジが攻撃をしていたせいで向こうの守備が少しだけ上擦っている。特にDFとボランチの間であるバイタルエリアに空白が生まれているのだ。そこに俺がボールをもらったタイミングで走り込む少年がいる。
さすが山下先輩だ、俺のプレイの呼吸が判っている。
絶好のポジションを占めた先輩の足下に強めのパスを送る。ゴールに近いこの辺では弱くスピードのないパスだと敵ディフェンスに対応する時間を与えてしまうからだ。
実際に鋭いパスを綺麗にトラップした山下先輩でさえ、すぐに敵のDFが張り付こうと接近している。
そこで一旦また俺へとリターンパスだ。
先輩に集中しかけた守備が俺へと気を回す前に勝負をかける!
げ、そのつもりが先輩からのリターンパスはまた荒れた芝で不規則な跳ね方をしやがった。慌ててトラップしなんとかコントロールするが、その僅かなタイムロスで俺の傍らにまで敵のボランチが近づいている。
だが幸いな事にゴール前からのパスなので、俺は前を向いたまま行動できるのが大きい。
ボールに触った先輩や俺へ急いでマークが集まろうとしているために、そこで守備網に綻びが生じている。ボールを目で追うのに精一杯で他への注意が薄れたのだ。
俺は敵の接近前にDFの間を抜く低く鋭いボールを撃つ。
そのボールは上手くDFの隙間を抜けたがキーパーの真っ正面だった。
だがこれはミスショットではないし、フリーキックでもないのにブレ玉が撃てた訳でもない。
キーパーは真正面に飛んでくる俺の撃ったボールには触れる事もできなかった。
先にキーパーの目の前に飛び込んでボールに触った者がいたのだ。そんな事をするのは勿論日本の誇るエースストライカーの上杉しかいない。
俺と山下先輩のコンビネーションで自分へのマークが緩くなったと判断するや、躊躇なく全力でDFラインの裏へ走り込んだのだ。
キーパーの鼻先で触って角度を変えるだけのワンタッチボレー。まさに「シュートしかしない上杉」の真骨頂とも言うべきプレイだな。
当然そんな至近距離でシュートコースが変わるのに反応できる人間がいるはずがない。ボールはゴールネットに吸い込まれて擦れる音を立てる。うん、敵のゴールから届く分には何度聞いてもいい音だ。
飛び込んだ勢いのままゴール前を走り抜けると、こっちに向かって上杉がやってきた。ぐえ、首を絞めるなよ。俺は今お前にいいアシストしたばかりだろうが。
「ナイスパスだアシカ!」
首から手を離すと今度は頭を乱暴に揺らされる。これって上杉からすれば撫でているつもりなんだろうな。だとしたらさっきのも首を絞めているつもりはなく肩を抱いて感謝を表しているぐらいの感覚だったのだろう。
まったくこれだから体育会系でも格闘技をやってた奴らは、馬鹿みたいに単純で乱暴で――頼りになって楽しいんだよな。
少ないが拍手を送ってくれている日本のサポーターに、ガッツポーズでアピールする上杉の後ろからそっと手を振った。日本で見ているはずの女性二人も俺がこのぐらい活躍すれば、個性的なお土産求めて走り回らなくても許してくれるだろう……多分だが。