第三十二話 アウェーでも試合に集中しよう
試合前のロッカールームという物は緊張感が漲っているものだが、今日の雰囲気はまたいつもと少し違う。試合に臨む以前の段階で空気がピリピリとしているのだ。
確かに今回の試合のスケジュールはわざとだろうと勘ぐってしまうほど段取りが悪かった。昨日の段階でピッチの状態などを確認できていなかったのも頭が痛かったな。試合直前の練習でどうぞご確認をと言われても、案内された練習場と芝の具合が違いすぎて困ってしまったのだ。
それではと実際に試してみると試合会場のピッチは昨日代わりにと案内された練習場の整備されていた物とは大違いだった。
なにしろ芝の生えている部分と土の露出している部分が斑となって荒れ放題のイレギュラーバウンドばかりだったのだからたまらない。サウジ側からの「ここの所試合が立て込んでいて、ピッチの整備と設備の補修に大忙しで昨日は迷惑をかけました」との謝罪にただ頷いて同意するだけだったという案内役に殺意が湧く。仕事しろよお前。
もやもやした沈滞したムードの中、山形監督が手を叩いて全員の注目を集める。
「どうした? まさか、このぐらいのハプニングで動揺しているんじゃないだろうな?」
「昨日下見ができないって一番怒鳴っていたのは監督でしたけどね」
からかうような監督の言葉に乗って俺も軽口を返す。初のアウェー戦で思う事は色々あるが、まだこのぐらいだったら許容範囲内だろう。フル代表の試合になると、ホテルで騒音がして一晩中眠れなかったり、飲食物に異物が混入されていた場合さえあったそうだ。
俺達ぐらいのちょっとした妨害ならば、ここで蒸し返すよりこれからすぐ行われる試合に備える方が先決だし有効だろう。おそらくサウジ側も俺達を少年だと考慮したのか、冷静にさせずに苛立たせるのが目的な程度の妨害でしかなかったからな。
その辺りを心得ているのだろう山形監督も「俺が一番騒がしかったっけか?」と厳つい顔を情けなく歪めて頭をかくと、周りからも「そうですよ、忘れないでくださいよ監督」「かなり煩かったっす」との声が漏れ、少しだけ空気が和らいだ。
「ま、それはともかく試合について最後の打ち合わせをするか」
その言葉に室内の全員の顔が引き締まる。今日の試合はこれまでの攻撃的にやれたホームゲームと勝手が違う部分が多い。集中して監督の説明を聞かねばならない。
「昨日も話をしたはずだがもう一度確認しておくぞ。前半は守備を重視したメンバーと構成だ。前のスリートップはいつも通りでいいが、必ず攻撃はシュートで終わる事。後ろに下げる場合には絶対にカウンターのきっかけになるような簡単なパスミスはしないように気をつけろ、いいな」
頷く前線の三人を確認し、さらに山形監督は中盤から後へ指示をする。
「中盤は必ずボランチの位置に二人はいるように徹底しろ。アシカが上がれば明智が下がり、逆の明智が上がる場合もアシカが下がる釣瓶の動きを忘れないようにな。二人とも上がるリスクの高い作戦は前半は不可だ。
DFについては右のサイドバックが島津じゃなくなったから、サイドから崩されるリスクは少なくなったはずだ。ただ実戦での連携はこのフォーバックではまだまだだから、無理にオフサイドとかを狙わずにマンツーマン気味で深く守れ。アウェーなんだから微妙なオフサイドは取ってもらえないかもしれないからな。とにかく前半は守備は安全第一で頼むぞ」
「はい!」
答えるDFの声には迷いがない。特に島津の代わりにスタメンに選ばれた右のサイドバックは気合いの入った表情をしている。むしろ守備力には定評がある彼の方が正統派のサイドバックで、島津の方がどちらかといえば異端なんだから定位置を奪い返したいと力が入ってもおかしくはない。
「そしてさっき確かめたようにピッチコンディションは非常に悪い。ショートパスはあまり使うな、パスを受け取る方もイレギュラーバウンドが起こる可能性を常に頭に入れておけよ。グラウンダーのパスよりできれば浮かせたロングボールでつなげる事。
そして細かいタッチのドリブルする場合もボールのコントロールにいつもの倍は注意しろよ。スペースを生かした高速のドリブルならともかく繊細なタッチはまず無理だろう。特に明智やアシカに山下がそのタイプだから気をつけるんだ」
名指しされた三人が口々に「判りました」「了解っす」「俺のドリブルは止められないと思うけどなぁ」と素直に……あれ一人素直じゃない奴がいたみたいだけど、まあいいか。
他にも色々と細かい指示を出していたが、ついに扉をノックされて試合開始まで間もない事をスタッフから告げられる。
「よし、お喋りはここまでで後はピッチ上で結果を残すだけだ。今日の試合も必ず勝って日本へ凱旋帰国するぞ!」
「おう!」
◇ ◇ ◇
ところ変わればしきたりも変わるものだとは頭では判っていても、なかなか実感はできないものだ。
ただ入場するだけの場でここまで緊張を強いられるとは思わなかった。会場に入っている観客の人数は少ないのだが、鳴り物や声が凄い。特に言葉が判らないものだから声援も何か怒鳴っているとしか思えないので、近くで大声がする度に体が勝手に身構えてしまっている。
少ない観客の中には日の丸の旗を振ってくれている人もいるのだが、やはりサウジの応援の方が圧倒的なために肩身が狭い感じで遠慮がちな声援だ。
だが、それでも周り全部が敵じゃないと精神を安定させる役に立ってくれた。多分現地在住の日本人なんだろうけど、わざわざの応援本当にありがとう、力になっていますよ。
少しだけ緊張をほぐして笑みを浮かべると、その応援団へ手を振る。歓声の中で日本語の割合がちょっとだけ増えたような気がするな。「ちっちゃい七番頑張れよ!」との声まで聞こえてくる。
あ、言い忘れていたかもしれないが俺は代表で七番の背番号を頂戴している。
うちの山形監督は背番号には無頓着なのか、スタメンのキーパーから順に一番・二番と付けていったのだ。フォーバックだからDFの四人が真田キャプテンが二番で武田が三、島津が四で次の左サイドバックが五番。あ、今回右のサイドバックに入ったのは十五番だ。そして中盤になってアンカー役が六番で俺が七という訳だ。
次に明智が八番を取ると、FW陣からは点取り屋のイメージが強い九番は「ワイの背番号やな」と上杉が強奪、十番は「カルロスに対抗するには俺しかないだろう」と山下先輩が背負う事になった。
ちなみに残った左ウイング――確か馬場だったよな? ちょっと地味で濃い他の面子から割を食うFWは「じゃ、僕は残った十一番でいいよ」とあっさり納得してくれた。うん、馬場君よ地味って言って御免。あんたいい奴だよ。
さてお決まりの国歌演奏の間にまたこっそりと相手であるサウジアラビアについて観察する。
エースであるモハメド・ジャバーは想像したよりは小柄で、身長なら上杉と同じぐらいの百七十というところだろうか。いや、別に小さくはない。どうも中国の楊と戦ったばかりだからか身長を計る物差しがおかしくなってるな。
だが見た目に関わらず「砂漠の鷹」と呼ばれるほどのストライカーだ、油断できる相手ではない。
他にも褐色の肌に頑丈そうな砂漠の民という俺の勝手なイメージに沿った選手が多い。この年代ですでに髭を生やしかけている少年もいるのが異国の代表を相手にしているのを実感させるな。
その中で敵チームで最も身長が高いのが「砂漠の蟻地獄」という二つ名のキーパーだ。日差しが熱いために日本のキーパーは半ズボンなのにこっちは慣れているのか黒く長いジャージをはいている。すらっとした細身で手足が長いスタイルは蜘蛛を連想させるな。あ、俺は蟻地獄って言われてもすり鉢状の罠みたいなのしか思い浮かばずに本体がどんな形かは判らないんだ。蟻地獄ってどんな形してたっけ? と脳内で検索して出てきたのが蜘蛛みたいだったかなという感想でしかない。
何にせよ大きな体と身体能力に恵まれたキーパーらしきことだけは理解できる。こいつからゴールを奪うのは大変そうだ。しかもいつもより日本が守備的なシステムでとなるとなおさらだな。
他には目立った選手はいない。
もう一人監督が挙げていた、砂漠の――ええと毒蛇だっけ? 蠍だったかな? とにかくエースキラーの毒を持った奴はぱっと目で判る風貌はしてないようだ。いわゆるトップ下のポジションを潰す役割のようだから、うちでは多分俺か明智がその対象になるのだろう。俺じゃなく明智をマークするんだとテレパシーを飛ばしたつもりだが、果たして受信してくれただろうか。
でも例えそのマークされる標的が俺だと判っていても、普段通りのプレイを心がけないと。集中を乱すのが最もやっちゃいけない事だからな。
まあ仮に運悪く俺に厳しいマークが来たとしても、今日の調子なら何とかなりそうな気がする。
日本とはかなり違う気候だが、俺は他のメンバーほどコンディションの維持に苦労はしていないのだ。汗をさんざんかいて水分を取ったのが良かったのか、むしろ今は早く試合で体を動かしたくてうずうずしている。ウォーミングアップの必要がないほど体が熱くなっているのだ。反面暑さによるスタミナ面での不安はあるがそれはもう毎度の事だしな。
体が軽く思考も興奮や緊張に流される事なくクリアである。初めての海外の環境でここまで適応できるとは嬉しい誤算だった。
深く息を吸い込むと、どこか日本とは違う臭いと乾燥しきった空気が肺に入る。そして大きく吐き出すと、ゆっくりと心臓がアイドリングを始めドクドクと音を立てて戦闘用の血液が体を巡るイメージで手足の末端からうずくように力が湧いてくる。
よし、俺の準備は万端だ。
国歌の演奏が終わり、俺達日本は円陣を作り肩を組む。
こんな時最後に気合いをいれるのは当然真田キャプテンだ。
「いいか、前半は守備重視だが攻めの気持ちを忘れるなよ。気持ちまで守りに入ったらアウェーでは一気にペースを持ってかれるからな。全員が集中して目の前の相手をねじ伏せるつもりで行け!」
「おう!」
いつもは温厚で冷静な真田キャプテンには珍しく熱い演説だ。この熱い気候に影響されたかな?
――こうして過酷なアウェーでの戦いが開始されたのだった。