第三十一話 嫌な夢なら忘れよう
ああ、俺は今夢を見ているんだな。
そんな風にはっきりと認識できる人間は意外と少ないらしい。偉そうに語っている俺にしても、はっきりと夢だと理解できるものは一種類だけ。しかもそれは二度目の人生を歩き出してからの話だ。
そう、年に一度だけ思い出したくもない記憶をはっきりと夢に見てしまうのだ――。
◇ ◇ ◇
絶好調の俺がトップ下のポジションで気持ち良くボールを預かっている。ボールが足に吸い付くようで、これほど調子が良かったのは高校生になって初めてかもしれない。今日の俺ならこの位置からドリブルでもパスでもなんなら苦手なシュートでさえ簡単に決められそうな気さえする。
敵のボランチに囲まれそうになりつつもFWの上がりを待ってボールを溜めてタイミングを計っていた俺は、相手高校のDFの隙をついてゴール前の味方にスルーパスを通した。よし、完璧。
これでシュートが決まればうちの高校の勝ち越しだ。
会心のスルーパスをFWへ通した直後、凄い衝撃に襲われ俺の体が宙に舞っていた。
――え? 何が起こったんだ?
呆然としたまま受け身を取ることさえできず、背中から地面に叩き付けられる。
ぐぇ、痛いじゃないか。
落下の衝撃で肺が押されて勝手に咳が出る。その拍子にようやく真っ白になっていた頭と体の反応が戻って来たようだ。この状況では間違いなく俺は背中側の死角からのファールで倒されたようだな。くそ、倒した奴に盛大に文句を言ってやるぞ。
その時になって、ようやく俺の耳には自分の右足からぶつっと何かが千切れる音と感触が届いた。
あれっ? と立ち上がろうとした体が崩れ落ちる。俺の右足から下が長時間正座した後で痺れているかのように全く動かなかったのだ。さっきの音と感覚といいこれはなんだろう? 確かめようとした俺の脳に激痛が伝えられたのはその瞬間だった。
「あああああー!」
俺は絶叫し、ピッチ上でうずくまり右足を押さえる事しかできなくなった。
今度は夢の舞台ががらり変わり、覗いているのは病院の診察室だ。俺は椅子に腰かけると、右足には頑丈なギブスをはめて傍らには松葉杖を立てかけている。
「……という状態が足利君の右足の現状な訳だ」
レントゲン写真を片手に長々と説明してくれた担当医の先生には悪いが、俺が知りたいのはただの一点だけしかない。
「それで、俺はどれぐらいリハビリをすればまたサッカーができるようになるんですか?」
俺からの端的な質問に、担当医の先生の顔に躊躇いの影がでた。しばらくじっと俺の瞳を見つめていたが、やがてゆっくりと残酷な診察結果を告げる。
「残念ながら足利君は、もう二度とサッカーは――」
◇ ◇ ◇
「――っ!」
声にならない叫びを上げて、跳ねるようにベッドから上体を起こす。
今のは夢、夢だよな。
荒い息をつきながら自分の右足に手を伸ばし痛みを感じるほどきつく握りしめて感触を確かめ、さらに何度も右足を曲げたり伸ばしたりベッドの上でじたばた暴れてちゃんと動くのを確認する。
良かった、大丈夫だ。俺の右足はまだサッカーができるんだ。
安堵の息をついて額の汗を拭った俺に、隣のベッドから声がかかる。日本代表は二人組で寝るように手配していたので、俺と同室なのは最も付き合いが長いこの少年だ。
「アシカ、なんか悪い夢でも見たのか? 寝苦しそうだったけど」
「悪い夢……まあそうですね、でももう目が覚めたから大丈夫です。あ、それより先輩を起こしちゃいましたか?」
「いや、ちょうど起きる時間だったしな。ほら、アシカも起きたんなら一緒に朝飯でも食いに行こうぜ」
「ああ、先に行っておいてください。俺はちょっとシャワー浴びてから行きます」
寝汗をぐっしょりとかいてしまってシャワーで流さないと気持ち悪い。山下先輩もそれを察したのか深く詮索する事なく「早く来いよ」と一声かけて部屋から出ていった。
ふう、一人になると冷静になったのかようやく頭が回り始める。時計で時間を確認すると午前六時半。いつもなら朝練から自宅へ帰ってきた頃だ、確かにそろそろ朝食にはいい時間だな。
そこで時計の上にかけてあったカレンダーに気がついた。サウジで使われている言葉は判らないが、数字のカレンダーならさすがに日付の確認ぐらいはなんとかなる。今日は……、そうか俺があんな夢を見るはずだ。
今日は別に祝日のような特別な日ではないし、覚えやすい日時でもない。だが俺にとっては絶対に忘れられない記憶に刻印された日ではある。
前世においてプレイした最後の試合の日――、つまり俺の右足が壊れたのが何年前か何年後になるのかは不明だが今日の日付けの試合での事だったのだ。
思い出したくもないのにあの事故についての一連のエピソードははっきりと脳裏に刻まれてしまっている。
毎年なぜかこの日に夢で事故の一部始終を見るので忘れたくても忘れる事ができないのだ。
二度目の小学生時代に初めてこの事故の夢を見た時はその日一日使い物にならないほどショックを受けてしまったが、今ではそう悪い物でもないとポジティブに考えている。
何しろ俺は本来は怠け者なのだ。
やり直してからは一日たりとも練習をさぼった事はない俺が言うのに説得力がないかもしれないが、もし心底真面目ならば前回の人生でも練習を休むことなく今と同じぐらい努力していたのではないかと思う。でも、俺は実際にはやり直す機会があって初めてここまで自分を追い込む努力ができた。
その原動力はサッカーが好きだと言うプラスの気持ちと、もう一度あんな目に遭いたくないという恐怖に近い感情だ。
なにしろ記憶力の悪い俺が、また「少しぐらいは休んでも」と怠け癖が出そうな頃にちょうど一年に一度この悪夢がやってくるのだ。
とてもじゃないが練習がきついからさぼろうかと思う気持ちなんかは吹っ飛んでしまう。
自分がどれだけのチャンスを与えられてここにいるのか、夢を見た後では否応なく理解してしまう。またあんな目に遭いたくないならば、たった一回の練習でもさぼっている暇なんかある筈がないのだ。
年に一度、前世の俺が今度の人生も怠けていないか警告してくれているのかもしれない。最近はそう考えるようにさえなってきた。
ま、今年に関しては怠けてもいないし、今日も試合がある俺には関係ないな。
すっかり濡れてしまった寝間着をバッグに詰め込んで、俺はシャワーを浴びに浴室に向かった。
汗と一緒に嫌な思い出も流してしまおう。
さっぱりした状態でホテルの食堂に行くと、監督を含め他の代表のメンバーはほとんどがすでに来て各自で食事を始めていた。
ここはバイキングの上に別に修学旅行とかじゃないんだから、全員で揃って「いただきます」とかはない。
外国の和食には期待できないと聞いていたのでパンとスープにサラダとベーコンエッグ、後はデザートとしてフルーツといった片仮名で統一されたメニューにする。
「おはようございます」
「お、アシカおはよう」
一言朝の挨拶をしてから朝食を食べ始める。うん、まあどちらかといえば簡単な料理ばかりだから外れはないのだが、うちの母の作った物の方が口に合うなぁ。
朝食を食べ終わったメンバーもまだコーヒーを飲んだりしてこの場に残っている。部屋に戻って言葉の判らないテレビを見るより、ここで皆と一緒にいた方が試合前は心強いからな。
「もう全員朝食は食べに来たのかな?」
大きなテーブルを三つほど独占している日本代表の面々を見ながら俺が尋ねると、苦笑いしながら真田キャプテンが否定する。
「いや、まだ上杉が来てないよ。同室の俺が起こそうとしたんだが、声をかけても目を覚まさないし、揺さぶろうとしたらパンチを振り回してきて危ないから眠らせておいた」
キャプテンであるが故に問題児と同室にされた真田の顔には諦めの色が滲んでいる。不憫だなこの人。だからといって俺が部屋を変わってやるつもりは一切無いのだが。
それにしても流石はうちの誇るエースストライカーだ、アウェーの地でも熟睡できるとは神経が図太いぜ。このぐらいの神経をしていないと、最前線でゴールを狙い続けられないのかもしれないな。
そんな事を思っていると、噂をすれば影が差すのか話題になっていた少年が姿を現した。
「おはようさん」
「おはよう、上杉さん」
いつもはつんつんに突っ立っている髪もまだ寝癖がべったりとついているし、鋭い目つきもとろんとしている。彼が起動するまではもう少し時間がかかりそうだ。
なら試合直前とかではなく今起きてもらって助かった。こいつには今日の試合でたっぷり働いてもらわなければならないからな。
全員が顔を合わせたところで山形監督が告げる。
「一時間後にはこのホテルを出るぞ、朝食を食べ終えたら出発の準備しておけよ」
「はい!」
「お、おおう?」
一人目をこすって理解していない人間もいるようだったが、面倒をみるのは同室の人間がやるべきだよな。
俺はそうして腹を押さえながらも上杉を手招きする真田キャプテンと、彼に「俺が愛用している胃薬はドーピングの心配がないタイプのだから、お前にもわけてやろうか?」と尋ねる監督から全力で目を逸らし続けた。
もちろん真田キャプテンの「いえ、胃薬よりむしろ上杉との部屋を分けてくれたほうが助かります」との声も聞こえない。もし耳に入ったと気づかれたら自分がそのルームメイト交代の候補になりかねない。
ふと周りを見回してもチームメイト全員がキャプテンと監督を見ないようにして食事に専念しているし、食べ終わった奴は口笛なんか吹いてやがる。
これも多分監督や真田キャプテンが信頼されているからなんだろう。ま、俺からしたら二人ともチームの責任者で最年少の俺が口出しする立場ではないな、うん。
そう自分を納得させて朝食の残りへと取りかかる。
この時はもう今朝の夢の事なんか思い出しもしなかった。