第三十話 アウェーの洗礼を浴びてみよう
「熱い……」
サウジアラビアに到着した俺達日本代表チームの感想は、その一言に集約されていた。日本の夏はサウナに入っているような「蒸し暑い」場合が多いが、こっちの場合は日差しで肌がこんがりとトーストのように美味しく焼かれていくんじゃないかと錯覚する「乾燥して熱い」気候なのだ。
空調の効いた飛行機から出た途端に吹き付ける熱風と夜にも関わらず落ちない気温に代表チームの全員がちょっとたじろいだ。このサウジでの世話をしてくれる協会からの案内人は「異常気象の影響でたまたまここ数日は暑い日にあたっただけだよ」と言うが、それって明日試合をする俺達にとっては全く慰めになってはいないよな?
「とにかく一旦ホテルに荷物置いたら今日はさっさと寝て。明日は試合会場の下見に行くぞー」
「おー」
暑さと疲れからか監督と俺達の声が棒読みになったのは仕方ないだろう。だが今日は寝て時差ボケを解消し、明日の早い内に試合会場のピッチの状態を確認しておかないと、サウジ戦の試合のプランを立てるのに響いてしまうからな。
長くシートに座っていたためにちょっと行儀が悪いが、各自が思い思いに「んー」と背伸びなんかで凝り固まった体の関節をほぐしながら、チャーターしてあったマイクロバスでホテルへと向かう。
◇ ◇ ◇
「会場が使えないとはどういう事だ!?」
監督の怒鳴り声が聞こえる。
ホテルで荷物を整理するのもそこそこに、ホテルの各部屋に飛び込んで休んでいた俺たちは、時差のせいか意外と全員が寝坊もせずに朝早くロビーへ集まっていた。
俺達日本代表のメンバーがその大声にビクッ震える。山形監督が気合をいれるためではなく、怒りでこんな風に声を荒げるのはあまり聞いたことがない。自然と皆の目が「何事だ?」とそこに集まってしまうな。
しばらく案内役とやりとりしていた山形監督は険しい表情のまま「予定変更だ」と俺達に告げた。
「試合会場の下見はできないことになった。別の練習場で軽く体を動かして時差ボケを飛ばしてコンディションを整えるだけにしよう」
語気の荒い監督の言葉にチームの皆が顔を見合わせて不審そうに頷く。何かおかしい事態なのは判っているのだが、山形監督の機嫌が悪そうなので尋ねにくいといった所か。ならばここは空気を読まないで我が強いと一部で評判の俺の出番だろう。
「それは構いませんが、何かあったんですか?」
俺の問いに反射的にじろりと睨み返した監督だが自分が興奮していたのに気がついたのだろう、一つ大きく息を吐いてから答える。
「予定していた試合会場は急遽修理が必要になって、明日まで入場禁止だそうだ。でも明日の試合にはなんの影響もないから気にするなだとよ。ちなみに、その修理が必要な箇所はサウジの試合前日の練習が終わった直後に発見されたそうで、サウジ代表チームの練習には問題なかったみたいだな。自国の練習中は大丈夫だが俺達が会場に向かおうとすると危険だと判断されるなんて、なんともまあ良いタイミングで修理する所が見つかったもんだ」
監督の抑えきれない感情が込められた報告にちょっと驚いてしまう。これって日本代表にピッチで練習させないように妨害しているんだよな。
話には聞いた事があるが、これがアウェーの洗礼って奴なんだろう。フル代表ならともかく、この年代からやるものなのか? それともこのぐらい子供の頃からサウジアラビアのチームに苦手意識を持たせようとしているのかもしれない。
俺以外のメンバーも動揺したのを雰囲気から感じ取ったのか山形監督は、厳つい髭面を強ばらせながらなんとか笑顔と呼べる物へと変化させた。
「ああ、お前らは何も気にする事じゃない。ピッチの確認が明日になっただけで、お前らのコンディションを整えておく軽いトレーニングは結局は必要だからな。面倒な事はこっちで始末しておくからお前らは明日の試合に向けて集中してくれればいい」
正直言えばまだ難しい表情の方がまだマシだったような、頬をひくつかせながらの朗らかな作り声と強ばった笑顔に俺もそれ以上は突っ込めずに終わった。
「さあ、気を取り直して練習場へ行くぞ。その後はミーティングだ、明日に疲れを残さないようにさっさと済まそうか」
チームメイトもまだ納得してはいないようだが全員がバスへと乗り込んだ。アウェーとはいえこれ以上のトラブルが無いことを祈ろう。
だが、考えてみれば試合会場での練習を妨害されるぐらいなら、アウェーの試練としては軽い物だ。フル代表のワールドカップ予選なんかになると、ほとんど犯罪に近いあるいは犯罪そのものの妨害工作が行われるそうだしな。
そう無理矢理自分のもやもやする感情を「いい勉強になった」と結論づける。これ以上精神的に消耗するのはそっちの方が損だ。
代わりにと案内された練習場は幸いな事にまともな物だった。芝の状態も日本に比べると多少は粗があってもグラウンダーでパス回しをするのにもなんら支障はないレベルである。元々サウジの気候では砂漠に近くて乾燥しすぎの芝の育成には向かない環境なのだ。明日のピッチもこれぐらいなら文句はないが、事前に日本チームに慣れさせないようにしている辺りからそれは望み薄か。
ピッチコンディションは明日考えるとして、日中の暑さだけはどうしようもないな。トレーニングウェアなどはウォーミングアップの時点ですでに汗でぐっしょりと濡れてしまっている。これは体力のない俺一人に限った事ではなくチームの全員に共通していて、皆が濡れた犬のように舌を出して息を荒げている。
俺達がすぐに一汗かいたおかげでボールを使った練習での動きが軽くなると、すぐに監督が「もういいだろ」と撤収の宣言をする。
「この練習場じゃ明日のピッチの予行演習にはならんし、これ以上やってもスタミナを消費するだけだ。クールダウンしたらさっさと帰るぞ」
すぐにでもホテルへ帰りそうな勢いだ。でもここで練習してコンディションは整ったようだが、試合会場の下見なんかはどうなっているんだろう。
「試合会場の下見の方はどうなってるんですか?」
「……後で話す」
ちらりと横目で俺を見るとすぐに逸らし「さ、帰るぞ!」と手を叩いてメンバーを急かす。
◇ ◇ ◇
ホテルの会議室のような部屋でミーティングを開始するが、どうも今日のこれまでの流れのせいか空気がギスギスしているようだ。
山形監督がそんな雰囲気を無視するかのように明日のサウジアラビア戦への戦術を指示し始める。
「明日のサウジ戦はアウェーの初戦だが、最重要の試合になる。これまで日本もサウジも二勝で勝ち点では同点、しかし得失点で日本が上回って順位は上だ。だが、ここで負けたりするとすぐに逆転されてしまう差でしかない。負けはもちろん論外だが、アウェーだから無理せずに引き分けの可能性も考えて戦う事にする」
そこで言葉を切ってぐるりと代表のメンバーを見回す。そして僅かに躊躇した後「スタメンをいじるぞ」と告げた。
これまでの二試合のスタメンはほぼ固定されていたから、その監督の宣言に少し身構える。まさか俺じゃないよな?
「島津、今回はベンチスタートだ。アウェーだからな、試合の入りは慎重にしたい」
「……承知しました」
スタメン落ちしたんだ、面白くはないだろうが表面上はそれを見せない島津だった。これは守備を安定させるためだけなら必要で妥当な交代かもしれない。
でも攻撃力を落としても守備力を高めようとは、このチームのコンセプトからは外れているぞ。山形監督もネットやマスコミの批判で日和ったのかな。
そんな俺の思惑も知らず、監督が明日の試合に向けた説明を続ける。
「サウジはこれまでうちと同様ヨルダン・中国相手に勝っているが、内容は二試合併せても一失点で連勝してきている守備が優秀なチームだ。一時予選では無失点だった結果も考えればこのグループ最高のディフェンスと評価されている。そのライバル相手のアウェー戦を勝つか、最低でも引き分ければぐっと予選の首位通過が近づく。だが、そんなサウジから得点するのは容易ではない、ましてや先に失点してしまえば相手はさらに守りを硬くするだろう。そのためにも、さっきも言ったが明日の試合は前半は少し抑え目にスタートしろ」
監督の言葉に多少は不満の色もあるが、とりあえず続きを聞く体勢の俺達にさらに監督からの指示は続く。
「サウジのこれまでの得点はカウンターが主だが、ミドル・ロングシュートによるものも多い。特に向こうのエースで得点王のモハメド・ジャバーは「砂漠の鷹」っていわれるぐらいスピードと決定力を持ったFWだ。それにキーパーも通称「砂漠の蟻地獄」と二つ名を付けられているし、中盤でエースキラーを請け負っているボランチも「砂漠の毒蛇」という具合に向こうのキープレイヤーにはニックネームがついている。それぐらいすでにサウジ国内では有名になっている選手達だ」
「なんかチーム名がサウジアラビア代表とかより「砂漠の動物園」か「砂漠の昆虫館」が似合いそうですね」
俺の素直な感想になぜか吹き出す音が響く。
でも動物や昆虫ばっかりなのはいただけないが、通称とか二つ名とかはちょっとあこがれるな。「皇帝」とか「魔術師」とか格好良い異名を持った過去の名プレイヤーも多いしな。
監督も笑いながら「向こうはモハメドとかいう名が多いから二つ名は区別するためもあるんだろう」と補足する。
「まあ動物や昆虫はともかくサウジが強力なチームなのは間違いない。試合会場の下見もできず、アウェーで審判も相手チームよりの笛を吹くだろう。それに気候も日本の夏とは違い、乾いた暑さでスタミナの消費も早く体調を整えるのも苦労すると厳しい材料が多い。
前半は不本意だろうが守備を第一に考えて、サイドバックはオーバーラップを控えめにしろ。明智とアシカも片方が攻撃的な位置に上がれば、もう一人は必ず下がってアンカーと二人で中盤の底を支えるんだ」
「でもそれじゃ、守備一辺倒にならないっすか?」
「うちの三人のアタッカーならそこまで守備的にはならんと思うが……。まあ前半の様子を見て、いけそうなら後半は島津も投入して攻撃的にチェンジする。ここで白星を取れれば大きいからな。あくまで守備的なのはゲームの最初だけで勝ちを諦めた訳じゃない。お前らはもちろん勝つつもりでやれよ」
「はい!」
これらの指示によって明日の試合はどう転がるんだろうな。
いつもの超攻撃的チームから少しずれた作戦に「上手くいってくれよ」と心の中で呟いた。そうでないと試合が厳しくなるし、サウジ納豆やサウジ饅頭でも探しに走り回らないと日本に残している女性陣に許してもらえなくなってしまうからな。