第二十九話 出発前夜を楽しもう
「んーそれじゃアシカは明日の夜に出発なんだ」
「ああ、明日の金曜の夜の飛行機に乗ってサウジ入り。でそのままホテルに直行でお休み。次の土曜は軽く練習とピッチの状態を確かめて一泊したら、次の日の午前中にはもう試合して即帰国だぜ。金曜の午後に出て日曜の夜には帰ってくる予定なんだけど、これって結構なハードスケジュールだよなぁ」
またも夕食をうちの家で一緒にとっている真の質問に、今回が初の海外での試合になる俺はタイトに詰まっているスケジュールを答える。
観光する暇もないと、ちょっと不満げな俺の態度を母がたしなめた。
「速輝ったら、そう文句を言わないの。中学校だってあるんだから、お休みして代表の試合ばかりしている訳にもいかないでしょう?」
「はい、了解です」
首をすくめてすぐに不服気に膨らませていた頬を普通に戻すと態度を改める。これは明日サウジアラビアに出発する俺を激励するための夕食会だ、主賓の俺が子供染みた態度で機嫌を悪くしていたら雰囲気が壊れるからな。
それに中国戦で楊から派手に吹き飛ばされて以来、代表の試合に関して常に心配そうな母に対しては強くは出れないのだ。むしろはっきりと「アシカが死んだかと思ったよー」と眼鏡の真紅のフレームに負けないくらい目を赤くしながら告げた真の方が気楽だ。「そんな訳あるかい」と大阪弁でツッコめばいいだけだったしな。
それにしても真は幼馴染とはいえ一応他人の家なのに、長い髪は無造作に後で括っただけで着ている服は学校指定のジャージ姿か。こいつ自分の家と勘違いしてるんじゃないかってほど完全にくつろいで夕食をとっているぞ。
その無防備にリラックスしている真はともかく、未だ心配そうな母には参る。あの中国戦の打撲にしても試合後に自分だけでは上手く貼れなくて困っていたために、仕方なく尻に大きな湿布を貼るのを手伝ってもらっただけにばつが悪い。
とにかくそんな二人との出発前食事だ、あんまり逆らっても良くなさそうだし「俺、今度の試合から帰ってきたら宿題をするんだ」とか口が滑って戦場へ出かける兵士のように妙なフラグが立つのも困る。黙ってとりあえずは我が家の試合前の定番であるトンカツでもいただきましょうか。
おお、奮発して薩摩黒豚のロースを使ったトンカツは、カリッと揚がり自然な甘みでソースは少量でもいいくらいに文句なく美味しい。
付け合わせのキャベツと一緒にがつがつと食べていると、あっという間に自分の分を平らげてしまった。素材に良いものを使用したために量が少なくなったのが唯一の残念な点だ。まあ、他にも出汁の効いた野菜の煮物や焼き魚なんかもあるからおかずには困らないか。食事の度に母が料理が上手くて良かったと感謝している。もしも料理が苦手だったら、そんなにまずい食事付きの少年時代を二回も繰り返すのはかなりきついからな。
「ほら足りないならこっちも食べなさい。速輝は成長期なんだから」
「ん、私のも一切れどうぞ。トンカツより納豆の方が好みだしね」
……なんでだろう、女性二人から主役のおかずを貰うというハーレムめいた状況のはずなのに、ときめきとかいったものが全く無いのは。
まあ、相手が母親や真ではそんな雰囲気になっても困惑してしまうけれど。
女性を気にかけるのは俺が世界一のサッカー選手になってからでも遅くはないよな。サッカー選手としての成長は順調なんだから女運については嘆く方が筋違いか。
そこに小学生並に色気のない幼馴染が話しかけてきた。
「アシカのお尻はもう大丈夫なの?」
「ああ、それはもう全然痛みもないし心配いらないけれど、お尻が痛いって恥ずかしいからあんまり口に出さないでくれ」
「そうよ真ちゃん。この子は不器用なくせに自分でお尻に湿布貼ろうとして、何回も紙テープを駄目にしてたから無理やり私が貼っちゃったの。その時でもぎゃーぎゃー騒いだぐらい恥ずかしいみたいなの」
なぜか嬉しそうに話す母に箸が止まる。嫌がっているのが判るんなら黙っていてくれよ。なんで母親って子供の失敗を楽しそうに口にするんだ? そりゃ本当にマズいのは喋らないでくれるけど、結構俺からすればグレイゾーンのエピソードでも口を滑らすよなぁ。
「とにかく他の人には言わないでくれ、頼むよ」
「はーい」
こんな時だけ女性二人の声は揃うのだが、その目はしっかりと笑っていた。
――出発前夜に主役が笑い者にされるってどうよ?
「あ、アシカ。お土産はサウジアラビア納豆でいいからねー」
「じゃあ私はサウジのお饅頭でいいわ。それなら空港で売ってるから手間が省けるだろうし」
どちらも売ってません。
◇ ◇ ◇
山形はふうっと大きくため息を吐くと、パソコンの電源を落とした。目を瞑ると両手の平でぐいぐいと押して乱暴にマッサージをすると、少しだけ酷使された眼球の疲れがとれていくようだった。
デスクの引き出しのどこかには目薬もあったはずだが、それを探すのさえ面倒でたまらない。
そのまま自堕落に椅子の背もたれにぐったりと腰かけたまま手で目を抑えていた。
「監督、どうしました!?」
驚いたような声をかけてきたのはヨルダン戦の前夜にも話に付き合わせたスタッフの青年だ。
また深夜にも関わらず監督室に明かりがついていたので、不審に思ったのか様子を見に来たのだろう。そこへ監督室の主が椅子でぐったりとして目を押さえているのだから、監督が泣いているのかと誤解してもおかしくはない。動揺するのも当たり前ではある。少しだけ面倒だなと感じつつ山形は目から手を離して彼へと向き直った。
「いや、ちょっと目が疲れたので休ませているだけだよ」
「はあ、そうですか……」
勢いよく飛び込んだ割に相手から冷静な対応をされて戸惑っている青年の姿に苦笑が洩れる。どうもこの青年は山形の事を勝手に師匠のように思って尊敬しているらしい。その恭しい態度がちょっとくすぐったいし、山形の疲労した精神を回復させてくれる。
さて、この青年が来たってことはそろそろ眠らないとマズい時間帯なのだろう。そう思って時刻を確かめると、もうすでに真夜中を過ぎている。これ以上就寝が遅いと明日に響きかねないな。
山形は「やれやれ」とぼやきながら首を振ると、ぼきぼきという音が傍らの青年に聞こえるほど鳴ってしまった。しばらく画面を凝視したぐらいで首や肩が凝りまくっている自分の体に、最近年を感じてしまう山形である。
「凄い音がしましたけど、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっとネットでのうちのチームの評判を覗いてたら、見入ってしまって肩がやたらと凝ってしまっただけだ」
山形の言葉に青年は眉を曇らせる。どうやら彼も今の代表チームの評判が芳しくないのは承知しているらしい。
ネットやマスコミからの悪評はこの年代につきまとう負債のような物で、山形が就任する以前からずっと続いている。
前任の松永という監督と面識はないが、関係者から話を聞く限りではどうも監督としての実力で選ばれたのではなく、コネなどそれ以外の要素で監督になったようだった。
それでもカルロスという絶対的なエースがいればまだ彼を中心にチームを作ればよかったのだが、そのカルロスを失ってチームが崩壊したらしいのだ。ならばまた新たに一から作り上げればいいのだが、松永にはバラバラになったメンバーをまとめるだけの力量がなかったって話だ。もともと面倒な事はスタッフに任せて対外向けの看板になっていたようだったそうだしな。
こうなった時点でマスコミやネットではこの年代のチームを叩くのが流行のようになったのだ。
それでも我慢し松永を使い続けていた協会も、アジア予選で危うく一次予選で落ちかける醜態にようやく重い腰を上げたのだ。……生贄の羊を呼ぶための行動という後ろ向きなものだったが。
松永が予選落ちすれば「誰がこいつを監督にしたんだ」と協会の責任問題になる。
だが山形の場合は同じ予選落ちという結果になってもちょっと事情が違う、「前任者が体調不良で急遽探した監督」が「協会からの意見を無視し、新任の監督が功を焦って無茶な戦術を試して自滅」という事になると山形以外の誰にも責任が行きにくくなってしまうのだ。
そのために協会とのつながりが薄い山形が新監督に選ばれたのだろうし、これまでのスタッフがチームから離れるのもすんなり了承されたのだろう。全てが被害を最小限にしようとするための動きである。
明日はもうサウジアラビアに出発するのに、今更政治的な事で頭を悩ますなんてな……。山形はもう一度首を振って嫌な思考を消そうとする。幸い今回は痛そうな音もせず、暗い思考もなくなった。すでにサウジ戦については腹案ができているのだ、これ以上睡眠時間を削って考えても何ら益はない。
「じゃあ、明日の準備だけしてもう寝るか」
「ええ、そうですね。明日出国するんですから忘れ物しないでくださいよ」
雰囲気を明るくしようとして、冗談を軽い口調で口にする青年に山形も苦笑いで応える。しばらくバッグの中身を点検していた山形だったが「む!」と声を上げた。
「危ない、一番大事な物を忘れるところだった」
ごそごそと引き出しの中を探る山形に不思議そうに青年が尋ねる。
「何です一番大事な物って? パスポートですか、それとも作戦を書いたノートとか?」
「いや、愛用の胃薬だ」