第二十七話 軽量のハンデを乗り越えよう
後半の残り十分、これぐらいの時間帯からは体力と精神力の強さが問われる勝負にもなってくる。
俺は精神力はともかく体力の方はちと自信がない。スタミナは途中退場が当たり前だった小学生時代とは比較にならない程ついてはいるが、まだ中学生の試合時間には完全には適応しきってはいない。この年代になってから前後半が三十分ずつと小学生の時より合計で試合時間が二十分も延長されたのだから。
余裕のある試合ならともかく敵が強く全力で戦わねばならない場合は終盤でガス欠に近くなってしまう。ましてやこれはプレッシャーがかかり一瞬の油断もできない国際試合の真剣勝負だ、スタミナの消費は自身の想像以上に激しかった。
だが、それはたぶん中国代表も同じはずだ。いや、むしろ前半も後半も時間一杯ではなくともあんな無茶なプレスをしかけてきたんだ、俺より早くエンプティランプが点灯してなければおかしい。
だから俺も弱音を吐いてはいられないよな。
監督の喝で蘇ったのか開き直ったような真田キャプテンは精神的再建を果たし、テキパキとDFに指示を下しては守備の引き締めをしている。よほど呼ばれたのがショックだったんだな、あのあだ名……可哀想だから俺も忘れてやるとしよう。
だがその守備では常に問題になるのが右サイドである。
島津が上がりすぎるためにうちの右サイドはフリーパスになっている。俺だってスペースを埋めようと努力はしているが、中盤の穴ならともかく日本の最終ライン近くにまで侵入している敵のウイングなんかマークしていられないって。
今更そんな文句を悠長に言っていられる暇はないか。そのぐらい承知で攻撃的布陣を組んだんだしな。
それよりも困った事には、中国が元気を取り戻してまたプレスを強めて来たのだ。
いい加減に諦めてくれよ。一点取り返したぐらいで士気が上がるなんて単純すぎる奴らだな、もう。
自分が逆の立場なら「後一点で追いつく」と元気一杯になっただろう事は棚に置き、相手のプレスをかける勢いに辟易する。
ちっ、前へ出ると中国のディフェンスに邪魔されてパスが来ない。ならば少しポジションを下げてボランチの位置にまで退くか。
さすがにここにまで下がると最終ラインのすぐ前だ、プレスもまだ緩くボールだって回ってくる。パス回しには苦労しないな、ここでちょっとボールを落ち着かせるか。それにしてもなぜか周りの敵もなかなか近づいて……む?
「真田キャプテン、後ろだ!」
最終ラインでパス交換をしている真田キャプテンへ必死の声を出す。だが、それは一歩遅くすでにキャプテンからのパスが別のDFに渡っていた。
三人のDFがボールの出しどころを探り合ってっていると、大きな体のくせに静かに楊の奴が真田キャプテンからパスを出されたDFへと接近していたのだ。
武田と真田キャプテンがずっと張り付いていたから、もう一人のDFはこの巨人のことを自分の担当じゃないと軽視していたのかもしれない。それが守備をしている時ではなくボール回しをしている時に隙となった。楊の突進に慌てたDFが俺へとボールを蹴る。うん、あのでかい体の奴に突っ込まれてビビるのは判る。でもそれは悪手なんだよ。
こんな場合は、もう右サイドの前方へ狙いは適当でいいから蹴れってハーフタイムで指示があっただろう。こんな風にパニックになりかかってボールを近くの味方に渡そうとすると、ほらそこに罠を張って狙って待っている奴がいるんだ。
中国のもう一人の小柄なFWが照準の甘いパスを、俺に届く前に横からかっさらっていく。
くそ、こんな日本ゴール近くの危険地帯でボールを取られるとはマズすぎる。失点の予感に総毛立ちながら、必死にダッシュで中国FWの背中を追う。
そこに武田が駆けつけて、ゴール方向へのコースを切る。よし、ドリブルが止まった、そう思った瞬間にボールがはたかれた。
そのボールの行く先はゴール前のバイタルエリア、つまりペナルティエリア正面のすぐ外である。敵に渡ればシュートもドリブルで中へカットインも狙えるまさに「死命を制する場所」だ。絶対にここで敵にボールを持たせてはいけない。
全力でボールを追うが、俺が追い付くより先にボールはパスの受け手へと渡ってしまった。
中国チームのバイタルエリアでラストパスを受け取る人間なんてこいつに決まっているよな。
そう、中国のエースストライカーである楊にこんな危険な場所でボールが渡ってしまったのだ。日本チームのメンバーだけでなく、会場にいるサポーターまでもが一斉に息を飲んだようだ。全員の脳裏に「危険」の二文字が点滅している。
ただ一つだけ幸いなのは、彼がゴールに背を向けている事。ボールを迎えに戻って来たために、シュートするにはターンしなければならないのだ。
そこにようやく追いついたDFが楊の背に抱きつくようにして密着マークする。自分のパスミスで奪われたボールをなんとしてでも取り返すつもりなのか、歯軋りが聞こえそうな悲壮な表情をしている。
だが、DFの必死の覚悟もほんの僅かな時間しか稼げずに、その体ごと物理的に取り除かれる。
楊が大きな手でかき分けるようにぐるりと回しながら反転すると、うちのDFは回転ドアに巻き込まれたように自分の意志とは関係なく体がずらされてゴールへの道を空けてしまったのだ。
では彼の努力は無駄だったのか? そんな事はない。その抵抗のおかげで俺が楊の前に追いつく間ができたのだ。
「てめえ、でかい面してんじゃねーぞ!」
日本語が通じないと判っているからこその無茶苦茶な言いがかりの気勢を上げて、俺が吹き飛ばされたDFの代わりに楊の前に立つ。
さあ来い! 俺はただ吹き飛ばされたりはしないぞ!
簡単に俺の体は吹き飛ばされた。
楊の肩でのチャージにぶつかった上半身が弾かれたように、楊と反対方向へと振られたのだ。あまりの衝撃と勢いに一瞬視界がブラックアウトしてしまうほどのチャージだ。
だが、一番恐ろしいのはそのチャージが反則ではないという点だ。
楊からすれば軽く肩を当てて邪魔を排除しただけにすぎないし、ファールする気もなかった正当なプレイである。ただこっちが今までにこんなパワフルなショルダーチャージは受けたことがないために、派手に吹き飛ばされる事になったのだ。
だが俺もただ意味もなく突っ込んで吹き飛ばされたのではない。しっかりと収穫を倒れた足下に得ている。
上半身は無防備にチャージをされたようだが、足は楊からボールを奪っていたのだ。さすがにショルダーチャージとボールコントロールは同時にはできないからな。こっちはまともに喰らうのを覚悟していれば足を伸ばしてボールを引っかけるのも可能だ。
まあほんの一瞬、肩がぶつかってから尻餅をつくまでの間だとはいえ、体だけでなく意識まで飛びそうになったのは計算外だったけどな。まったく楊と俺との間には戦車と軽自動車の衝突ぐらいのパワー差があるのではないだろうか。
芝の上に尻餅をついたままボールを明智へとパスする。あ、マズいか? 足を動かした途端に左の尻に電気が走った。少しだけ出したボールの精度が落ちたが、明智は上手く受け取ってくれたな。
痛てて、立ち上がろうとしても倒れたときに尻を打ったせいか少し痺れるような違和感があって、右足だけに体重をかける片足立ちになる。
だが、このぐらいなら俺の自己診断ではダメージは浅い。自分の力でちゃんと立ち上がれたんだし、ちょっと今やっているみたいに手でとんとんと叩いて痛みの元をほぐせばすぐに回復しそうだし、プレイには支障はないはずだ。
俺が自分の体と相談している間にも日本のカウンター攻撃が終了していた。
明智から左FWへ、そこからまた明智にボールを戻して上杉を囮に走り込んだ左FWへのスルーパスだ。
オフサイドラインを破りながら「どうせ自分には来ないだろう」とでも思っているような左ウイングの表情が「まさか、俺にパスが来るとは!」と驚きと喜びに変化し「お願いだ、入ってくれ!」とちょっと心配そうな顔でシュートを撃つのをその場で棒立ちのまま観察していた。
そのシュートの結果は見事にゴールネットを揺らした。日本の三点目でおそらくは駄目押しになる試合を決定づけるゴールだ。
左FWが何か叫びながら走り回っているが、ちょっとここまでは聞こえないな。尻が痛くてあそこまで駆け寄ってもいけないし。もしかしたら自分の名を叫んでアピールしているのかもしれないな、そういえばあいつの名前は何だったっけ? 確か……。
えーと、まあいいか。
それより日本のゴールで時計が止まっている間にメンバーチェンジするみたいだ。交代するメンバーは島津と俺か。まあフル出場できないのは不本意だが、スタミナが尽きかけているのと地面で打った尻がまだじんじんと熱をもっているようなので交代させてもらえるならそれはそれでありがたい。
痛みは治まっているが、走るのは辛いかなとゆっくり交代のメンバーの所へ歩いて行くとなぜか観客席から「アシカ」コールが響いた。え? なんで? と思ったが、どうも俺は怪我も覚悟で楊の突進を止めた勇気ある少年のような扱いになっているらしい。
ボランチの交代メンバーも「アシカ、ナイスファイトだ!」と肩を叩いてくる。いえ、別に覚悟していたとかではなく、成算があったからボールを取りに行ったんですが。それであんなに弾き飛ばされたのは俺のミスなんです。
なんとなくサポーター席からの温かい拍手に素直に応えられず、遠慮がちに右手を上げる。拍手がいっそう強くなるが、うう、なんだか自分が悪いわけでもないのに嘘をついているようでどうしていいか判らんな。
ピッチから出ても監督が妙に優しく「お疲れ」と頭を乱暴に撫でてくるし、一緒に退場した島津まで「無事か?」と尋ねてくる。
自分で歩いて戻れるんだから大丈夫に決まっているだろうが。
念のためベンチ前で横になってフィジカルコーチに見てもらっても、半分お尻を出されて冷却スプレーを噴射されただけだった。
その肌を刺す冷たさに思わず「きゃっほぅ」と奇声を上げてしまったじゃないか。
「まあ見たところ軽い打撲だな。今日と明日までは湿布を貼っておけば充分だろ。万一明後日まで痛みだけでなく痺れがとれなければ病院で検査してもらおうか。ま、ケツが痛いだけで大したことなさそうだ。これからの試合の日程も大丈夫だろ」
とお墨付きをもらった。実際冷やしてもらえばほとんど痛みは消えて、尻の痛みより疲れの方を意識するようになっている。
ズボンをはき直しつつ試合途中で交代させてもらったのもいい休養になるかと考えて、頭をプルプルと振る。何を腑抜けているんだ。途中で代えられるってのは体力的に下に見られているって事だぞ、良いことなんか一つもない。
それに今回は楊に吹き飛ばされた大事をとっての交代かもしれないが、前回のヨルダン戦も俺は途中交代しているんだ。体力をつけたつもりでも、まだ監督の目には頼りなく映っているのかもしれない。もっと精進しなければいけないな。
ベンチに座るとまだ左に尻の辺りがじんじんと痛みを訴えてくるが、ここで変な挙動をするとまるで痔みたいで格好悪い。いや痔も大変な病気だとは思うし、誰もベンチに座っている俺を観察してはいないと思うが、代表戦なんだし自意識過剰になるのぐらいは許してくれよ。
ちょっともぞもぞしながらも観戦していると、俺の治療中――とはいっても横になってスプレーをかけられただけだが――の間も試合は続行され残り時間も少なくなっている。
俺や島津を下げて守備的なサイドバックとボランチをいれたのは、四点目は望まずにこのまま試合を終えろというメッセージだろう。まるで野球で九回にリードしてストッパーを投入したみたいだな。
こうして日本はゲームメイカーの一人である俺の代わりに、体でも止められる大型なボランチ、いやこいつもプレイスタイルはアンカーに近いMFを入れた。そしてウイング並の攻撃力を誇る島津の代わりには、堅実でオーバーラップを控える傾向のタイプのDFだ。
この二人にはゴールに直結する攻撃力は期待できない。
おかげで上杉は「またパスが来ぇへん」とベンチに向かってぶつぶつ文句を言うし、他のFW二人はウイングからサイドMFにまでポジションを下げられた。もう攻める気も、攻めさせる気もないみたいだな。
そこまで他の守備を固めた上で山形監督は楊に対して「DFが増えたんだから、あなたにもう一人プレゼント」作戦で三人がかりでマークすることにした。それが当たったのかガチガチに固めたゴール前で中国の巨人も封殺し、そのままのスコアで逃げきるのに成功したのだった。
アジア最終予選第二戦、三対一での勝利。
ホームでの二連勝はこれから始まる地獄のアウェー戦に向けて、この上ないスタートとなった。