第一章 希望の光 第一部 鼓動
本作を覗いて頂き、誠にありがとうございます。作者の月城るな(つきぎるな)です。
本作には、性的表現を描写しているシーンがございますので、R15とさせていただいております。
また、本作に登場する病気、人物、団体はフィクションであり、実際の病気、人物、団体とは関係ありません。
ある春の朝だった。
まだ少しだけ冷たい空気が、開けた窓から静かに部屋へ流れ込んでくる。カーテンがわずかに揺れて、その向こうでやわらかな日差しが白い壁を照らしていた。由紀はベッドの中で一度まぶたを開け、ぼんやりと天井を見上げる。どこか遠くから、通学途中らしい高校生たちの声が聞こえてきた。
枕元に置いたスマートフォンを見ると、時間はまだ七時を少し過ぎたばかりだった。アラームより、少し早く目が覚めてしまったらしい。
布団の中でゆっくりと体を伸ばしながら、由紀は小さく息を吐いた。
大学に入学してから、まだ一ヶ月も経っていない。新しい生活には少しずつ慣れてきたけれど、どこか落ち着かない感じがまだ胸の奥に残っている。
リビングから、食器の触れ合う音が聞こえた。母が朝ごはんの準備をしているのだろう。由紀は布団から起き上がり、部屋を出る。
「おはよう」
台所で味噌汁をよそっていた母が振り返り、そう言って笑う。テーブルには、すでに朝ごはんが並んでいて、「おはよう」と返すと、由紀は、そのまま席に座ってテレビを眺めていた。
テレビのニュースキャスターが、落ち着いた声で何かを伝えている。
「——続いてのニュースです。国が定める“指定難病”について、新たな研究が進んでいることが分かりました——」
由紀は味噌汁の湯気を見つめながら、ぼんやりとテレビの音を聞いている。
画面には、白衣を着た研究者の映像や、病院の外観が映し出されていた。
「指定難病は現在300以上あり、その多くが原因不明で治療法が確立していない病気とされています——」
母親がリモコンを手に取り、チャンネルを変える。
別の番組の明るい音楽が、すぐに部屋に流れ始めた。
「こんなニュースばっかりだと暗くなるわよね」
母はそう言って、何事もなかったように台所へ戻る。
由紀も特に気にすることなく、食べかけのご飯に箸を伸ばした。
食事を済ませ、自分の部屋に戻ると、由紀は机の上に置いてあった櫛を手に取り、鏡の前に立った。
窓から差し込む朝の光が、鏡の端をやわらかく照らしている。寝ている間に少しだけ乱れた髪の毛には、ところどころに小さな寝癖がついていた。
指先で髪を軽く持ち上げてから、櫛をゆっくりと通すと、髪が肩のあたりで静かに揺れる。
もう一度、今度は少し丁寧にとかす。黒い髪が光を受けて、柔らかく動くのを、由紀はぼんやりと見つめていた。
櫛を動かす手を止めて、ふと鏡の中の自分の顔を見る。
まだ完全に目が覚めていないのか、少しだけぼんやりした表情をしている。メイクもしていない、いつもの朝の顔だった。
特別好きでも、嫌いというわけでもない。ただ、見慣れた自分の顔がそこにはあるだけ。
由紀は少しだけ首を傾けて、前髪を指で整える。
それからもう一度、髪に櫛を通した。
さらりと整った黒髪が、肩の上で静かに落ち着く。由紀はそれを確認するように、もう一度鏡を見つめたあと、小さく息をついた。
机の引き出しを開けて、小さなポーチを取り出す。中には、いつも使っている最低限のメイク道具だけが入っていた。
まず、軽く肌を整える。鏡に近づきながら、慣れた手つきでファンデーションを薄くのばしていく。派手に作り込むようなメイクは好きではないので、ささっとビューラーでまつ毛を軽く上げて、リップを手に取り、ゆっくりと唇に色をのせていく。それだけで、印象もかなり違うように思えるのだ。
ポーチを閉じて机に置き、今度はクローゼットを開けて、特にこだわりもなく、適当に近くにある服を手に取る。
白いトップスに腕を通し、それから薄桃色のロングスカートを履く。布が足元でふわりと広がり、かすかに揺れた。鏡の前に立って、スカートの形を軽く整える。
時計を見ると、そろそろ大学へ行く時間になっていたので、充電しておいたパソコンとスマートフォンをバッグに入れて、ポーチからリップを一本取り出して、中に入れる。
「行ってきます」
玄関で靴を履きながら声をかけると、母が台所から「いってらっしゃい」と返す声が聞こえた。
外に出ると、空気は少しひんやりしていた。けれど日差しは柔らかくて、春らしい明るさが街に広がっている。
駅へ向かう道の途中、冷たい風がふわりと吹いて、道路の端に残っていた桜の花びらが、軽く舞い上がる。
由紀はそれを少しだけ目で追いながら、歩き続けた。
大学まではおよそ一時間。
途中で二回、電車を乗り換える。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、車内はすでにそこそこ混んでいて、由紀は吊り革につかまりながら、窓の外をぼんやりと眺めている。
電車が動き出すと、見慣れた住宅街の景色がゆっくりと後ろへ流れていった。
小さな公園やコンビニ、通学中らしい制服姿の中学生。どれも日常の景色だった。
けれど、大学に通い始めてから、その景色が少しだけ遠く感じるような気がしている。
しばらくして電車が大きな駅に止まり、由紀は人の流れに合わせて降りた。
ここが最初の乗り換えだ。
改札の中の長い通路を歩きながら、案内板を見上げる。
まだ慣れない駅の構造に、ほんの少しだけ戸惑いながら、次の路線のホームへ向かった。
二本目の電車は、さっきよりもさらに人が多かった。
ドアの近くに立ちながら、由紀はスマートフォンを取り出して時間を確認する。
ちらりと窓の外を見ると、次第に高い建物が増えていく。街の雰囲気も、少しずつ変わっていくようだった。
そして、もう一度乗り換え。
三本目の電車に乗るころには、朝の通勤ラッシュも少し落ち着いていた。
席が空いていたので、由紀は静かに腰を下ろす。
窓から差し込む朝の光が、膝の上のトートバッグをやわらかく照らしていた。
大学の最寄り駅から大学までは、歩いて10分程度。この辺りは都会というわけでも、田舎という訳でもなくて、緑と建物がちょうど良い塩梅で共存しているので、息がしやすいような気がしている。
改札を出ると、同じ大学の学生らしい人たちがちらほらと歩いている。リュックを背負った人、友達と並んで話している人、イヤホンをつけたまま一人で歩く人。それぞれが、それぞれの朝を過ごしているようだった。
大学の門をくぐると、広いキャンパスが目の前に開ける。ふと上を見上げると、春の空は高く、雲はゆっくりと流れていた。
ガラス張りの入口に朝日が反射して、建物が白く光って見える。
「今日は三号館か」
スマートフォンで時間割を確認しながら、小さくつぶやく。
一号館と二号館の間の広い通路を抜けると、学生の数がさらに増えていく。
自転車を押して歩く人や、講義資料を読みながら歩く人の間をすり抜けるようにして、由紀はゆっくりと三号館へ向かう。
三号館は少し古い建物で、所々剥がれた壁紙の色もどこか落ち着いたベージュ色だ。
階段を上がると、廊下にはすでに講義を待つ学生たちが集まっている。
由紀は教室の扉の横に貼られた紙を見て、自分の受ける講義の名前を確認した。
少し緊張しながら扉を開けると、教室の中にはまだ空いている席が多く、ノートパソコンを開いている人もいれば、友達同士で小声で話している人もいる。
由紀は教室の窓際、一番後ろの席に腰を下ろし、トートバッグからノートを取り出したあと、スマートフォンを開き、意味もなくSNSを眺めていた。
ほどなくして、教授らしき男性が教室に入ってくると、ざわついていた教室が、少しずつ静かになったように感じた。
由紀は静かにスマートフォンの電源を落とし、机の中にそれをしまうと、前にいる教授を眺める。
「では、時間になりましたので始めます」
四十歳くらいだろうか。どこか不機嫌そうで気だるげなその顔にピッタリと当てはまるような、低く冷たい声が教室全体に広がっていく。
「経済学というのはですね、人がどのように選択をするのかを分析する学問でして——」
教授は黒板に図を描きながら、淡々と説明を続けている。
ノートパソコンのキーボードを打つ音や、ページをめくる音が教室のあちこちから聞こえてくる。
由紀も一応ノートを開いてはいるものの、緩く右手に持っているそのペンはほとんど動いていなかった。
教授の言葉は、どこか遠くで流れているラジオのように聞こえる。
「需要曲線が右にシフトする場合——」
その言葉をぼんやりと聞きながら、由紀はふと顔を上げてから頬杖を着く。
視線の先には、大きな窓がある。
春の柔らかい光が教室の中に差し込み、窓の外では風に揺れる木の葉がきらきらと光っていた。
遠くの中庭では、学生たちが笑いながら歩いているのが小さく見える。
その景色を、由紀はぼんやりと眺めていた。
教授の声はまだ続いている。
「つまり、市場価格というのは——」
けれど、その言葉はもうほとんど耳に入ってこない。
今日はなんだか、授業に対する気持ちが湧かない。でも、こんな日もたまにはいいのかもしれないな。
由紀は頬杖をつきながら、満点に晴れた空を静かに見つめていた。
講義を終えて教室を出ると、廊下で友達同士笑いながら歩く人たちの横を、由紀はゆっくりとすり抜けた。
外へ出ると、日差しがさっきよりも強くなっていて、冷たい風は春らしい暖かな風に変わっていた。
キャンパスの中央にあるベンチの近くでは、サークルの勧誘をしている上級生たちが何人か立っていて、新入生らしい学生に声をかけたり、ビラを配ったりしていた。
その横を通り過ぎようとしたとき。
「由紀」
名前を呼ばれて、その声のした方向に由紀は振り返った。
少し離れたところで、サークルの先輩である山田が手を振っていた。
まだ桜が満開に咲き、今よりも心が緊張に満たされていた時。
「ねえ、新入生?ちょっといいかな?」
背後からかけられた明るい声に、由紀は足を止めて振り返った。
そこに立っていたのは、どこか爽やかな雰囲気ももっている女の人だった。
背は高く、白の無地のTシャツにストレートジーンズを身にまとい、上から薄紫色の薄いカーディガンをさらっと羽織っている。髪は後ろで一本に高くまとめられていて、風が吹くたびにその毛先が軽く揺れていた。
飾らない格好なのに、不思議と目を引くような雰囲気の人だった。
「今サークルの勧誘してるんだけど、よかったら話だけでも聞いていかない?」
そう言って、山田はにこっと笑いかける。
その笑顔があまりにも気さくで、由紀の中にあったわずかな緊張が、すっとほどけていくようだった。
差し出されたチラシを受け取り、由紀は目を落とす。
そこには大きく、「旅写サークル」と書かれていた。
「旅行しながら写真撮るってサークルなんだ。そのままだけどね。といっても、そんな本格的なやつじゃなくてさ」
先輩はまたにこりと笑ってから、首に下げていたカメラを軽く持ち上げる。
「景色きれいだなーって思ったら撮る、みたいな感じ。春とか冬はみんなで旅行も行くし、結構ゆるい感じだよ」
話している本人が楽しそうだからか、その言葉を聞いているだけでサークルの雰囲気がなんとなく想像できた。
由紀は、チラシに載っている写真に目を落とす。
海辺の夕焼け、古い街並み、山の上から見た夜景。
その瞬間に撮った誰かの気持ちが、どの写真からも伝わってくるようだった。
「すごい…」
思わず小さく声が漏れると、先輩は嬉しそうに笑った。
「でしょ?」
その笑い方は、先程よりも無邪気さを感じさせ、どこか愛らしい。
「まあ、うちのサークル、写真上手い人ばっかじゃないんだけどね」
そう言ってくすっと笑い、肩をすくめる。
「でも、そのぶん楽しいよ。旅行して、写真撮って、ご飯食べて。そんな感じ」
それから思い出したようにして、手を軽く挙げた。
「あ、そうだ。自己紹介してなかった」
少し照れたように笑ってから言う。
「私、三年の山田紗枝。普通に山田先輩とかって呼んで」
春の風がキャンパスを通り抜け、先輩のカーディガンの袖がふわりと揺れる。
由紀は、もう一度チラシを見る。
そこに並んだ写真は、どれも楽しそうで、まるでその場所に自分もいるみたいだった。
大学に入ってまだ数日。
知らないことばかりの場所で、こんなふうに誰かに声をかけられることも、少しだけ新鮮だった。
そんなことにも嬉しくて、由紀はその日のうちにこのサークルに入会書を提出したのだ。
「講義終わり?」
「はい、今終わりました」
山田は、口元を緩ませながら「そっか」と言って、ベンチに腰を下ろした。由紀もなんとなくその隣に腰を下ろして、右肩にかけてあったバッグをそっとベンチに置く。
少し風が吹いて、近くの木の葉が揺れている。
「由紀ってさ、今日の夜予定ある?」
突然そう聞かれて、由紀は少し考える。
特に何か予定があるわけではない。バイトもしていないし、その日の講義が終われば、大抵そのまま家に帰るだけだ。
「……特にはないです」
そう答えると、先輩は少し笑った。
「じゃあさ、今日サークルの飲み会あるんだけど来ない?」
「飲み会……ですか?」
由紀は思わず聞き返す。
飲み会という言葉は、大学に入ってから何度か耳にしていたけれど、実際に行ったことはまだなかった。なんだか、少し怖そうなイメージがあるのだ。
「新歓みたいなやつ。そんなガチな感じじゃないよ」
山田は軽く笑って言いながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「お酒飲めない人も普通にいるし。ご飯食べるだけでもいいしさ」
由紀は少しだけ迷う。
騒がしい場所はあまり得意ではない。でも、断るほどの理由もない。大学生活というものがどんなものなのか、まだよく分かっていない気もした。
少しだけ視線を落としてから、小さく答える。
「……じゃあ、行ってみます」
山田は嬉しそうに笑った。
「ほんと?よかった」
そして、スマートフォンズボンのポケットにそっとしまうと、にこっと笑いながら由紀の方を見る。
「場所はあとで送るね。駅前の居酒屋に、夜六時ね」
由紀が小さくうなずいた後、先輩は「じゃあ」と言って、軽く手を振ってからその場を離れた。
その日は午後の授業も入っていたので、それが終わると、そのまま山田から送られた場所にある店へ足を運ぶ。
すでに約束の時間を三十分程すぎていたこともあり、店の外には特に集まりなどもなく、由紀は静かに店のドアを開ける。
暖簾をくぐって店の中へ入ると、外よりも少しだけ暖かい空気が体を包んだ。
店内は思っていたよりも広く、木のテーブルがいくつも並んでいる。奥の席からは笑い声が聞こえ、グラスが触れ合う小さな音が、ところどころで重なっていた。照明はやや落とされていて、柔らかな橙色の光がテーブルの上を静かに照らしている。
「いらっしゃーせー。お待ち合わせですか?」
自分以外にも何人か合流した人がいたのか、由紀が当たりを見渡していると、アルバイトの男が厨房から顔を覗かす。
「はい」
由紀は頷きながら返事をしてから、また店内をぐるりと見渡す。
「由紀、こっち」
その声が聞こえて店の奥を見ると、山田が笑顔でこちらに手を振っていた。
由紀はその姿を見るなり小さく手を挙げて振り返すと、その席へ歩いていく。
テーブルの周りにはすでに十人ちょっとの学生が座っていた。由紀が近づくと、山田は椅子を少し引いてくれる。
「ここ座って」
「ありがとうございます」
由紀は軽く頭を下げて、その席に腰を下ろした。
「とりあえず飲み物頼んでね」
誰かがそう言って、由紀は渡されたメニューを手に取った。
そっとメニューを開くと、並んでいるのは見慣れないカタカナの飲み物ばかりで、どれを選べばいいのか分からない。少し迷ったあと、端の方に書かれていたオレンジジュースに目が止まった。
「……オレンジジュースで」
そう言うと、向かいの席にいた学生が小さく笑う。
「一年生って感じだね」
悪意のない言い方だったので、由紀も小さく笑い返す。
しばらくしてから飲み物が運ばれてきて、全員にグラスが配られる。
「じゃあ、乾杯」
恐らく、この飲み会の主催者である男がそう言ってグラスを持ち上げる。
グラス同士が軽く触れ合い、小さな音がいくつも重なった。
最初のうちは、由紀はほとんど会話に加わらず、周りの話を聞いているだけだった。サークルの活動の話や、旅行の思い出、授業の話。話題は次々と変わり、テーブルの上の料理も少しずつ減っていく。
時間はゆっくりと流れていった。
店内の空気も、最初より少しだけ緩んでいる。
そんな中で、山田はふと思い出したように言った。
「そういえば、紹介してなかったよね」
そう言って、由紀の方を見る。
「この子、一年の柏木由紀」
いくつかの視線がこちらへ向く。
由紀は少しだけ背筋を伸ばした。
「……柏木由紀です。一年です。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、「よろしく」と声が返ってくる。
山田は笑いながら続けた。
「じゃあついでに、みんなも簡単に自己紹介しよっか」
向かいの席の男がグラスを持ち上げる。
「三年の佐藤。写真撮るの好きで入った」
その隣の女も続いた。
「二年の木下です。旅行が好きで入った感じ」
そんな風に順番に名前が続いていく。
そのとき、由紀の正面に座っていた男がグラスを軽く持ち上げた。
「三年の西村伸也です。よろしくね」
ふわっとした金色の髪の毛と、綺麗な二重の瞳が印象的だった。
彼はそう言って優しく微笑んで全体を見る。
由紀は一瞬だけ目が合ったけれど、すぐに手に持ったほとんど減っていないオレンジジュースが入ったグラスに目を向け直した。
それからまた時間が流れていく。
料理もほとんどなくなり、時計を見るともう九時を過ぎていた。
そろそろ帰ろうかな、と由紀が思い始めたころだった。
「ちょっと席替えするか」
誰かがそう言うと、その場から男が中心に立ち上がり、自分のグラスを持って席を入れ替えていく。
由紀が座り直した席の隣には、少し酔っている様子の男が座った。
ちらっと顔を見ると、最初に乾杯の挨拶を入れていた、全体を仕切っている男だ。頬は一段と赤く染まり、アルコールのツンと鼻を刺すような匂いに、思わず顔を背ける。
「柏木さんってさ、彼氏いるの?」
酔ったお陰で呂律の回らない声に、由紀は少しの恐怖心を覚え、戸惑いながら首を振る。
「……いません」
そう答えると、男は嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、俺と付き合おうよ」
冗談なのかもしれないが、その言葉と同時に肩を強引に組まれ、泣きたくなるような気持ちの中、由紀は小さく体を引いた。
「すみません……」
そう言ったが、相手はあまり気にしていないようで、どうしてこの場を逃げようか考えていたとき。
「そのへんにしとけよ」
落ち着いた声が、静かに割って入った。
由紀がゆっくりと顔を上げると、先程目が合った彼が、今度は向かいの席に立って横の男を冷たく睨んでいる。
さっきまでの柔らかな笑顔ではなく、獲物を狩って食うような目だった。
「嫌がってるだろ」
その言葉に、男ははっと笑う。
「別に嫌がってないって」
彼は小さく息をつくと、もう一度静かに言う。「嫌がってるよ」
その言葉は、はっきりとしていて、その一言で空気が一気に静まり返るのを感じた。
男は、しばらく彼の方を睨み黙っていたが、やがて一つ舌打ちをすると、立ち上がってトイレの方へがに股で歩いていった。
その瞬間、由紀の頬に溜まっていた涙がこぼれ落ちるのを感じ、慌ててバッグからハンカチを出し、目と頬に軽くあてる。
その様子を見てなのか、山田は立ち上がって、
「はいはい、今日はこのへんで解散にしよっか」と明るい声を出す。その声は、不自然な程に大きくて、けれどその声で場の雰囲気は和み、皆帰り支度を始めた。
席を立つ人たちの椅子の音が重なり、店内の空気が動き始める。
会計を済ませ、それぞれが店の外へ出ていく。
由紀も静かに店を出た。
外の空気は、昼間よりもずいぶんと冷たい。夜の風が、由紀の頬をやわらかく撫でる。
駅前の通りには街灯が並び、道路の上に長い光を落としている。
少し歩いたところで、声が聞こえた。
「さっきの」
振り返ると、柔らかな金色の髪をなびかせて、彼がこちらをじって見ていた。
先程、自分を酔っぱらいから助けてくれた男だった。
彼はそう言うと、由紀の目の前までゆっくりと歩いていく。
「大丈夫だった?」
落ち着いた声だった。
由紀は少しだけ驚きながらも、小さくうなずく。
「……はい。ありがとうございました」
そう言うと、彼は少しだけ笑った。
近くで見ると、店の中で見た時よりも更に優しい表情をしている。
「よかったらさ、駅まで、一緒に行かない?」
彼はそう言って、ふわりと笑っている。
その顔に、由紀はなぜ私がという疑問と、山田以外にも話せる人ができるという期待に、自分の鼓動が高まるのを感じていた。
「はい」
少しだけ考えてから、由紀もまた少し目を細めて笑った。
一瞬だけ、彼は目を丸くしたあと、またさっきの優しい笑顔で「じゃあ行こっか」と駅の方へと身体を向ける。
そのまま二人は、駅の方へゆっくりと歩いていく。自分よりも歩幅の大きい彼は、自分よりもさらにゆっくりと歩いてくれているような気がする。
「柏木さん、だよね」
店から少し離れた道はなんだか静かで、やけにその声が自分の耳に響いて届いたような気がする。
由紀は視線を道に向けたまま、小さくうなずいて、「はい」と一言だけ答えた。
それから、ほんの一瞬だけ沈黙が流れた。
夜の風が静かに通りを抜けていく。遠くで電車の走る音がかすかに聞こえた。
彼が歩くのをやめて、由紀も自然と進む足を止める。ちらっと彼の方を見ると、彼もまた由紀の目をまっすぐ見ている。
さっき店の中で見たときと同じ、真っ直ぐな視線だった。
彼は目を瞑って、一息、小さく深呼吸をしたあと、また由紀の目だけを捉えて言った。
「連絡先、交換してくれない?」
その言葉は、緊張に溢れていて少し震えているような、そんな気がした。
由紀はその言葉に驚いて、咄嗟に一度視線をずらす。ゆっくりともう一度その目を見てから、静かに口を開ける。
「なんで、私なんですか」
どうして居酒屋で咄嗟に私を庇ってくれたのか、一緒に駅まで帰ろうと私を誘ったのか、連絡先を交換したいと私に言ったのか、その全てが、由紀には理解できていなかった。
彼は少し躊躇うようにして目を逸らしてから、小さく深呼吸をする。そしてもう一度、由紀の目をじっと見つめて呟いた。
「一目惚れ、したんだ」
その言葉に、由紀の鼓動は高まるどころか止まってしまったような気がした。
一目惚れ、という言葉を投げかけられたことが今までなく、自分の頭の中ははてなという記号でいっぱいになる感覚があった。
「だから、好きに、なって欲しくて。頑張りたい」
続けて、彼は静かにそう言った。
その頬と耳は、さっきよりも一段と赤く染まっていて、それを見るだけで、由紀の頬もほんのりと赤くなる。
「えっと…」
由紀は、突然の出来事に混乱する頭を必死に回転させて考える。
さっき自分を助けてくれたことも、帰ろうと誘ってくれたことも、彼の善意だけではないことが少し悲しかった。けれど、誰かから一目惚れをされたと直接伝えられたことが初めてで、そのことに胸が弾むような感覚があることも事実だった。
あまりにも急で、彼の気持ちに答えられるかなんて今は何も分からないけれど、彼と連絡先を交換することに対して嫌だと思う気持ちは、この数十秒の考えの中には少しも出てこなかった。
「…わかりました」
そう一言言って彼の方を見ると、その顔は信じられないとでも言っているように目を丸くしている。次第に、驚きから喜びに変わっていくように口元に笑みが浮かび上がって、「やったあ」と白く整った歯を見せて笑うその顔に、由紀は穏やかにに静かに動く自分の鼓動が、少しずつ早まって落ち着きを忘れていく感覚に、静かに右手を当てる。
一つ小さく深呼吸をしてから、バッグの中からスマートフォンを取り出して、画面を開き、彼の方を向かってそれを差し出した。
彼も同じようにして、スマートフォンを取り出す。
お互いの画面を近づけて、連絡先を交換する。
小さな通知音が鳴った。
それを確認すると、彼はまた少しだけ目を丸くしたあと、嬉しさがこぼれ落ちるようにして「……嬉しい」と小さな声でそう言っていた。
子どもみたいに、心底嬉しそうな表情だった。
由紀は思わず、その顔をじっと見ていた。
すると、彼は少し照れたように視線をずらしたあと、頭をかいて、「ありがとう」と、そう言ってまた笑った。
そんな彼の顔を見ると、なんだか気恥ずかしくなってしまって、街の街灯に目を逸らす。
「今日帰ったら、連絡、してもいい?」
彼の顔を見ずとも、自分の顔をじっと見ながら話しているのがわかる。
由紀は、街灯から歩く方向に視線を変えて、「はい」と呟いた。
今まで、付き合った人は二人いた。
ひとりは、中学生のとき。
もうひとりは、高校生のときだった。
どちらとも告白をされて付き合ったが、最終的に由紀が二人を好きになれることはなかった。
最初に告白されたのは、中学二年の冬だった。
放課後の教室には、夕方の光が斜めに差し込んでいて、机の影が長く床に伸びていた。部活へ向かう生徒たちの声が廊下から聞こえ、校庭ではサッカーボールを蹴る鈍い音が時々響いていた。
由紀は帰り支度を終えて、リュックを肩にかけようと思ったとき。
「柏木、ちょっといい?」
その声のする方向へ顔を向けると、教室の後ろのドアにはクラスメイトの男子がいた。
由紀は、深く考えることなく男の方へと足を運び、ドアの前で足を止めた。
「ちょっと、来て」
男は、そう言って急ぎ足で歩き始めたので、由紀は無言のままその後をついていった。
教室の隣にある小さな階段の踊り場で、男は少し落ち着かない様子で立っていた。手すりの向こうには、冬の冷たい空が広がっている。
しばらく言葉が続かなかった。
やがて、意を決したように顔を上げて言った。
「柏木のこと、好きなんだ」
その言葉を聞いたとき、由紀は驚いた。けれど嫌な気持ちはしなかった。
ただ、胸の奥に何かが強く動くような感覚もなかった。
好き、という言葉が、どこか遠い場所のもののように思えた。
「……私でいいの?」
そう聞き返すと、その男の子は少しだけ笑った。
「柏木がいいんだよ」
その言葉を聞いて、由紀は小さくうなずいた。
それから、二人は付き合うことになった。
帰り道を一緒に歩いたり、休日に近くのショッピングモールへ行ったり。友達にからかわれることもあったけれど、それもどこかくすぐったくて、嫌ではなかった。
けれど、時間が経っても、由紀の中の何かが大きく変わることはなかった。
ある日、駅前の横断歩道で信号を待っているときだった。
冬の空気は冷たく、吐いた息が白く広がっていた。
「柏木ってさ」
隣に立っていた彼が、ふいに言った。
「俺のこと、好き?」
その言葉に、由紀は少し考えた。
嫌いではない。
一緒にいるのも嫌ではない。
でも、それが好きなのかどうかは、よく分からなかった。
しばらく黙ってから、正直に答えた。
「……分からない」
そのとき、彼は少しだけ笑った。
責めるような笑いではなくて、どこか納得したような笑い方だった。
「そっか」
それだけ言って、信号が青に変わると、二人は横断歩道を渡った。
それから少しして、自然に会う回数が減っていった。大きな喧嘩をしたわけでもなく、特別な出来事があったわけでもない。ただ静かに、その関係は終わりを迎えたのだ。
高校のときも、似たようなことがあった。
その人は、もっと優しい人だった。
授業中、消しゴムを落とすと拾ってくれたり、重たい教科書を持ってくれたりするような、さりげない気遣いができる人だった。
ある日の帰り道、駅へ向かう坂道の途中で、その男は由紀のことを追いかけ、大きな声で言った。
「柏木のこと、好きだ」
夏の、少しだけ暑さが穏やかになる時間。夕焼けの光は、二人の姿を赤く染めていた。
その光を見ながら、由紀は少し迷った。
あれから、何人かの人に告白をされたけれど、また傷つけてしまうのではないかと、そんな思いがプレッシャーとなって断っていた。
けれど、この人が自分に好意を抱いていることはなんとなくわかっていたし、その優しさは嫌ではなくて、嬉しいと感じていた。
「……私でいいなら」
そう言って、付き合うことになった。
その人といる時間は、穏やかだった。
静かなカフェで話をしたり、休日に映画を観たり。無理に盛り上がるような関係ではなくて、どちらかといえば落ち着いた時間が多かった。
誰もいない放課後に、互いの唇を合わせたこともあった。どの瞬間も、自分の鼓動すらも穏やかで、心地よい時間だった。
けれど、ある冬の日の帰り道だった。
駅へ続く歩道を並んで歩いていると、その人がふと立ち止まった。
白い息が夜の空気に溶けていく。
「柏木ってさ」
その声は、どこか静かだった。
「誰かのこと、すごく好きになることあるのかな」
由紀は答えられなかった。
少し考えてみても、分からなかった。
一緒にいると落ち着いて、穏やかな時間を過ごすことができる。そんな時間は、居心地が良くて、好きだと思う。
彼のことを、心から優しい人だとも思う。
でも、それが恋なのかどうかは、やっぱり分からなかった。
沈黙のあと、その人は寂しそうに、どこか泣きたそうな顔で笑って言った。
「……まあ、いいや」
それから、少しして彼の方から「別れよう」との連絡があり、特に悲しさや寂しさもなく、涙がでることもないまま、あっけなく別れた。
この半年間で、嫌な思いせず居心地の良い相手を、自分は好きになることすら出来なかったのだと思うと、そんな自分に怒りが湧いた。
どちらの恋も、大きな傷を残すような終わり方ではなかった。悲しくなかったわけではないけれど、強く引き止めたいと思うほどでもなかった。
由紀は、時々考えることがあった。
自分は、誰かを好きになることがあるのだろうか。
胸の奥が強く動くような気持ちを、いつか感じる日が来るのだろうか。
けれど、その答えは、まだ分からなかった。
でも、今、初めて自分の鼓動が高なっているその感覚を知って、今まで感じたことの無い気持ちに、もっと触れてみたいと思う自分がいる。
本作を最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。
次の部に関しては、好評の場合に改めて載せますので、応援のほどよろしくお願いいたします。




