第四話 王女の誤算
アリシアとの交渉が終わった翌日には、すでに動きがあった。アリシアに用意された王城の一室で目を覚ますと、タイミング良く誰かが扉をノックした。
「おはようございます、エイト」
扉越しに聞こえてくる声はまさしくアリシアだった。
「おはようございます」
と扉越しに聞こえるぐらいの声量で返す。アリシアは一拍おいてから話した。
「これから外出しますので、着替えてください」
「わかりました」
ベッドから起き上がると、昨日の内に用意された洋服や靴に着替えた。ゆっくりと寝間着を脱ぐ。
「え……」
自分の身体に視線を移した瞬間、時が止まった。
「刺青……」
昨日まで存在しなかったはずの黒い紋様が、まるで最初からそこにあったかのように全身を覆っていた。
背筋を冷たいものが一気に駆け上がる。慌てて扉を開くと、廊下の空気が室内に流れ込む。
アリシアはすぐにこちらを見なかった。静かに待っていた。壁にもたれ、片手を胸の高さまで上げて、指先に視線を落としている。細く整えられた爪を一本ずつ確かめるように、ゆっくりと目でなぞる。その仕草は落ち着いて見えたが、待つことに慣れきった者の余裕と、それでも抑えきれない焦燥が、微妙な均衡で同居しているように見えた。
アリシアの視線が、ゆっくりとこちらへ移る。
「終わりまし……」
アリシアの言葉が途中で途切れた。
彼女の視線は一瞬で状況を理解し、次の瞬間には明確な判断を下していた。
「っ……」
小さく息を呑む音。
それでも即座に目を逸らすことはせず、半歩だけ距離を取り、視線を斜め下へ滑らせる。
「……確認は、後にします」
冷静さを装った声だったが、わずかに上ずっている。
そこでようやく、僕は自分の格好に思い至った。
半裸のままだ。
アリシアは遅れてその事実を「認識した」らしく、今度こそ慌てて視線を外した。
右手で顔の半分を覆い、きっぱりと言い放つ。
「……見せないでください。そういう状態を」
語尾を切り、背を向ける。
耳まで赤く染まりながらも、声だけは必死に抑え込んでいた。
「私は研究対象としてあなたを見ています。ですが……」
一拍、言葉を探す。
「節度は、守ってください」
叱責の形を取ってはいるが、声は明らかに落ち着きを失っていた。
「ごめんなさい!」
僕は反射的に部屋へ引き返した。
背後で、アリシアが小さく息を整える気配がする。
数拍の沈黙の後、扉が再び開いた。
アリシアは、もう取り乱してはいなかった。
背筋を伸ばし、歩幅を一定に保ったまま、堂々と室内へ入ってくる。
「……まだ着替えていませんね」
視線は一切上に向かず、明確に紋様の位置だけを捉えている。
「その状態で呼び止めたということは、見せたい理由があるのでしょう」
淡々とした口調で続ける。
「先ほどは感情的になりました。謝罪します。ただし……」
アリシアが意図的に一拍おく。
「淑女の前で半裸になる行為は、一般的には好ましくありません」
言葉は理屈だが、最後の一言だけ、ほんのわずかに硬かった。
そう言いながら、彼女は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
警戒ではない。確認のためだ。
その目は、感情ではなく計算を映していた。
どこまで近づけば全体が見えるか。光の当たり方はどうか。
気づけば、背中に冷たい壁の感触が伝わっていた。
それでもアリシアは身を引かない。
「……動かないでください」
低く、しかし静かな命令。
「今は、観察を優先します」
声音は完全に理知的だった。
けれど、その耳元だけが、まだ僅かに赤いままだった。
「近いですよ……」
「至近距離でなければ、正確な観測はできません」
即答だった。
言葉の端にも、迷いはない。
アリシアの人差し指が、躊躇なく皮膚に触れた。
冷えた指先が、胸元から腹部へと移り、紋様の線だけを正確になぞっていく。
その動きは無駄がなく、丁寧で――あまりにも落ち着いている。
観察と言われれば、そう見えなくもない。
だが、触れているという事実だけは、どう取り繕っても変わらなかった。
「……何を、しているんですか」
「確認です」
視線は、紋様から一度も離れない。
「視認だけでは不十分です」
理屈は通っている。
少なくとも、彼女の中では。
指が止まらない。
線を追うたび、体の奥が反応するのが分かる。
「……触らなくても、解析はできるはずです」
「理論上は」
淡々とした否定。
「ですが、実測値は異なります」
言葉と同時に、指先がわずかに力を帯びた。
研究者として見れば、徹底している。
別の角度から見れば、必要以上に踏み込んでいるようにも映る。
その境界に、彼女自身は気づいていない――あるいは、意に介していない。
「……くすぐったいです」
感情を削ぎ落とした声。
アリシアは、ほんの一瞬だけ指を止めた。
「それは正常な反応ですね」
視線を上げずに続ける。
「羞恥や緊張は、魔力の流れに影響します。記録しておく価値がある」
あくまで、研究の言葉だった。
だが、その説明が、余計に状況を際立たせる。
「……アリシア」
静かに呼びかける。
「今のは、観測ですか」
「ええ」
即答しかけて、わずかに間が入る。
「……そのつもりでした」
僕は息を整え、視線を逸らさずに言った。
「なら、ここまでで十分です」
「理由は?」
アリシアが怪訝な目で僕の目を見る。
「これ以上続けると、僕の意識が別の方向に向きます」
一拍間が空く。
「研究として、精度が落ちる」
僕がそう言った瞬間、アリシアの指が、完全に止まった。静かに手を引き、距離を取る。
「……ごもっともです」
声の調子が、はっきりと変わる。
「私の判断にも、主観が混じりました」
それは反省というより、自己修正だった。背を向ける。
「着替えてください。廊下で待っています」
振り返らない。
扉の前で、わずかに足を止める。
「今の指摘は、理性的でした」
淡々と付け加える。
「評価します」
扉が閉まる。
残された空間で、ようやく息を吐いた。
彼女は終始、研究者だった。
少なくとも、彼女自身の認識では。
けれど――
見る側の立ち位置次第で、印象が変わる瞬間があったことも、確かだった。
着替えを終えて廊下に出ると、アリシアはすでに少し先で待っていた。
こちらを見てはいるが、視線は一瞬だけで、すぐに進行方向へ戻される。
「行きましょう」
それだけ言って、歩き出す。
先ほどの出来事には、触れないつもりらしい。
並んで歩きながら、ふと疑問が浮かぶ。
「……どこに行くんですか」
「魔法協会です」
即答だった。
「あなたの魔力について、正式な調査を行います」
端的で、感情の入り込む余地はない。
街へ出ると、人の往来とざわめきが一気に視界を満たした。
それを前にしても、アリシアの歩調は変わらない。
「この大通りの先に、協会があります」
説明は淡々としているが、必要な情報だけを選び取っている。
彼女は街並みに視線を向けながら、建物や区画について短く補足を続けた。
雑談というより、移動に付随する報告に近い。
互いに、目を合わせることは少なかった。
沈黙が挟まっても、どちらもそれを埋めようとはしない。
気まずさが消えたわけじゃない。
ただ、今はそれより優先すべき目的がある――
二人とも、そう理解しているようだった。
やがて、石造りの大きな建物が見えてくる。
「着きました」
アリシアは足を止め、ようやくこちらを見る。
「ここからは、公的な場です」
それだけで、十分だった。
彼女は研究者としての顔を完全に取り戻していた。
「アリシア様だ……」
部屋の中で誰かがそう言った途端、周囲の人々の視線が僕たち……正確に言えばアリシアに向いた。
「皆さま、おはようございます」
周囲のざわめきが、一斉に飲み込まれる。人々は畏怖とは全く関係のない、尊敬と敬愛の目差しで包まれていた。僕はその異様な空気に、アリシアが皆にとって何か特別な存在なのだと気づかされた時、奥から老いぼれた男性が杖をついてやってきた。
「お嬢様……お久しぶりです。本日はどのようなご用件で?」
「お久しぶりです、室長。この男性の魔力検査を行いたく参りました」
そう言うと、室長と呼ばれた老人は目を大きく開く。
「失礼ですが、その男にそこまで魔力があるとは思えませぬが」
「そうかもしれませんが、ひとまず検査だけでもして欲しいのです」
そういうと、室長は奥の部屋まで案内してくれた。
「とても大きい水晶ですね」
直径1メートル程はあるだろう。こんな透明で輝く水晶は初めて見た。
「これ魔法石ですよ。こちらで貴方の魔力量、適正属性を計ります。早速、手を魔法石に乗せて下さいな」
室長に言われた通りにゆっくりと手のひらを魔法石に乗せる。その直後、魔法石が白く発光した。その光は歯止めを失ったかのように膨れ上がり、部屋の輪郭さえ白く塗り潰していく。
「……手を離せ!」
「え?」
室長の突拍子のない発言に、反応ができなかった次の瞬間、魔法石が内側から耐えきれず、悲鳴を上げるように、弾け飛んだ。鋭利な魔法石の破片は部屋のあらゆるものを切り裂いた。
「室長、今のは一体?」
アリシアが口を開く。どうやら魔道書の防御魔法で、飛んできた破片を無効化したらしい。室長も同様に無傷だった。
「その男の魔力量に耐えきれず壊れたみたいですな……」
室長は何も言わず、じっと僕を見据えた。
「……僕にも防御魔法ぐらいかけて下さいよ」
「え……?」
アリシアは、言葉を失った。
「どうしたんですか、アリシア様?」
僕はアリシアの様子に違和感を感じた。
「あなたは先の瞬間、破片を避ける事も防御魔法で防ぐ事もしなかったのですか?」
「え……はい」
アリシアと室長が眉をひそめる。重たい空気に耐えかねたのかアリシアは室長に聞いた。
「……室長、魔法石の結果はわかりましたか?」
「ええ……一応は。魔力量は、異常と言って差し支えありませんな」
「やはり……」
アリシアが小声で呟いた。彼女の中で明確にわかったことがあるのだろうか。
「適正属性は恐らくないですな。光が白から変わらなかったので。魔道師が最適です」
そういうと、室長は部屋の掃除を始めた。
「ありがとうございました。何かお手伝いしてもよろしいですか?」
「大丈夫ですよ、わしの極めが足りなかっただけのこと。お二人に責任はありませんよ」
そういうと、室長は続けて「まだご予定があるのでしょう?」とアリシアに問うと、アリシアは黙って頷いた。僕とアリシアは後味の悪い中、魔法協会を出た。
「災難でしたね」
「ええ……」
アリシアは考え事をしてるようだった。やはり、さっきの出来事で引っ掛かることがあるのだろうか。
「ああ、それと」
「なんですか?」
「私の事はアリシアと呼び捨てで呼んで構いません。歳も近いですし」
そう言うと、アリシアは久しぶりに微笑みを見せた。しかし、形は笑みでも、そこにはまだ感情が追いついていなかった。
「わかりました。ちなみにアリシアは何歳ですか?」
「女性に年齢を聞くなんて失礼ですね」
即答だった。でもさっきの会話からだと、あたかも聞いて良いような雰囲気だった。
「十八歳です」
「同じだ」
「どこか、親近感を感じますね」
アリシアが自然な笑みを見せた。さっきとは違って、しっかりと感情が乗っていた。なんだか、少し嬉しい気持ちになれた。ほんの一瞬だが、素のアリシアを見た気がした。
「……次はどこに行くんですか?」
照れ臭くなって、話題を変える。次の目的地が気になっていた訳ではないが、アリシアに聞いてみる。
「次は……」
アリシアが言いかけた時、アリシアの足が止まった。
「……ここから急いで逃げます」
「え?」
アリシアは僕の手を握ると、慌てて路地裏に向かって走っていった。
「何があったんですか!」
「問題が発生したとだけ……とりあえず今は遠回りで王城に戻ります」
またもアリシアは何も言ってくれないまま、僕を連れて王城に戻ろうとした。僕を狙う刺客と遭遇したのだろうか。でもそういう焦りではない。それは刺客とは違う。見つかってしまえば、立場も計画も一気に崩れる。そんな種類の気配だった。
ようやく王城に着いた頃、僕とアリシアは流石に息を切らしていた。何も言ってくれないアリシアに強い不安感を感じながらも、知ってる場所に戻れて一息つく。
「ほんとに一体何があったんですか……」
「お気になさらず……ただ、見つかってしまうと面倒なことになる人がいただけで」
「面倒なことになる人……?」
呼吸を整えながら問い返した、その直後だった。背後から、場違いなほど落ち着いた声が割り込んできた。
「……今、誰が面倒だって言ったの?」
その瞬間、アリシアの様子が一変した。振り返るとそこには、アリシアに瓜二つの女性が腰に手を当てて立っていた。
「……帰って来ていたのですね。手紙を送ってから来てもよかったのに」
「手紙を先に出したら、どうせそいつのこと隠ぺいするでしょ」
どうやら目の前にいるのは、アリシアの双子の妹らしい。
「そいつの魔力が留学先まで来てんのよ。明らかにそいつおかしいって!」
「なっ……!ま、待って。そんなはず……」
思わずアリシアの声が裏返る。
数を数えるような落ち着きも、言葉を選ぶ余裕もなかった。
「は?エイト……?」
妹が僕の名前を拾い上げた瞬間、
アリシアの表情が、はっきりと固まる。
「な、なんでもな……」
「あんた、名前は?」
アリシアが応じるより早く、妹が話を重ねる。
反応が一拍遅れる――それ自体が、彼女に余裕がないことを物語っていた。
「……須藤英斗です」
「……あんたも私と同じ、日本人って訳ね」
その言葉に僕は黙って頷いた。




