第二話 帝国の門にて
馬を止めた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
逃げ続けた末に辿り着いたこの場所が、本当に安全なのか、僕には分からなかった。
「ヴァルシュタイン帝国……」
魔法に寛容な国――そう聞いていたはずなのに、そびえ立つ城壁は、僕を歓迎ではなくあたかも試すために立っているように見えた。
門を探すために城壁の周りをゆっくりと走る。数分もしない内に異邦人や商人らしき人たちが並んだ列を見つけた。視線の先には、人が途切れる気配のない列ができていた。警備兵から取り調べを受けた後、ようやく帝都に入れるのだろう。僕は列の最後尾に馬を連れて並んだ。
一時間待った頃、ようやく取り調べを受けた。まず、名前から問われた。
「須藤英斗です」
「珍しい名前だな……まあいい」
続けて出身地、職業と形式的な質問が続いた。
「最後に目的は?」
「……皇太子に謁見をするために参りました」
空気が張り詰める。周りの警備兵たちも僕に目を向けた。
「皇太子殿下に謁見だと?そんな予定はなかったはずだ」
すると警備兵たちは鞘から剣を抜いた。数本の剣先が、無言のままこちらを向いた。剣先を見た瞬間、喉の奥がひくりと引き攣った。声を出せば、それだけで斬られそうな気がした。しかし逃げ場はないと即座に理解する。
「ま、待ってください……!」
咄嗟に両手を上げる。
「怪しい者ではないです!ただ......亡命をしたいだけです!」
「亡命者が皇太子殿下を訪ねるか?」
低い声で警備の一人が言い放つ。もっともだ。自分でも無茶なことを言った自覚はある。だが、ここで引き下がれば即刻追い返されるか、最悪拘束されるかもしれない。
「……先ほどもお伝えした通り、サマルレンツ王国より参りました。先の戦争で、魔道書を使いました。皆さんも、噂程度には……」
一瞬の沈黙を挟み、言葉を選んで続ける。
「先日、魔法によって国王が殺害された現場に居合わせ......今、追われています」
剣先が、わずかに揺れた。
「……貴様を信用できる証拠は?」
「ありません。ただ……」
僕は一瞬ためらい、それでも腹を括った。 腰に提げられた魔道書に手をかける。ゆっくりと革製の保護カバーを外した。
「この魔道書があります」
純白の装丁が陽光を反射する。 周囲の空気が明らかに変わった。
「……純白の魔道書だと?」
「馬鹿な......実在するはずが.......」
ざわめきが広がる。
先ほどまで殺気を向けていた警備たちの視線が、今は 畏怖と警戒を含んだものに変わっていた。
「なんの騒ぎですか?」
門の入り口から聞こえてきた女性の足音がこっちに近づいてくる。
「アリシア様!どうしてこのような所に!」
警備兵たちが一斉に慌てる。服装からしてただの貴族ではなく、相応の権限を持つ人物なのだろう。
「近くを巡察していたのですが、門の方が騒がしかったので、気になって来ました」
そう言って、アリシアと呼ばれた女性は僕の手元にある本へと視線を落とした。
「……それが噂の純白ですか」
「噂?」
僕の漏らした疑問を気にすることはなく、彼女の瞳には驚きも動揺もなく、ただ事実だけを見極めようとする静かな鋭さがあった。
周囲の警備兵たちが、言葉を失ったのが分かった。
「ま、待ってくださいアリシア様!この者は国王殺害の容疑者で……」
「容疑者と断定するには、まだ早いでしょう」
彼女は静かに言い切り、僕の方へと一歩近づいた。
「あなた、名は?」
「……須藤英斗です」
「スドウエイト……」
小さく復唱した後、彼女は魔道書から目を離さずに続けた。
「その魔道書、触っても?」
僕は躊躇うことなく頷いた。
アリシアは白い手をゆっくりと持ち上げ、ためらうように一度だけ指を止めてから、本の縁にそっと触れた。次の瞬間、目には見えない何かが走り、空気が微かに揺らいだ。
「……やはり」
彼女はゆっくりと息を吐いた。
空気が、わずかに張り替えられる。
「……この魔道書は、門前で扱える代物ではありませんね」
声量は抑えられている。
だが、そこには命令に必要な重さも、王女に相応しい威光もなかった。
代わりにあったのは、刃物で測るような静けさだった。
警備兵たちは、無意識のうちに姿勢を正す。
号令があったわけではない。
ただ、場の基準が切り替わったと理解しただけだ。
それでも迷いはなかった。
彼女が示したのは意見ではなく、結論だったからだ。
「つまり……?」
恐る恐る警備兵の一人が問うと、アリシアははっきりと言った。
「拘束ではなく、同行してもらいます。王城まで。そこで兄上に報告します」
周りでざわめきが走る。
「安心なさい。少なくとも今ここで国王殺害の容疑者として裁かれることはありません」
微笑んでいるはずなのに、その表情からは一切の隙が感じられなかった。でもその言葉に、胸の奥で張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。
数人の警備兵に周囲を固められ、僕はアリシアに伴われて王城へ向かうことになった。
「なんとエイト殿ではないか!」
王城の中、アリシアは僕をヴァルシュタイン帝国の皇太子である、ハインリヒの元まで案内した。
ただ、背後から剣の気配が消えた気はしなかった。
「お久しぶりです、ハインリヒ様」
僕とハインリヒが言葉を交わすと、アリシアは静かに警備兵たちを帰した。
「やはり、あなたは兄上が言っていた例の英雄でしたか」
その一言で、話がすでに伝わっていることを悟った。
「自己紹介が遅れましたね」
アリシアは一切の無駄のない動きで、名を告げた。
「私はヴァルシュタイン帝国第一王女アリシア・ヴァルシュタインです。以後、お見知りおきを」
初めて見るその所作から、しばらく目を離せなかった。
「それはそうとエイト殿、サマルレンツ王国で一体何が?」
僕はようやくハインリヒに身の上に起きた出来事を話すことが出来た。
「そのような事が……無事で何よりだ。ひとまず安心してくれ。エイト殿は私が保護しよう」
「いいのですか?」
僕には国王殺害の容疑がかけられている。しかもハインリヒとはたった一度しか会った事がない。
信用できる要素なんてないはずだ。
「もちろんだ。まあ無償で保護するわけにもいかない。一つ要求を受けて欲しい」
ハインリヒが、ほんのわずかにアリシアへ目配せをした。
その意味を測りかねて首を傾げた、その瞬間――彼女は動いていた。
いつの間にか、アリシアは僕の正面に立っている。
護衛に向ける距離でも、客人に取る位置でもない。
「ぜひ、あなたの魔道書と……その力を、拝見したいのです」
丁寧な口調だった。
だが、その声には、配慮よりも先に確かめる意思があった。
「え?」
間の抜けた声が漏れる。
アリシアはそれを咎めず、ただ僕を見ている。
王女が容疑者を見る視線でもなければ、兄の知人を見るものでもない。
「誤解なさらないでください。これは裁定ではありません」
そう前置きしながら、否定しているのは立場だけだった。
彼女の関心は、罪でも関係でもなく――目の前にある異物そのものに向けられている。
その眼差しを受け、ようやく悟る。
この人は今、王女としてここに立っているのではない。
だが、何者として見ているのかも、まだ分からない。
分かるのは一つだけ。
僕は今、守られても裁かれてもいない。
ただ、値踏みされている。
「この国は魔法に寛容ですが、それでも魔法を使用できる者はあまりいないのです」
「そうなんですね……」
アリシアの半ば強引な対応にハインリヒに助けを求めるも、助け舟はやってこないまま、アリシアに連れて行かれた。
「ここです」
案内された場所は壁一面に本が収納された図書室のような部屋だった。アリシアに促されるまま椅子に座ると真っ正面にアリシアが座った。
「さてと、あなたと話したいことがあります」
一瞬、重たい空気が漂う。
「なんですか?」
「その純白……純白の魔道書はどこで手に入れましたか?」
予想していた質問にひとまず安堵する。
僕は落ち着いた様子で「戦場で拾った」と答えると、アリシアは静かに「そうですか」と言うとしばらく黙り込んだ。木製の椅子から軋む音がすると、アリシアの口が再び開いた。
「その純白の魔道書は神話に登場する千年前の魔女が書いた、最古の魔道書と考えられます」
「神話……」
その言葉だけで、この本がどれほど異常なものか察した。固唾を飲む中、アリシアは好奇心に駆り立てられたのか、魔道書の内容を見せてほしいと頼んできた。信頼していい相手なのか分からない。魔道書を奪われる可能性も否定できない。それでも、不思議と拒む気にはなれなかった。
アリシアは受け取った本を開くと、言葉を発することなく紙面を追った。
頁をめくる速度は一定で、視線は迷わない。感想も評価も、いまは必要ないと言わんばかりだった。
沈黙が続く。
その間、部屋の空気は少しずつ締め付けられていく。彼女は僕を見ない。ただ、書かれているものだけを追っている。
やがて、静かに本を閉じた。
一拍置いてから、こちらへ差し戻される。
「魔方陣の組み立てが、現行の体系とまるで違いますね。部分的に共通項は見えますが……」
言葉を選ぶというより、照合している口調だった。
「正直に言えば、読み解く糸口が掴めません」
そう結論づけると、彼女の視線はふっと宙に逸れた。
惜しむというより、次に進むための思考に沈んでいる。期待も落胆も、感情として表に出てこない。
その様子を見ていて、僕は一つ、思い出したことがあった。
「そう言えば、アリシア様には双子の姉か妹がいますよね?今はどちらに?」
そう言うとアリシアは僕に目線を移した。
少し警戒した様子でアリシアは聞いてきた。
「兄上が言ったのですか?」
黙って頷いた。すぐさまアリシアの緊張の糸が解れた。
「妹がいます。名前はエリシアです。今は隣の国へ留学中ですよ」
そうなんですねと一言返す。また黙り込んでしまい、気まずい空気が流れる。しかしアリシアの次の一言で空気が一変する。
「……幼い頃、妹は一度死にました」
それだけ言って、彼女は口を閉じた。




