第十話 名前を失った日
抱きしめられた瞬間、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。それは、この世界に存在するはずのないものだった。僕がまだ――日本で生きていた頃の、確かな記憶の匂いだった。
―――――――――――――――――――――――――
――それは、僕がまだ「死」というものを現実として知らなかった頃の話だ。
五年前の冬。僕がまだ中学生だった頃のこと。
その日は部活の片付けが長引き、彩月と一緒に下校できなかった。家が近く、同い年で、特別な約束をしなくても自然に並んで歩く相手だったから、少しだけ残念だった。
通学路はすでに暗く、降り積もった雪が街灯の光を散らしていた。吸い込む空気は冷たく、肺の奥まで凍りつくようだった。
そのとき、救急車がサイレンを鳴らして僕の横を通り過ぎた。理由も分からないまま、背筋に悪寒が走る。
気づけば僕は、その赤い光を目で追い、足を動かしていた。
救急車は、家の近くにあるコンビニの駐車場で停車した。
視線を向けた先で、一台の車が店内に突っ込んでいるのが見えた。
そして、担架で運ばれてきたのは、同じ制服を着た生徒だった。
――彩月だった。
次に気づいたとき、僕は病院にいた。
彩月の両親と、僕の両親が並んで祈るように座っている。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
「手術中」と表示されたランプが消え、医師が扉から出てくる。
彩月の両親が駆け寄るのを見た瞬間、視界が真っ白になった。
耳鳴りだけが、やけに大きく、遠くで鳴り続けていた。
―――――――――――――――――――――――――
――もう二度と会えないはずだった。
それなのに。
今、彼女はこの世界で、僕の名を呼んでいる。
確かに死んだはずの存在が、この世界には当たり前のように生きている。
彼女を覚えていたのは、この世界だけだった。
「……斗」
聞き慣れた声が、意識を引き戻す。
「……英斗!」
次の瞬間、勢いのまま何かが僕にのしかかった
「彩月……重い」
「ニャ?!レディーに重いなんて失礼ニャ!」
抗議の声を背中で聞き流しながら、僕は体を起こす。
窓から差し込む光が、やけに眩しかった。
「おはよう……彩月」
一瞬だけ、彼女の笑顔が止まった。
ほんの刹那。気のせいだと思えるほど短い時間。
「……おはようニャ」
彼女はいつも通りに微笑んだ。
あの日から消えたはずの、いつも通り。
姿形は変わっていても、話し方や仕草は、あの日から止まっていた時間を、静かに動かしてくれる。
彩月と再会してから一週間。
トビアスやアリシアたちは、目に見えて忙しくなっていた。トビアスは連日、自国アルトシュタイン王国と書簡を交わしていた。その背中から、余裕はすでに消えていた。隣国との関係は以前から緊張していたが、異界事象統制機関の一件を境に、ついに一触即発の段階まで進んだらしい。
――知らない間に、世界は戦争へと向かっていた。
トビアスは、隣国と異界事象統制機関が裏で繋がっている可能性を示唆した。
一方でアリシアも、ヴァルシュタイン帝国との連絡に追われていた。彼女の裏切りによって、帝国が次の標的になると読んでいるからだという。 もし僕がいなければ、こんな事態にはならなかったのかもしれない。根拠のない責任感が、胸の奥に重くのしかかる。
逃げたいと思った。けれど、その先に彩月も、セレアもいない世界がある気がして――それが、何よりも怖かった。
「どうかしたニャ?」
不安そうに彩月が僕の様子を伺った。
「ううん、なんでもない」
微笑む。
「そっかニャ……とりあえず、トビアス達の所にいかないとニャ」
僕たちは一週間ぶりに、集まって話すことができた。
円卓になって座った席には、僕と彩月の他に、アリシア、エリシア、トビアスがいた。
アリシアは自然と僕の右隣の席に座り、彩月は左隣の席に座った。アリシアと彩月には、なんとなく見えない壁がある気がする。
「久しぶりだね、皆」
開口一番、トビアスが話し始める。
情勢報告と事務連絡が続き、気づけば時間だけが過ぎていった。
「ところでエリシアは何をしていたの?」
僕は、疑問に思っていたことを口にする。
「授業を受けたり、あとはヤマト隊副司令官としての諜報活動ね」
エリシア、トビアス、彩月はヤマト隊として、転生者や召喚者を保護している。
「諜報活動……?」
「転生者、召喚者のほとんどは魔術師なの、理由は分からないけど。だから、皇国に留学して探してるのよ」
「そういうことか……」
まず、アリシアは魔術師だ。マリダロフィン皇国にある魔術大学に入学する権利がある。エリシアは召喚者。転生者たちを探すなら、元日本人のエリシアが適任。僕の中で話が通った。
「そういえば彩月は――」
僕がそう言いかけたところで、彼女は少し早口に言った。
「ウチはトビアスの護衛役ニャ。それで十分かニャ?」
どこか、話題を切り上げるような言い方だった。
違和感を感じつつも、気にせずに次の話をする。
「皆のこれからの予定は?」
「私はエイトとこのまま帝都に帰るつもりです。魔力漏れも解決しましたし」
アリシアが言う。
「あたしは引き続き皇国で留学を続ける。助けられる人は、なるべく多く助けないと」
エリシアが真剣な眼差しで答える。
「私も、しばらくは留学生としてここに残るかな。もし、アルトシュタインで戦争が起きれば話は別だけど」
トビアスが答える。
「ウチは引き続きトビアスの護衛ニャ」
彩月が答える。
「じゃあ僕はアリシアと一緒に帝都に帰還かな」
僕がそういうと、アリシアは静かに頷いた。彩月の様子を横目でうかがうと、少し寂しそうだった。
「……って言いたい所だけど、本音は彩月といたいんだよね。なんとかならない?」
僕はアリシアに聞いた。すると、アリシアは鋭い目付きで睨んだが、少し考え込んだ様子を見せた。
「言いたいことは分かります……しかし、国籍も違ければ、帰る国も違いますよ?」
「たしかに……」
と一言漏れる。すると、トビアスが言った。
「もしよければ、アリシア殿も英斗も皇国に留学しては?」
「え?」
疑問が真っ先に出る。
「私の権限で幾分、配慮はできます。もしよろしければの話ですが」
アリシアと僕は黙り込んだ。
僕は静かにアリシアの目を見て嘆願した。
「……わかりました。けど、一旦帝都に話を持ち帰ります。その後で決めましょう」
その結果に不満はなかった。報連相をするのは、今までのアリシアと何らおかしな点はなかった。
突如、甲冑を身に纏った伝令が駆け込んできた。
息を切らし、膝をつき、それでも声を張り上げる。
「皇太子殿下……アルトシュタイン王国で……戦闘が発生しました」
一瞬、空気が止まった。
「確実か?」
トビアスの問いに、伝令は一度だけ、強く頷いた。
「国境線で衝突。すでに騎馬部隊が展開されています」
それで、十分だった。
「……始まったか」
低く呟いたトビアスは、迷わず立ち上がる。
「準備をする。最短経路で戻る」
「戻る」という言葉に、僕は息を呑んだ。
「もう行くの?」
思わず、トビアスに言葉を投げる。
「今こうしている内に、兵士は既に倒れている」
トビアスは即答した。
「それにアルトシュタインは、私の故郷だからね」
それ以上の理由は、必要なかった。
胸の奥が、静かに冷えていく。
それでも、立ち止まる理由はもう、どこにも残っていなかった。
「……僕も行く」
トビアスが一瞬だけ、こちらを見る。
他三人は驚いた様子で僕を見た。
「英斗は部外者だ、来る必要はない」
トビアスが強く言った。その言葉は正論すぎる。
「分かってる」
「エイト……あなたは一切関係のない国へ戦いに行くの?一体どういうつもり?」
アリシアが僕に強く当たる。
「たしか、アルトシュタイン王国の副団長なんだよね、彩月は」
アリシアを無視して、彩月を見る。
「そうニャ」
「これ以上、大切な人を失いたくない」
彩月は、少しだけ俯いた。
「ウチも……英斗と離れるのは、もう嫌ニャ」
いつも通りの彩月だった。
声も、癖も、冗談の言い方も変わらないはずなのに。
なのに――どこかだけ、噛み合っていない気がした。
名前を呼ぶたびに、ほんの少しだけ。何かを、置いてきぼりにしているような。
漠然とした中から、答えは見つからない。僕は、何も言えずに頷いた。
「私は……!」
声が、震えた。
違う。震えているのは声じゃない。私自身だ。
「私も……」
続けなければならない言葉は、分かっている。
行ってほしくない。
危険だ。
戻ってきてほしい。
なのに、そのどれもが――言えなかった。
引き止める理由が、私にはない。
戦場になるのは、私の国じゃない。
それでも彼が選んだ道を、否定できるほど、私は無知じゃない。失う痛みも、取り戻せない現実も、私は知っている。
それでも――違う形で、再会してしまった奇跡があることも。
だから、分かってしまう。
彼が今、誰のもとへ向かおうとしているのか。
その背中が、何を守ろうとしているのか。
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
羨ましい。
怖い。
それでも――奪いたくはなかった。
唇が何かを探すように動く。
言葉にすれば、きっと壊れる。
私と、彼との距離も。
今、必死に保っている、この関係も。
「……」
私は首を横に振った。言わない、と決めた。
頬を、熱いものが伝う。悲しみでも、怒りでもない。
これは――選ばなかった、私自身への涙だ。
振り返らずに、部屋を出る。
エリシアが、何も言わずについてくるのが分かった。
思わず、エイトを見てしまった。何かを言わせてしまいそうで、すぐに視線を逸らす。
そのまま、扉は静かに閉じた。
アリシアの背中が視界から消えても、
彼女の表情だけが、頭から離れなかった。
何かを言いかけて、飲み込んだような、あの顔。
胸の奥に、理由の分からない違和感が残る。
――今のは、何だったんだ。
そう思いながら、僕は視線を戻した。
「本当にいいのかい?」
トビアスが静かに問う。
「大丈夫です、彩月も、いい?」
「……もちろんニャ」
少しだけ、間があった。それでも彼女は、笑った。
彼女はきっと、今の自分を否定しているわけじゃない。
――「選んでほしい名前」があるのだと思った。
僕たちはアルトシュタイン王国へ向かった。戦争は、もう始まってしまった。
誰かが裏切り、誰かが傷つき、それでも世界は容赦なく前に進む。
けれど――帰ってくるのも、きっと一番近くからだ。




