ラプラス
[自分だけだと思ってはいけない]
高校二年生一期末テスト三日目最終科目古典、これが終われば夏休みへ一直線という最後の壁だ。教室には紙に解答を書き込む音が静かに響いている。
教室の後ろから二番目、窓際の席は日光も風もよく当たった。はためくカーテンが鬱陶しいがそれが無ければ直射日光にさらされるのだから我慢するしかない。
頬杖を突いてペン回しをしながら耳を澄ませば必死にシャーペンを動かす音が夏の熱気に乗って聞こえてくる。
皆補習は嫌だろうし、それなりの勉強はしてきたようだが俺はほとんど何もしてきていない。が、問題無い。
黒板の上にかけられている時計を見て終了まで後十分を切っている事を確認する。驚きの白さを保つ答案にようやく名前を書き込み、右目を閉じた。ここ数回のテストで学年トップを保持している生徒を思い浮かべ、『一秒後の未来』を望んで目を開いた。この手順は慣れたものだ。
俺は自分では無い生徒の視点で右目に映る白黒の答案を元に迷い無く自分の答案を埋めた。丸々写すと怪しまれるので適度に誤答を入れ、ものの五分で解答終了。いやあ、選択式は楽で良い。記述式はそれと分からないように表現を弄って写すのが面倒だ。
未来予知。
十七年の人生で日常的にこの能力に助けられてきた。正確には未来視であり、対象は人間限定で自分に対しては使えない(霞がかかってよく見えない)上に、網膜に映し出される映像は白黒で音も温度も匂いも分からない。
しかしそんなものは大した障害にならない。
今回やった事は紛れもないカンニングだが万一にもバレず、証拠も残らない。疑われても立証は不可能。一種の完全犯罪だ。現に一度も発覚していない。
人より情報を知る手段が一つ多い、というのは便利なものでいつもこうしてコソコソ使っている。ノーリスクの未来視は非常に使い勝手が良かった。
開け放たれた窓からは涼しい風と蝉の声。全ての縛りから開放される長期休暇はすぐそこだ。テスト終了のチャイムと共に用紙の隅の落書きを消し……
いつもと少し違う夏が始まる。
テスト返却後に数日を挟み、終業式がつつがなく終わった。成績表に記されているのは軒並中の上。そんなものだろう。
成績については特に感慨も無く、夏休みの予定について楽しげに相談するクラスメイトを尻目にそそくさと荷物をまとめて教室を出た。一緒に帰る友人はいない。
いじめを受けている訳ではないが好かれてもおらず、有り体に言えば空気扱いだった。別に不満は無い。会話をしようとしない俺が悪いのだから。
馬鹿みたいに張り切っている太陽に炙られ、やばい焦げる、焦げると頭の中で繰り返しながら帰路につく。コンクリートの照り返しと熱気に包まれ、半端に家が近いばかりに徒歩通学だった。バス通学の奴は冷房が効いた車内で談笑しながら帰るのだろう、畜生。汗をかいても熱気で乾く恐ろしさ。どうせなら爽やかな風に乾かしてもらいたいが生憎今日は無風だった。
数分が数時間に感じる擬似町中砂漠を堪能して我が家につく。
玄関を開けた途端にひやりと冷気がただよう。ユウレカ、天国はここにあった。
靴をぬいで鞄を放り出し、玄関の床に倒れる。冷えた床が心地よい。
あーだのうーだの言いながら汗が引くまで床に寝そべり、だらだらと起きて鞄を拾い二階に上がる。自室のドアが少し開いていた。ここから階下に冷気が漏れていたのか。
中に入ると同じ高校に通う俺と双子の妹がベッドに寝そべって漫画を読んでいた。妹の担任はホームルームが短いのだ。事ある毎にくどくど説教が長く授業も下手な俺のクラスの髭担任と替えて欲しい。妹は長い黒髪をバラバラとベッドに散らし、読み終えた漫画を丁寧に脇に積み上げている。広がった髪が海草の様だと思ったが口に出せば怒るだろうから言わない。
「とりあえず部屋から出ろ、着替えるから」
「えー?」
ネクタイを外しながら言ったのだが、妹は漫画に目を向けたまま気のない返事を返す。動く気は無いらしい。
仕方無く兄に似てだらけ気質の妹の首根っこを掴み、部屋の外に放り出す。さっさと着替えて部屋を出ると、妹は廊下に寝転んで漫画のページをめくっていた。ナマケモノか、怠け者か。
「昼飯は」
「そうめん」
階下を指差しながら簡潔に答える。作ってあるらしい。俺が階段を降り始めると、ようやく妹は漫画を閉じてついてきた。
テーブルに向かいあって座り、ザルに盛られたそうめんをつゆにつけて食べる。
両親は共働きで滅多に家にいない。故に朝食は当番制で俺達が作っているが、弁当は各自勝手に作るか買うかするし、夕食は早く帰宅した方があるもので適当に作る。今日のような日も帰宅が早かった方が作る。お陰で創作料理スキルが無駄に上がった。
こまめに食材を買って来れば良いのだが、二人共面倒は嫌いなので休日にまとめ買いし、傷みが早そうな物から料理していく。
日持ちするそうめんが今日出たという事はそろそろ食材が切れるという事だ。
「今日は八百屋が休みだな……明日予定無ければ買い物頼む」
「デートあるから」
「明後日は?」
「恵美の家に泊まりで遊びに行く」
「明々後日」
「あ、24日から28日まで美紀の別荘に泊まりで行くから」
「……分かったよ、俺が行けばいいんだろ」
はっ、この遊び人! 八月三十一日に大量の課題を前にして足掻くがいい! ……でもこいつ要領良い
からな……時間を見つけていつの間にかやってるんだよな……遊び惚けているように見えて毎年俺より宿題を終わらせるのが早い。優秀な奴だ。
性格は若干アレだが容姿端麗スポーツ万能、運も割と良い。俺が勝っているのは予知能力くらいではないか。それも公言していないので勝つも負けるも無い。
俺の予知能力は案外誰にも気付かれていない。意識して使うようになったのが中学生からだったし、バラさなければ大抵『勘が良い、予想が当たった』で済む。
いや、バラした所で黄色い救急車を呼ばれるだけだが。
隠している理由としては目立ちたく無いのと、狙われたくない、というものが挙げられる。
平和大国日本に特殊技能を持つ国家機密集団! みたいなものがあるかは知らないが、そういう重苦しそうなもの狙われて関わりたくない。マスコミも願い下げ。自堕落にならない程度に楽をして、ほどほどに楽しい人生が送られればそれで満足なのだ。この能力はこれからも地味に活用させてもらう。
そうめんを食べ終わり、食器を洗って二階に上がる。妹は漫画を片手に部屋までついて来た。ベッドの上の漫画の量から察するに、シリーズ全巻を大人買いしたらしい。
妹の部屋のエアコンは故障中で今年の夏は俺の部屋に入り浸っている。流石に寝る時は出ていくが。
再びベッドを占領してちょっとした山になった漫画を読み耽る妹を尻目に机に向かい、早速宿題にとりかかる。今年こそは早めに終わらせたい。
正直、大学の入試よりも夏休みの宿題の方が余程厄介だ。予知を使って同級生の苦労の成果を覗き見ても、写す行為そのものにえらく時間がかかる。ノート一冊分英訳して来い? 何言ってんだあの髭面教師。冗談は顔だけにしてくれ。
俺は時間操れないかなぁ、などとため息をつきながら宿題との格闘を始めた。
やる気と根気は続かないもので、三日でシャーペンを走らせるのが嫌になった。
そもそも俺が予知できるのは72時間先まで。夏休み開始一週間足らずで宿題を片付ける高校生などそうそういない。一端小休止だ。
とかなんとか言って毎年小休止が大休止になるのだが、折角の長期休暇だ。遊びたい。
小生意気にも朝から旅行鞄を下げて友人の別荘に招待されて行った妹を見送り、ふと俺も出かけようかと思い立った。
俺は比較的インドア派だが、夏休み中家に籠って宿題漫画ネットではやるせない。出かけるにしても干物になるのは御免なので、どこか涼しい所が良い……図書館? は、室内か。そういえば妹は友人の個人所有の砂浜でビーチバレーをすると言っていた。それもプライベートビーチだ。ブルジョアの友達持ちやがって。兄妹でこの差は一体なんなんだ。
……よし、民営プールに行こう。妹と比べて規模が悲しくなるほど落ちるが、涼しいし家からそう遠くないし悪くない。そうと決まれば早速準備。
数時間後、俺は弁当と小銭、水泳セットをスポーツバッグに詰めて家を出た。
自転車をこぐ事十分弱、それなりの賑わいを見せる民営プールに着いた。屋外プールを囲む柵を更にまた木々が囲み、そこに張り付いた蝉共が大合唱している。
五月蠅いな。お前らは夏の終わりに物哀しく独奏でもしてろ。夏期限定公演で張り切りやがって。
入り口でプール入場料を払い、男子更衣室でさらに追加のロッカー代金を使う。上手く金をとっていると思う。まとめて払わせない所がミソだ。
着替えてシャワーの洗礼を受けて屋外に出ると、人ヒトひと人の波。柵の外から見るのと中に入って体感するのとでは人の密度が違った。
加えて周りは家族連れやカップル、同年代グループばかりだ。一人の俺は浮いていますかそうですか。
まあ別に俺が気にしている程周囲は俺を気にしていないだろう、と微妙に淋しい割り切り方をして忘れる事にする。
折角浮輪も持って来たのだし流れるプールに行こうか、ウォータースライダーに行こうかと悩む。が、ウォータースライダーの階段にぞろぞろと並ぶ順番待ちの列を見て諦めた。最後尾の少年を予知。……七分待ち? 長いな。
流れるプールに行こうとシャチ型の浮輪に空気を入れる。空気ポンプは持っていない。中高一貫文芸部の肺活量では空しくなる程膨らむのが遅かった。
しかしこれは浮`輪´では無くむしろ浮き袋……浮き動物か? いや、シャチは元々水中の生き物だから`浮き´を付ける必要は……駄目だ、それを省くとただの動物になる。正式な商品名はなんと言うのだろう? ちょっと思い出せない。
空気を入れ終えて栓をする。俺はシャチを片手にプールに繰り出した。
なぜか周囲の客の目線が俺とシャチに集中していた気がするがそんなに可笑しかっただろうか? 確かに他にシャチを抱えた高校生は見かけなかったが。
昼頃、人肌と熱射日光で生温くなったプールから上がり、ロッカーに浮輪を戻して弁当を出す。運良く空いてるパラソルを見つけ、持ってきたシートの上に弁当を広げた。
疲れた……午後は一、二時間泳いで帰ろう。こう人が多いと水が中途半端に温かくなる。人肌以下、でも冷たくない。もの凄くモヤッとする。ああ海に行った妹が羨ましい。長距離移動の手間は面倒だけれど。
見るとも無く通り過ぎる家族連れを眺めつつサンドイッチを食べる。美味くも不味くも無い。
しばらくもそもそ咀嚼していると困り顔の少女が目の前で立ち止まった。
「あの、パラソルの端の方入らせて貰って良いですか? どこも一杯で……」
「ああ、もう食べ終わったんで良いですよ」
手早く弁当を片付けて撤収、場所を譲る。少女にありがとうございます、と頭を下げられた。礼儀正しい。
それから25Mプールでバタフライやらクロールやらの練習をした。一往復するだけでスタミナゲージを二本は消費した気がする。しんどいだるい疲れた。慣れない事はするもんじゃないな、と痛感した。明日の筋肉痛と日焼けが今から恐ろしい。
予定変更、三十分でプールから上がる。シャワーを浴び、だらだらと着替えて帰路についた。湿った髪が向かい風で見る間に乾いた。微かに塩素臭い、これもまた夏の匂いだ。いや臭いか?
プールに行ってから数日、妹がこんがり小麦色に日焼けして帰ってきた。夏休みに入ってからまだ一日しか外出していない俺よりも健康的に見える。
宿題はあまり進んでいない。妹が部屋に積み上げていったギャンブル漫画が思いの外面白く、夜遅くまで読んでいたので寝不足気味だ。不健康結構。俺にとって夏休みはその為にある。何度も外出してヒートアイランド現象に勝てない勝負を仕掛けるつもりは無い。エアコン扇風機パソコン、文明の利器万歳だ。
今日は読書感想文の本を今の内に買っておこうと、昼前に家を出た。七月もそろそろ終わりだ。暑さも峠に差し掛かっている……と思いたい。さもなければ茹であがる。
外は冷房病患者としては尚更日差しが眩しく感じた。半ば駆け込むように書店に入り、ひんやりとした空気に癒される。
今日発売の週刊誌に惹かれつつ探してみれば読書感想文の推薦図書はわざわざ専用コーナーが設けら平積みになっていた。まあ確実に売れるからな。
平積みの中から歴史物の薄い本を一冊取り、漫画コーナーに向かう。妹から頼まれた死神漫画の最新刊を探していると、どこかで見たような顔の少女が雑誌を立ち読みしているのが目に入った。
…………?
……ああ、プールでパラソルを譲った人か。地元の中学の制服を着ている。
だからと言っても特に話す事など有りはせず、死神漫画の最新刊、運良く残っていた最後の一冊を取ってレジに向かった。
それから帰り際商店街に寄って食料の買い溜めをする。シャッター街になる商店街が多い中、ここは良くやっている。定休日以外で閉まっている店は見当たらない。
おお、パイナップルが安いな。荷物が増えるが構いはしない。後はトマトとジャガイモとニンジンと……
買い物袋が膨れ上がり、自転車に乗るとふらついたので押して帰る事にした。徒歩で家まで二十分ほど。昼飯は妹に作らせよう。
妹は材料があるからとカレーを作りやがった。しかも辛口。このクソ暑い中買い出しに行ってへたばっている兄に止めを刺す気か。
文句と軽口の応酬をしながら結局完食。腹と喉が熱い。今度激辛マーボー豆腐を作ってやろう。いや俺も食べる事になるのか。
午後は半年程ログインしていなかったMMORPGをやった。少し見ない間に新機能が実装されていて訳が分からない。
攻略サイトを見つつ情報を追ったがリンクを追う内に脇道に逸れ、気づけば里芋の栽培レクチャーのサイトを開いていた。
宿題、未だ再開せず。
夏休みは曜日の感覚が薄れる。塾も補習も部活も無いと毎日が日曜日だ。
いつの間にか夏休みも残り半分、今日は地元の納涼祭がある。運動公園を丸々借り切って行われ、出店も踊りも花火もある。来場者には団扇が無料で配られ、その団扇の裏に書かれた四桁の番号を使い花火の後に抽選が行われる。七等まであり、今年の一等は二泊三日温泉旅行(五名)だそうだ。主催者もなかなか豪気だ。
妹は例の資産家の友人達と一緒に行くらしい。昼前に浴衣を着て出かけて行った。
こっちは家の縁側から花火を見る予定。予知の映像は白黒なので、色彩豊かな大輪は直に拝むのが吉だ。
言葉を変えれば誰からも誘われなかったからの縁側待機。妹が出かけ際に寂しい奴を見る目を向けていったが俺にしてみれば花火など一人で見ても十人で見ても同じだ。
現代社会では人は一人で生きて行けないが、最低限の交流で済む方法を選択すれば案外一人の時間は多く取れる。それを選択している大人は恐らくそれなりに居るはず。
昼食はまたそうめん。茹でるだけで調理ができるので頻繁に作る。……正直に言えば去年の夏に買い溜めしたものが残っていただけだ。そうめんはもう食べ飽きた。
食器を洗い、居間のテレビをつける。雑学クイズ番組をやっていた。芸能人があれやこれやとボケツッコミを交わしつつ問題に答えていく。あれはアドリブでやっているのか台本にそうあるのか今一判断がつかない。
予知を使う対象には直接会わなければならなず、テレビの画面越しに見ただけでは使えない。知っていそうで知らない問題が嫌らしかった。雷の電圧なんぞ知らんわ。
三十問の内、二十三問正解した。番組のゲストのトップが二十七問だから、まあまあの成績か。
時折どこからか侵入した蚊を虫除けスプレーで撃墜しつつだらだらしていると夕方になった。
縁側に出る。低い生垣の向こうを浴衣姿の女性グループが姦しく通り過ぎて行く。
茜色の空に蝉の声。まだツクツクホウシは鳴かない。漢字だとツクツク法師か? ツクツクの由来はどこだろう。想像がつかない。
スイカを半球切り、塩を振って食べる。本日は微風、風上に蚊取り線香を焚いているがあまり効いている気がしない。煙の中を平然と蚊が飛んでいるのを見るに至り、製造元にクレームをつけたくなった。蚊の野郎……いや、血を吸うのは雌だけか。蚊のアマ。
スイカが半分無くなった頃、ヒュルル、と乾いた音の後花火の一発目が夜空に上がった。数秒遅れて大太鼓を破城槌でぶち破ったような音が轟く。最早爆音、いや真実爆音だった。
花火師の技術も時代と共に進歩しているのか、土星の輪やらどこかで見たマスコットキャラクターモドキの花火が時折上がる。
……これは風流と言えるのか? まあいいか。
やがて花火も終わりに差し掛かる。花火の後は団扇クジ抽選会だ。
妹を予知してみる。二十分後……盆踊り用の櫓の上で役員が箱から玉を掴み出し、当選番号を読み上げている。七等……ハズレ……六、ハズレ……五……あ、妹の友人が当たった。手を叩きあって喜んでいる……四……三……二……一……一? え、おい……あいつ一等当てやがった!
来場者は例年二千人を優に超える。少々呆気にとられた。二千分の一だ。昔から運の良い奴だったが大したものだ。
今から会場に行って団扇を貰い、妹のものと交換しようか……いや流石にセコ過ぎるな。第一今向かっても間に合わない。
良く晴れた星空を大輪の花火が照らす。最後に数発の一際大きな大玉を打ち上げ、身を打ち抜くような余韻を残して終わった。
さあ抽選だ。妹が帰って来たら祝ってやろう。
妹の帰宅はそれから二時間後だった。友人宅に寄ってきたらしい。寄り道するのは分かっていたので先に風呂に入っておいた。
「何ニヤニヤしてんの? 気持ち悪い」
玄関で迎えると、開口一番辛辣な言葉を投げ付けられた。しまった顔に出ていたか。
「団扇クジは当たったか?」
結果を知りながら取り繕った顔で聞く。
「ハズレ。美紀は当たったけど。それとその気持ち悪いニヤけ顔に何か関係あるの?」
「そうか、一等が当た……は?」
聞き間違ったか。
「ワンモア」
「ハズレた。美紀は当たった。顔が気持ち悪い」
兄に向かって気持ち悪いを連発するな……じゃない、
「嘘では無く?」
「どれの事言ってるか知らないけど嘘ついてどーなんのよ。風呂沸いてる?」
「いや沸いてるが……」
「そ」
妹は脇をすり抜け、団扇を荷物をこちらに押し付けると階段を上がって行った。自分の部屋に戻ったようだ。
押しつけられた射的の景品やら使い道のイマイチよく分からない健康グッズらしきものを捨て置き、団扇の裏の抽選番号を確認する。0851。予知で見た一等の番号も、妹の番号も0851だった。
釈然としない。記憶違いか? いや、確かに妹が何度も自分の番号を確認し、一等の景品を受け取る所を見た。去年行った時に末等を当てたから分かるが、景品を受け取る時に団扇の番号には赤線が引かれる。この団扇にはそれが無い。当たって交換しないなんて事は無いだろう、確かにハズレている。
「何団扇睨んでるの? 何度見てもハズレだってば。そんな温泉旅行行きたいなら兄貴も来れば良かったのに」
着替えを持って降りて来た妹が呆れた声を出した。
「一等は何番だった?」
「12……んんー……忘れた」
納得が行かない。
何故予知が外れた? 今までこんな事は一度も無かった。今までは予知者、つまり俺が積極的に干渉しない限り未来に変化は起こらなかった。今回俺は家から動いておらず、抽選会場の未来は書き変わらないはずだ。
一体どうして……
妹が風呂場の戸を閉める音をどこか遠くに聞きながら、小一時間自問自答を繰り返した。
予知が外れた原因が分からないまま夏休みは残り十日を切った。そろそろ宿題を再開した方が良いのだが手につかない。ちなみに妹は案の定さり気なく終わらせていた。いつの間に?
予知能力が失われた訳ではない。あれ以来予知は正常に働く。妹に予知抵抗力のようなものがついたか、とも疑ったが、試したみた所そんな事は全然無かった。
イライラと得体の知れない不安が積もる。今まで随分と予知に頼って来た。それに変調をきたせば穏やかではいられない。
……このまま家で考え込んでいても仕方が無い。現場に行ってみる事にした。
昼食をとってから自転車で家を出る。空には薄雲がかかり、暑さを多少和らげてくれていた。
運動公園には当然ながら祭の跡は全く無かった。自転車を駐輪場に停め、芝生のグラウンドでサッカーをしている少年達――丁度盆踊りの櫓があった辺りに居る――を予知する。
問題無い。白黒画像、音無し匂い無し。
他にも何人か試し、付近を探索してみたがこれといった成果は得られなかった。地理的原因ではないらしい。
力無く自転車をひいて帰路につく。骨折り損のくたびれ儲けだった。
もう気にしない方が良いのだろうか? たった一回の例外だ。もしかすると予知の成功率は99.9999%なのかも知れない。しかしいざという時に外れると困る。原因があるなら突き止めたい。
悶々と悩み、いつの間にか商店街に差し掛かっていた。ついでに食料を買い足しておこうと八百屋に向かうと、途中で抽選会をやっていた。ガラガラ回して球を出す奴だ。正式名称は知らない。特に知る気も思い出す気も無い。ガラガラとでも呼べばいい。
どこか投げやりになっている自分を感じつつ末等のティッシュボックスを貰って残念そうな顔している主婦を眺める。
ふと自分も抽選券を持っている事に気が付いた。前回パイナップルを買った時に貰ったものだ。一枚しかないし使わないのも勿体無い。
自転車を時計屋の隅に停め、順番待ちの列に並ぶ。自分の前のおばさんを予知する……少なくとも自分の番までに末等以外を当てる人はいないようだ。手持ちぶさたで自分の番が来るまで待つ。前に並ぶチャレンジャーが三人になった時、それが起こった。
「おぉーアタリー!」
カランカラン、とベルを鳴らし、係の法被に鉢巻き姿のおじさんが声を張り上げる。周囲の買い物客が驚いて一等を引き当てた少女を見た。俺も驚いたが、周りで少女に祝福を送っている客とは驚きの質が違う。
また、予知が覆された。
嬉しそうに景品(商品券三万円相当)を受け取る少女に予知を使う。しかし霞がかかってよく見えなかった。自分自身に予知を使った時と同じだ。
この少女には絶対に何かある。一般人とは違う何かが……
後ろから背中を押されてはっとした。少女を目で追っていたので自分の番が来ていたのに気がつかなかった。俺の視線の先を追った係のおじさんがニヤっと笑って「一目惚れか」と小声で言ったが、無視して片手間に抽選を終わらせる。末等にすら掠らなかったが心底どうでも良い。すぐさま少女の後を追いかけた。
「そこの一等当てた人!」
商店街の出口で追い付き、声をかけた。
「え、私ですか?」
少女が怪訝な顔で振り向いた。
どこかで見た顔だ。ショートの黒髪を肩で揃え、水色のワンピースで涼しげな格好をしている。どちらかと言えば可愛いに分類されそうな顔を小さく傾げていた。
「あんた花火の時も一等当てただろ」
はっきりした根拠は無かったが、カマかけのつもりで聞いた。前フリ無し。交渉や駆け引きは苦手だ。
口に出してしまってからこれで何かの間違いだったら恥ずかし過ぎる、と後悔したが、少女はびくっと肩をはね上げ、分かりやすいぐらい動揺した。
……ビンゴ。問詰める為にゴチャゴチャと考えていた手間が一気に省けた。視線を逸らさず、半ば睨みつけるようにしていると、少女は冷静さを取り繕って頷いた。
「そ、そうですけど。それが何か?」
繕いきれていない。声が微妙に震えている。単なる幸運で二つの一等を勝ち取ったのならこうはならない。何か裏がある。
「何をした」
弱気な性格と見て強く攻める。少女はそわそわと買い物袋を弄った。
「え……普通に運が良かっただけですよ。ラッキーです。自分でも驚いてるぐらいです」
「驚いている? その割にさっきは驚いて無かったな。ただ喜んでいるだけに見えた。何かやったんだろ?」
少女の顔がさっと青褪めた。体が小刻みに震え、段々半泣きになってきた。
「それは……ただ……何でそんな事聞くんですかぁ……」
声も涙ぐんでいる。更に追求しようとして、周りの主婦が非難の目で俺を見ているのに気がついた。ぬかった……雰囲気に流されて白昼堂々恐喝まがいの事をしていた。慌てて頭を下げる。
「いや、すまん。責めてる訳じゃない。ただ少し不思議に思って……幸運と言えばそれまでだが……まあ、とりあえず場所を変えようか」
態度を軟化させ軽く促して歩き出すと、少女は素直に着いて来た。流石に見知らぬ高校生に着いていくのは渋るかと思ったが、好都合なので良しとする。テンパっていて状況を理解出来ていない可能性もあるが、断られたら無理に連れて行く事はできないからわざわざそれを口には出さない。
近くの喫茶店に向かいながら少女の顔を観察した。不安げな表情をしているが、やはりどこかで見た事が……ああ思い出した、書店で会った少女だ。その前はプールで。
神様の存在は欠片も信じていないが、何かの導きかと疑った。これがRPGなら仲間が増えて悪の組織を相手取り大活劇! の前触れだ。幾らなんでもそれは無いと思うが。悪の組織(笑)。ねーよ。
喫茶店に付き、テーブル席を頼んで向かい合わせに座る。少女は荷物をもったまま不安そうにしている。
店員に紅茶を二つ頼み、少女に向きなおる。
「ここは俺が奢るから支払いは気にしないでくれ……とりあえずそれを置いた方がいい。長話になると思うから」
少女は慌てて荷物を空いている椅子に置いた。
「……私何も悪い事してません」
開口一番ベタな台詞を寄越した。思わずカツ丼喰うか、と言いたくなる。
「誤解があるな。別に悪事を疑ってはいない。純粋に二回の抽選で何をしたのか、そこに興味がある。単なる知的好奇心だ、それ以上でも以下でも無い。何を聞いても他人には言わない。犯罪でもだ。秘密厳守は信用してくれて良い」
努めて優しい口調で話したつもりだが、家族以外とはほとんど話さないので思うように意図が伝わったか自信が無かった。
「…………」
少女は沈黙している。黙秘か。気が弱すぎるのも考え物だ。余り強く出ると先程のように泣かれる。信用してくれと言ってみたが会ったばかりでは無理な相談だろうし、このままでは埒が明かないな。
俺は頭を掻いて紅茶を啜った。こちらの手札を明かすか……
「なあ、超能力を信じているか?」
秘密の共有は仲間意識、ひいては信頼に繋がる。またもや唐突で短い一言だった
が、それで少女の瞳の色が変わった。分かりやす過ぎる。この反応はガチだ。このままバラしても問題無いだろう。
「察しは付いただろうから腹を割って話そうか。俺は予知……未来視の能力がある。そっちは幸運を呼び寄せるか確率を操るか、その辺りの能力じゃないのか? それを使って当てたんだろう」
少女は一瞬躊躇したが頷いた。
「……はい。大体それで正しいです。どうして分かったんですか?」
よし言質を取った。知らず、肩に入っていた力が抜ける。緊張していたのはこちらも同じだったらしい。あっさり認めたのは逃げられないと思ったのか。
「花火大会の時、妹に予知を使った。一等を引き当てていた。で、帰宅した妹に聞くと末等すら当たっていなかった。確認したが確かに空クジだ。今までに予知が外れた事は無かったから奇妙に思った」
「色々と調べ周ったが原因は分からない。今日は盆踊り会場を調べた帰り、商店街の福引きの列に並んだ。予知を使い、俺の前に当たりを引く奴はいないと出たのにまた覆された。後は出るはずの無い一等球を出した犯人を追った訳だ。普通予知した未来は変えられない。変えたならそれは常人じゃない。そういう経緯だ」
「なるほど……未来視って言うのは」
「ああ、対人限定で三日先まで予知できる能力だな」
「え、未来が変わるって有り得るんですか? その、タイムパラドックス? とか」
少女はある程度打ち解けてくれたらしく、滑らかに質問を返した。もう怯えた様子は無い。
「少なくとも俺の予知は書き変える事ができるな。今までそれが出来るのは俺一人だった」
だから初めての超能力者仲間だ、と付け加えるのは思いとどまった。まだそこまで親しくなっていない。仲間という言葉があまり好きでないという理由もある。
「へぇー……一回やってみてくれませんか?」
「未来の書き換えを?」
「予知です」
ワクワクした顔で少女が言った。予知の存在に疑問は無いようで、すんなり情報を飲み込んでくれた。信じやすい(騙されやすい)タイプだな。
こんなに一度に物証も無い秘密を明かされたのに嘘だと思わないのだろうか。
確かに含む所など一片も無いが。超能力関連の情報交換相手が欲しいだけだ。また予知能力に変調をきたすと困る。
誰も教えてくれる人が居ない以上、自分の能力の把握は自分でやらなければならない。
俺はリクエストに応えてカウンターで客の注文を取っていた店員を予知する。傍目からは瞬きをしたようにしか見えないだろう。
「あの店員。八分後にミートスパゲティをカウンターの左から二番目の客に運ぶ」
「……え? 今ので予知できたんですか」
拍子抜けした顔をされた。何故?
「そう。それでそのがっかり顔の理由は?」
「もう少し何か……周りの気温が下がったり光ったり呪文唱えたり……あるかと思ったので」
あー……そんなファンタジックな現象は起こらない。予知の度にそんな副作用があればこんな人目の多い店内で気軽に使えはしない。
「そっちの能力もファンタジーなエフェクトは付かないだろ?」
「そ、それはそうですけど」
「呪文唱える必要あるか? 魔法の杖が必要か?」
「……必要無い、です」
納得した様だった。超能力とは言っても科学現象じみている。気合いや根性で効果は変化しない。決まった行動で決まった結果が出るのみ。科学現象に呪文が必要か? 答えは否だ。
その時注文した紅茶が運ばれてきたので、一度話を中断した。
しばらく無言で紅茶を啜る。熱い液体が効き過ぎの冷房でいつの間にか冷えていた体に染み渡った。
それとなく周りを見回したが、客の注意がこちらに向いている様子は無い。今の会話を聞かれた所でゲームの話とでも思ってくれるだろう。または痛い奴等だと思うか……まあどちらでもいい。
互いの能力確認は済んだので少し雑談をした。
少女は黒沢と名乗った。名字と繋げて読むと変な言葉になるらしく、名前の方は教えてもらえなかった。
来年受験を控える中三生で、偶然にも俺が通う高校を志望していた。その事を言うと先輩と呼ばれた。気が早いな、と思ったが悪い気はしない。
黒沢は段々と饒舌になり、どもりながらも盛んに喋った。ピーチクパーチクコロコロ話題が変わり、良くもまあこれだけ喋って口が止まらないものだと変に感心する。
しかし勉強の方法がどうのこうのという話題に移った所でストップをかけた。紅茶一杯で一時間も居座るのは良くないし、思い出したが時計屋の脇に自転車をおきっぱなしだ。不法駐輪で撤去される前に取りに戻りたい。
まだ話し足りなそうにしている黒沢に用事があるからと断り、携帯アドレスを交換して代金を精算しした。喫茶店の正面の交差点で別れる。去り際に手を振られたので軽く振り返した
「…………」
じわりとアスファルトから沸き上がる熱気は変わらず、薄雲に隠れた太陽は依然高い。黒沢と会ってからまだ二時間も経っていなかった。
丸一日は経過した気がした。こんなに密度の濃い時間を過ごしたのは久しぶりだ。都合よく展開し過ぎている気もしたが人生こんな日があっても良い。
知らずニヤニヤしながら先程の会話を思い返し、商店街に戻る。
……自転車は違法駐輪の紙を残して消えていた。
シット。やはりこの世界は幸不幸のバランスがとれてやがる。
夏休みも残り三日になった。渋々宿題を再開する。
夏休み最終日に律義に宿題の確認をしている優等生の予知の光景を写すだけの単純作業だ。面倒臭い。面倒臭いが倍で済まない手間をかけて宿題を仕上げただろうクラスメイトの手前、弱音は吐けない。
暑さはようやく峠を超え、夕方は涼しくなってきたが昼間の熱気は衰えない。今日も今日とて冷房を効かせた自室でシャーペンを走らせる。
右手で英文を訳しながら左手でイライラと携帯を開け閉めしていると、抱き枕持参でベッドに寝転んで携帯ゲームをしていた妹に目敏く見咎められた。
「あれ珍しい。誰からメール待ってんの? 彼女?」
彼女、の部分を小馬鹿にしたように付け加えた。こいつは自分がモテるから女っ気プラスマイナスゼロの俺を見下している。別に悔しくは無いが、事あるごとにそれを引っ張り出すので鬱陶しい。
「友達」
「え、嘘、友達居たの!?」
わざとらしい台詞だったが臓腑を抉られた。
それは言うな……中学の時に予知が使えるからと中学生特有の馬鹿をやって以来友人は出来ていない。対面的に数人はいた方が良いと思うのだがどうも気が進まず距離を取ってしまう。中学時代も周りから見ればそれ程酷く無かったのだろうが、俺にしてみればトラウマだ。必要性を感じれば無理にでも作るがそんな状況になった事は無く……
とにかくそのせいで夏前までアドレス帖には家族の番号しか入っていなかった。
「俺にだってメール相手の一人や二人いるさ。宿題やるから黙ってくれ」
俺が毎年夏休みの最後に机に釘付けになるのを分かっているだけあって「ふ~ん?」と何か癪に障る言葉を残すと静かになった。
黒沢とはあれから時々メールのやり取りをしている。黒沢の能力は『幸運選択』だそうだ。クジやジャンケンでは天下無双状態だが、道端でタクシー通りかかれー、と念じたり一万円札落ちて無いかなーと探したりしても意味は無い。幸運を『起こす』事はできず、選択肢があって初めて役に立つ能力だった。
幾つか実験してみてはっきりしたが、能力者同士では能力が無効化される。俺は黒沢を予知出来ないし、黒沢と俺がジャンケンをすれば勝率は半々。俺の予知は黒沢の行動で変更され、黒沢の選択は俺が関わるとはずれが出る。
勿論能力関係の話以外もする。主に受験勉強のアドバイスだが、テレビやネットゲームの話もした。性別も歳も違うが趣味は結構似ていた。
入試本番三日前に試験内容を教えてやろうか、と聞くとキッパリ断られた。純粋に実力で勝負したいらしい。本番のテストでは選択問題も能力を使わずに解くとの事。真面目だ。俺が不真面目なのか。
挫けそうになりながらも八月三十日の夜に宿題を終わらせた。『今年は珍しく一日余った。自分を褒めてやりたい』とメールを送ると、『人の宿題写しておいて何言ってるんですか』と返って来た。御尤も。こいつは普段弱腰の癖に言う時は言う。相手の顔が見えないと特に。ネット弁慶、だったか?
『そういえば反則技で商品券三万円分当てた奴がいたな』
『ごめんなさいm(__)m』
今気がついたがこの携帯で今まで一度も顔文字を使っていないな……女子はよく使う、というのは偏見か?
『すぐ謝るのは悪い癖』
『ごま 母にもよく言われます』
こいつ今ごめんなさいと打ちかけた。
『女子は男子に比べて顔文字が多いか』
『すみません、男子のメル友居ないので分かりません』
学習しない黒沢と下らないメールを交わしていると明日の昼食に誘われた。両親が出かけるため昼と晩は外食するらしい。妹さんも一緒にどうですか、と聞かれたが断った。年下の中学生に食事に誘われる高校生。確実に丸一年は妹にからかわれ続ける。
翌日の十時頃、出かけようとすると玄関でめかしこんだ妹と鉢会わせた。
「あれ、出不精の兄貴がまた出かけるの? 今日はクラスター爆弾でも降るかな」
「おい何で中途半端に具体的なんだよ……お前も出かけるのか」
「私はデート。兄さんはどうせ図書館かゲームでしょ、それも一人で寂しく。早く彼女作りなよ」
ファミレスに行くのだが特に反論はしない。まあ行き先を勘違いしてくれるならそれで良し。まさかファッションを頭から無視した地味な灰色Tシャツとハーフパンツにサンダルでデートだとは思わないだろし実際違う。食事ついでに幾つか能力実験と雑談をするだけだ。
妹はいつもと違って言い返さない俺を不審気に見たが、腕時計を見ると何を言うでも無く出かけて行った。
玄関を開けると曇り空だった。わざわざ新聞の天気欄を見に戻るのは面倒なので、クラスのサッカー部連中を予知する。多分今日も高校のグラウンドで練習中だ。
彼等は案の定昼前に雨に降られ、体育館に避難していた。ご苦労な事だ。俺は傘立てから紺の折り畳み傘を出し、家を出た。
近場なので自転車は使わない。大して時間も掛からずに大通りに面したファミレスに到着する。黒沢はまだ来ていない。
会合はいつも現地集合現地解散だ。未だファミレス以外で待ち合わせた事は無い。友人と言うにはいささか素っ気無い付き合い方だが、このスタンスが一番しっくりくる。
入口の脇でメモ帖に記録した議題を見直していると黒沢が来た。白と薄緑の大人しい色調の動き易そうな服だった。
「ま、待ちました?」
「五、六分」
「すみません」
「だから一々謝るなと……まあいいか。入ろう」
メモ帖を閉じ、レディファーストなど知った事かとさっさとファミレスに入った。ついて来る気配の無い黒沢を不審に思って振り返ると俺の顔と俺のサンダルを交互に見比べていた。
「なんだ」
「あ、あの、サンダル……」
「サンダルがなんだ」
「……な、なんでもないです」
訳が分からん。
北国でもないのに二段構えになったドアをくぐり入店する。なぜ二段構え。ささやかな疑問を抱きつつ
店員に二名だと告げ、奥の禁煙席に案内された。
「ご注文がお決まりになりましたら、」
「あ、もう決まってます」
カルボナーラとフリードリンクを注文する。黒沢はシーフードグラタンと同じくドリンクを頼んだ。
店員が注文を復唱してマニュアル化された動作で下がり、俺達は飲み物を取りに行った。
カフェオレを片手に席に着く。黒沢は見るからに甘っそうなアイスココアを選んでいた。
「今日は超能力が宿る場所について」
「今ちょっと思ったんですけど、何回も話し合ってるのによく課題が尽きませんよね」
「ああ、色々な観点で考えてるからな」
その内過去の超能力者についても探ってみたい。歴史上の人物で有名な教祖は超能力者だったのではと思っている。俺は扇動か魅了あたりの能力と見た。もしくは治癒かも知れない。
最初超能力の法則確認だったこの会合も微妙に趣旨が変わって来ている。黒沢も自分の能力についてあれこれ話し合うのはまんざらでもなさそうだった。
「それは置いておくとして……さて、例えば俺の予知は視覚だろ。なら両目を抉れば予知は使えなくなるのか」
「……グロいですね」
「茶化すな。超能力は物理現象ではないが確認してみようか……今俺の目には何が映っている?」
思い出した適当な人物を思い浮かべて両目で予知する。映ったのは晩酌をする髭教師だった。黒沢が身を乗り出す気配がした。
「私の顔です」
「だろうな」
予知を切る。黒沢は顔を離した。
「瞳に予知相手が映る訳じゃない。つまり視覚情報が直接脳に入っている可能性がある。その場合盲目になっても予知は使える」
「可能性? 断言はしないんですか」
「両目予知の間に現実の光景は見えない。瞳に光は入っているのだから、視細胞から脳までの伝達経路のどこかが遮断されている事になる。光が視細胞に届く前に妨害されているならば超能力が視細胞を刺激しているパターンも考えられる。それならば目が無ければ予知出来ない」
「うん? ……先輩って本を読み上げるような喋り方しますよね」
「話聞いてんのか」
「あわ、ごめんなさい聞いてます」
「黒沢の幸運選択については予知より分からんな。喋っても能力が使えるから、腕に力が宿っている訳じゃない。血か骨か皮膚か……あるいは全てか。俺の場合は一度目玉抉り出してみればはっきりするんだが」
「カフェオレ飲みながら平然ととんでもないブラックユーモア言わないで下さい。えーとあの、あれ、霊的な何かって事は無いんですか? 魂に力が宿るー、みたいな」
「無い」
「い、言い切りますね」
「俺は魂も神も魔法も信じていない」
黒沢が形容しがたい微妙な顔をした。
「魂と神様はとにかく魔法を信じていないって……じゃあ私達は何使ってるんですか」
「超能力」
「超能力と魔法で何が違うんですか?」
「科学臭がするかしないかだろ」
黒沢は小さく笑った。
「先輩、時々凄く適当ですよね」
「自覚はしてる」
カフェオレのお代わりに行こうと腰を上げた途端、近くから携帯の着メロがした。ベートーベンの「運命」は妹からだ。
黒沢を見ると首を傾げた。同じ着メロを使っているなんて事は無いよな。俺のか。マナーモードにするのを忘れていた。ポケットから携帯を取り出す。
「もしもし」
「……………………」
長い沈黙。
「何か用」
か、と言い終わる前に切れた。何だ?
「誰ですか?」
「あー、妹からの悪戯電話?」
「誰からか分かるのに携帯にイタ電する人なんています?」
「だよな」
気になって着信履歴を見る。やはり妹の番号だった。
「電波が悪かったのか?」
それとも間違って短縮ダイヤルでも押したか、と携帯をポケットに戻すと、黒沢が妙な顔をしていた。
「どうした」
「……何か、嫌な予感がします」
嫌な予感? 電話番号を間違えるくらい珍しくも無い。
「それは能力の判定か?」
「違いますけど……女の勘です」
女の勘も男の勘も精度は同じだと思うがそれはとにかく。
右目を一度閉じ、妹を思い浮かべて一秒後の未来を指定。目を開く。
「……?」
真っ暗だった。予知は対象者の視点を借りる。相手が目を閉じていれば何も見えない。寝ているのか? ……いや、今日はデートだと言っていた。そんなはずはない。
左目でちらりと黒沢を見る。コーヒーカップ片手に立ったままで静止する俺を不安げに見ていた。
黒沢の嫌な予感が伝染した。時間指定を切り換える。三十秒、一分、五分、十分、三十分、一時間……二時間を超えると暗闇に光が差した。光が戻る瞬間に布と誰かの手が見える。妹は目隠しをされていた。
モノクロの景色はどこかの廃ビルのようだった。コンクリートがむき出しの床に角材が転がっている。その角材を踏み付け、気色悪い笑顔を浮かべた男が数人。ビデオカメラを片手にこちらに手を
「ち!」
一瞬で事態を把握した。妹が腐った屑共に拘束されている。何をされたか、いや何をされるかは想像に難くない。
即座に行動を開始した。右目の予知の時間をずらし、現場の光景を探しながら黒沢に端的に説明した。
「妹が不良に襲われた。助けに行く」
瞬間、黒沢の目付きが変わった。おどおどした雰囲気が鋭くなる。
「私も行きます」
「相手は最低でも男三人だ。戦力は多いに越した事は無いが危険過ぎる」
「能力があるじゃないですか簡単には負けません支払いはまとめて私がします行きましょう!」
早口で言いながら既に黒沢は財布を取り出していた。
……ああ、訂正しよう。黒沢は弱気弱腰で役に立たないと思ったが、なかなかどうして勇敢ではないか。切り替えが早い。確かに能力を上手く使えば力で劣る女でも男を圧倒できる。
「分かった」
俺は頷いて出口に走る。丁度店員がカルボナーラを持ってきたが、俺と黒沢のただならぬ様子に困惑していた。
そこに黒沢が「ごちそうさまでした!」と千円札を数枚押し付け、よろめく店員を尻目に俺は傘立ての傘を引っ掴んで店を飛び出す。背後から皿が割れる音がした。
「ああぁあ、畜生駄目だ!」
飛び出したはいいが行き先が分からない。妹は目隠しを外された後失神したか眠らされたらしく、次に映る光景は警察署らしき建物の内部だった。予知能力では過去を見れない。妹が今どこにいるのか分からなかった。
「こっちです!」
黒沢が俺を追い抜いて駆け出した。一瞬呆気に取られたが、すぐさま後を追った。『どちらに妹がいるか?』東西南北か道の枝分かれかは知らないが、黒沢は自分に幸運を、有利をもたらす選択肢があれば選ぶ事ができる。
細い路地を幾つも突っ切り、恐らくは最短経路で現場に向かう。
よどみ無く前を走る黒沢に妹の安否を聞こうとして止めた。黒沢の能力はあくまでも『幸運選択』。『今現在妹が無事かどうか』には答えられない。
現場に到着したとして、多勢に無勢。走りながら何か武器になるものはないかとポケットを探ったが携帯と財布しかなかった。
「…………ちっ!」
携帯には『充電して下さい』の文字が表示されていた。バッテリー切れの役立たずな携帯で警察は呼べない。餅は餅屋、警察なら中高生より事件への対応は数段優れているに決まっている。レストランで電話を借りれば良かったのだが、余りに慌てていて失念していた。
「黒沢、警察に電話!」
「ケイタイ忘れました!」
お前もか!
幸運選択なんてインチキ臭い能力を持っている割に素の運はそれほど良くない。こちらの武器は傘一本か。
こうなったら通行人に携帯を借りるかと考えた所で黒沢が立ち止まった。荒い息で叫ぶ。
「このビルです!」
建設途中で廃棄されたらしい寂れたビルだった。屋上で汚れたブルーシートが曇り空を背景にはためいている。入口の前には鉄骨が詰まれていて入れない。
迷わず裏に周った。どこかに従業員用の裏口があるはずだ。
ここまで来たら自分達で解決した方が良い。巧遅より拙速。警察を呼ぶ暇は無い。
窓があれば割って入ろうと思ったが、裏口の方が先に見つかった。作り掛けでガタついたドアには錠前がかけられていた。数字錠だ。
「南京錠じゃなくて助かった……黒沢!」
「え? あ、任せて下さい!」
追い付いた黒沢が錠を手に取る。迷い無くダイヤルを回し数字を合わせると、カチリと音がして鍵が外れた。
ほとんど蹴破るようにして突入する。乱暴に開けられたドアが壁に跳ね返って大きな音を立てた。薄暗い部屋の埃が舞い上がる。見回したが妹の姿は無い。壁の向こうから慌てたような人声が聞こえた。
「隣の部屋です!」
ああ分かっている。幸い部屋にドアはとりつけられておらず、一度廊下に出て隣の部屋になだれ込んだ。
中にいた男達が一斉に振り返る。全部で三人。髪を茶色に染め、耳やら唇やらにピアスを刺していた。
不良達は度肝を抜かれた様だったが、警察ではないと分かるとあからさまにほっとした顔をした。
それを無視して妹の姿を探す。すぐに見つかった。目隠しをされて猿轡をかまされ、両手を縛られて一番背が高い男の背後に転がっていた。両足は男の一人が押さえている。
乱れているが服はしっかり着ていた。安堵の息をつく。最早七割は解決したようなものだ。後は不良をのせばいい。
「おおっとぉ動くんじゃねぇ。こいつもてめぇらもケガぁしたかねーだろ?」
なんとも分かりやすく背の低い男がバタフライナイフをちらつかせた。単純で使い古され、それ故効果的な脅し。
こいつ等は突然の侵入者にも割と早く冷静さを取り戻した。こういう状況に経験があるのだろう。何度も同じような犯行を繰り返しているという事だ、反吐が出る。
しかし半端な自信を持っているからこそ安心できる。本当に手慣れた奴なら妹にナイフを突き付けるなりするだろう。そうなれば流石に予知も幸運選択も無力だ。
「手ぇ上げろ。女はこっちに来い。男は傘捨てて壁に行け。どうせ喧嘩なんざできね~んだろ糞モヤシ」
優位を確信したからかこちらを嘲り高飛車に要求する。
俺達は顔を見合わせ、場違いにも笑ってしまった。確かに喧嘩の経験など小学生低学年のど突きあいがせいぜいだった。が、人質がいようが負ける気はしない。
こういう場合の能力使用についても話しあった事がある。
「喧嘩ができない、ねぇ……やってみるか?」
既に全力疾走で乱れた息は整った。言われた通り傘を捨て、しかし壁には向かわず不敵に笑うと僅かに怯んだが、虚勢と見たのか殴りかかって来た。同時に横で黒沢が別の不良に向かって飛び出すのが見えた。
右目に映るのは一秒後の未来。狙いは腹か。俺は余裕で不良の右ストレートをかわし、顔面に全力でカウンターを叩き込んだ。硬い感触、綺麗に拳が鼻面にめり込む。実践経験皆無だが、体は暖まりアドレナリンの分泌で恐怖も無い。
男は一撃で沈んだ。鼻を押さえ、呻き声を上げてのたうつ馬鹿の腹を踏み付けて黙らせる。はっとして黒沢の助けに入ろうとしたが、振り返るとナイフを持った男の股間が痛烈に蹴り上げられたところだった。
「……酷いな」
男達は三人とも言葉も無く倒れ伏していた。黒沢は二人倒したのか。喧嘩に法無しとは言え恐ろしいまでに情け容赦の欠片も無い。俺が一人倒す間に二人倒したということは、急所攻撃を躊躇う事も無かったのだろう。きっと今の俺の顔は青褪めている。黒沢も流石に悪いと思ったか、両手を合わせて拝んでいた。
緊迫した空気は霧散霧消していた。情けなく痙攣する不良二人。一人低い呻き声を上げる余裕があるノッポは幸運だ。なんつースピード解決……
ノッポを足で乱暴に脇に退し、妹の目隠しと猿轡を解いた。両手を縛る縄は黒沢が不良から奪っていたバタフライナイフで切断する。
自由になった妹は何も言わず、俺達を無視して険しい顔で即座に立ち上がると不良達の頭を順番に蹴り飛ばした。蹴る時に女らしからぬ口汚ない罵声も出ていた。
……いや、女々しく泣いて縋りついてくるような事は無いだろうなとは思っていたが、貞操を奪われ掛けておいてここまで胆力を発揮するとは思わなかった。男よりも男らしい。
後から恐怖が追い付いて来たのか妹の剣幕に押されたのか、怯え始めた黒沢の肩を軽く叩く。大丈夫だ、普段のあいつは俺と同じ面倒くさがりだから。スペックは俺より数段上だが。落ち着けば大人しくなる。
さて、喉元過ぎれば熱さ忘れると言うのか、そろそろ妹の怒りをぶつけられて段々負傷度合いを増していく不良達が可哀相になってきた。あたり散らす妹にそっと声をかける。
「あー、最早手遅れだが過剰防衛にならない程度にな。怒る気持ちは分かるが」
今度は小太りの不良の胸倉を掴み上げ、頬を往復ビンタで腫れ上がらせていた妹は突然動きを止め、機械の様にぎこちなくゆっくりとこちらを向いた。俺達を見て目を瞬かせる。
「あれ、居たの兄貴……と?」
「後輩(予定)の黒沢。助けられておいてあれ居たの、は無いだろ」
「……ああそうだよね。えー、と、本当は110番しようとしたんだけど時間的にワンプッシュワン切りが限度でさ、一緒に居た彼氏は真っ先に逃げるしー」
先程まで暴れていたのを誤魔化す様に早口で喋る喋る。恥ずかしいのか。
「――それでもう駄目かと思った時に……そういえば何でここが分かったの? 警察にはもう知らせた? その子は?」
黒沢の肩がびくっと震えた。反応しすぎだ。こんなもの適当に受け流せばいい。
「携帯のGPS機能で。警察には電話する余裕が無かった。こっちは偶然居合わせた東高志望の友人だな。中三」
「ふーん……私の携帯GPSついて無いんだけど。電源切れてたし」
墓穴掘った。
「言い間違った、単なる勘だ」
「言い間違ったってそれ……まあ助かったし良いけど」
兄さん勘が良いからね、と続け、自分の携帯を操作する。悪い、本当は超能力だ。今は無理やり誤魔化されてくれ、百年以内には話す予定だから。
隣では黒沢がほっと息をついていた。小声で注意を促す。
「一喜一憂し過ぎだ。もっと堂々としていろ、反応でいつかバレるぞ」
「ご、ごめんなさい、十年くらいずっと隠してたので、その……」
弱気モードに入った黒沢を窘めつつ横目で妹を見ると友人に電話していた。警察じゃないのか?
「もしもし美紀ー? ちょっと困った事になってさ、手、貸して欲しいんだけど……うん……そう。駅前の廃ビル分かる? そ。じゃ、三人分後始末頼むね。キツ目に。ホント今回は危なかったから……あはは、気をつける気をつける。じゃねー」
美紀? 確か例の妹の大金持ちの友達だ。……内容的に何の電話かは聞かない方が良さそうだな。それに『今回は』か……俺の知らない所で危ない橋を渡っていたらしい。後で釘を刺しておこう。
携帯を閉じ、妹は俺達に向き直ると値踏みするように黒沢を見た。黒沢はおどおどと俺の後ろに半分隠れて服の端を握る。おい止めろ、妹がニヤついてるだろうが。五分前の蛮勇はどうした。
「彼女ー?」
「まさか」
「隠さなくても。あんなにそわそわメール待ってたじゃない? 相手はこの娘なんでしょ?」
「それはそうだが違う」
「どっちよ」
顔が良いのでニヤニヤした薄ら笑いですら様になる。俺がやっても気持ち悪いだけだ。
しつこく追求してくる妹に、処置無しと空……もとい漆喰の天井を仰ぐ。ああ説明が面倒くさい。もうどうにでもしてくれ。
こうして人生で一番の奇妙な夏は終わりを告げた。
目の前にはそろそろ復活し始めそうな不良、隣には妹と妹に絡まれキョドる――――友人。
この背中を預けられる安心感と信頼感の源は単なる吊橋効果なのかも知れない。しかし今までは情報交換相手としてしか見えかった白黒の相手が急に色づいて見えた。
良くも悪くも人は変わる。これが良い変化なのか悪い変化なのかはまだ分からないが、少なくとも悪い方向に転がる気はしなかった。
END
もしも超能力が現実世界に存在するなら多分こんな感じのはず。
この話の設定に則ればノストラダムスの大予言も予言が行われた時点では本物だった可能性がある。予言から長い時間が経ち他の超能力者達によって細かい誤差が生まれ積み重なり、結果的に予言は覆された、と。
もっとも作者は神も魔法も超能力も全く信じてないんですけど。そのくせファンタジー好きでファンタジーしか書かないのは届かない夢というかなんというか……
題名のラプラスは「ラプラスの悪魔」からとっています。情報収集の手間を省き膨大な情報を手に入れそれを瞬時に分析できるのならそれは予知になる。主人公の力も黒沢の力も結局はただ情報を手に入れているだけで、物理法則を揺るがす事は何もしていない。その情報はどこから手に入れたんだと聞かれると弱いんですがまあ気にせず。
では最後にここまで読んでくださった読者の皆様に最大限の感謝を。ありがとうございました。